信仰論の発展段階

『「信仰と愛」の論点』から

 幸福の科学の信仰論に発展段階があります。それも五段階があるという。

第一段階 霊知識の普及  

 幸福の科学の歴史を見ますと、『日蓮の霊言』から始まっていますが、 当初は霊知識の普及が中心で、信仰についてはあまり出されていませんでした。従って、当時の状態は、まだ宗教と言える段階ではなくて、あの世や霊人が実在することの証明ができればよいという段階でした。

 霊言集が出されたからこそ、皆が集まってきたということがありますので、必要なステップだったのです。

第二段階 多様な支援霊信仰  

 その後、「幸福の科学」が設立されて、入会制度もできました。それで、霊言を読んで学びたいという人たちが集まってきたのです。そのときの信仰形態は、それぞれ自分の好きな霊人を信じてもいいですよという、非常に間口の広い信仰の形態となりました。日蓮が好きな人は日蓮を信じればいいし、親鸞が好きな人は親鸞を信じていいという具合でした。  

 ところが、皆バラバラで、「このままでは、教団として、同じ塩味がする大海の水のようにはならない」という状況だったのです。それで、1989年ごろから、「信仰心が大事である」と大川隆法総裁が言い始められたのですが、 まだ、三宝帰依体制まではまで行けませんでした。なぜなら三宝である「仏・法・僧」の「僧」の部分が十分でなかったので、三宝帰依を説けない状況だったのです。この段階が多様な支援霊信仰の段階だったのです。

第三段階 神信仰  

 大川隆法総裁は、信仰を統一させるために、信仰の対象として「十次元存在がある」というお話しをされたり、「究極の神、抽象的で漠然とした崇高な神がある」と説かれました。このとき、大日意識の一部が人格化するときの名を「聖アントニウス」と呼ばれ、方便として紹介されたこともあります。このときは、まだ三宝帰依体制も整っていない段階で、ご自分が本仏でありエル・カンターレであると名乗られても、皆が理解できない状態だったので、「神信仰」を出されたのです。

第四段階 三宝帰依  

 1994年の春に、幸福の科学が宗教法人格を取得してから3年が経ち、仏教理論を中心に固まってきたので、総裁は三宝帰依体制を立ち上げられました。  そして、当初、個性ある霊人の考えを出すことによって、あの世が実在することの証明としてきたところがありましたが、 その方便と決別して、仏陀意識に統一し、三宝帰依体制に統一されたのです。従って、「仏・法・僧」の三宝に帰依することによって、より求心力が高まったということがいえます。

 一方、霊言集を出した理由については、あの世の存在証明のほかに、寛容さを持つことの意味もあったと、総裁は次のように述べられています。

「これは将来、幸福の科学を中心にして、キリスト教のような迫害、すなわち、異端者を十字架にかけたり、異教徒を殲滅したりするような ことが起きないための防波堤として、異質な考え方が存在する余地を残してあるのです。「最も優れている教えはこれだが、方便的な教えとしては、こうしたものもありうる」と言っておくことは、一種の寛容さなのです。」

 ここまでして、未来に信者同士が異端者を迫害したりすることのないように配慮をされていたということなのです。  そして、総裁は、三宝帰依体制は当分のあいだ続くだろうとおっしゃっています。また、それと同時にエル・カンターレ信仰がかなり 強く出てくることも予言されているのです。

第五段階 エル・カンターレ信仰  

 このエル・カンターレ信仰が出てきますと、三宝の「仏」の部分で、インドの仏陀超えます。 なぜなら、エル・カンターレがインドの仏陀より上位の存在であることが明確になるからです。 その部分について総裁が述べられています。

「私が生きているあいだは、エル・カンターレ信仰と三宝帰依は分離せずに一体です。従って、当会の信仰と二千数百年前の仏教教団の三宝帰依との 違いは、「仏」のところに、いわゆる「人間・仏陀」的な部分を超えたものが入っている点にあります。  これは時間の流れとともに明確化してくるでしょう。当会がもう少し拡大すると、救世主的な部分がさらにはっきりとしてきます。」

 仏陀も方便にて多くの衆生を導かれました。たとえば、『法華経』に「五千起去」という言葉があります。 これは、ある日突然、釈尊が今まで説いた教えはみな方便だったのだよと言ったら、それを聞いた弟子たちのうちの五千人が、今まで勉強してきたことが方便だったと聞いて憤慨して去って行ってしまった、という出来事をあらわす言葉として今でも残っているのです。

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