税制改正・所得税に流れる「鼠小僧の経済学」

 とある夜、江戸某所のボロ長屋で、親子が質素に食事をしていた。すると表戸から「チャリン」という音がする。家の者が戸を開けると、目の前に小判が落ちていた。驚いて上を見る。すると、屋根の上を、全身黒づくめで手ぬぐいを頭に被った小柄な男が千両箱を担いで走り去っていくのが見えた。

 同じく、小判を得た町屋の人たちが、次々に表に出てきてこう叫ぶ。

 「ありゃ鼠小僧にちげぇねえ! 武家の屋敷から盗んできたんだ。ありがてぇ!」

 貧しい町屋は、一気に湧いた。

 時代劇などにおける「鼠小僧次郎吉」のお馴染みシーンである。

参考

犯罪人をもてはやした江戸時代の人々

 鼠小僧は、いわゆる「義賊」の代表として知られる。「義賊」とは、「金持ちから金品を奪い、困っている者に分け与える盗賊」のこと。その逸話は歌舞伎などにもなるなど当時の民衆にもてはやされた。

 しかし、史実として「盗んだ金を人々に分け与えた」という事実はなく、人々が流したデマに過ぎなかったようです。

 実際は、鼠小僧はただのろくでなしだった。仕事をするのが嫌になって家から追い出され、博打や女遊びにのめりこみ、金に困った。そこで、仕事で出入りしていた関係で、内情を知っている武家屋敷99カ所に122回にわたって忍び込み、合計3200両余りを盗み出したのである。盗んだ金は自分の遊びに使っていたとか。

 天保3年(1831年)、次郎吉はとうとう捕縛され、市中引き回しのうえ、死刑となった。にもかかわらず、「盗んだ金を貧乏人に恵んだ」などという噂が立ったのは、その行為を支持する声が少なからずあったことを意味する。金持ちが被害に遭ったことで、人々はよほど胸のすく思いをしたのだろう。少しぞっとする話ではある。

 

「再分配」を正当化する理論と哲学

 もちろん、政府が行うことなので、再分配にも それなりに学問的な正当性があるとされる。

 一つは、「効用分析」という考え方に基づいた理論である。

 「1円当たりの効用(幸福度)は、高所得者よりも低所得者の方が大きい。したがって、高所得者から、低所得者に所得を再分配することで、社会全体の効用が増える」という考え方である。

 これを、お白洲に出された鼠小僧の弁明のように言い換えるとこうなる。

 「あんたら大金持ちが1両盗られたところで、さほど悲しくはないだろう。でも、俺たち貧乏人が1両もらったら、その何倍も嬉しいんだ。だから、金持ちから盗った小判を貧乏人にまいたほうが、世の中全体の喜びの合計が大きくなるじゃないか」

 再分配の根拠としては、一時期もてはやされたロールズの『正義論』も挙げられる。

 「自分がどのような地位につくか、自分がどんな能力や才能を持っているか、などについては誰も知らされない状況を想定しよう(無知のヴェール)。そうすれば、誰もが『最も不遇な人々の利益に資するように所得などを分配することが正義に適う』と同意するはず」という考え方である。

 これを鼠小僧的に言えば、次のようになる。

 「あんたら金持ちのお侍だって、来世は俺たちみたいな貧乏人に生まれるかもしれない。もし本当にそういう立場に立ったら、あんたらだって、金持ちが貧乏人に金をまいてもいいって絶対に言うはずだ」

 経済学者や財政学者は、こうした再分配の正当性を「公正」という言葉で呼んでいる。「公正」と言っても、日本の学者が訳した言葉で、元々の英語は「justice(正義)」である。

 

「異常性を意識すること」で日本が変わる

 しかし、いかに学問的な装いをまとっていようとも、「正義」と呼ぼうとも、鼠小僧の犯罪行為をも肯定しかねない理屈になっている。結果的に、「人のものを奪うなかれ」という最も原始的な正義を踏み越えてしまう。

 身分が固定された封建時代であれば、「持てる者と持たざる者」がいることに理不尽さはあったかもしれない。しかし、現代であれば、基本的に「いかに汗と知恵をいかに絞ったか」「いかに消費者に奉仕したか」に応じて所得が決まるようにはなっている。そうした中で、高所得者から所得を奪うことを正義と言い切ることはできない。

 クーリッジ米大統領(在任1923年~29年)は、「必要以上の税を集めるのは合法的強盗である」という言葉を残した。同じように、現在の税制の中にも「鼠小僧の経済学」と言うべきものが流れている。

 日本人がこの異常性を意識することが当たり前のように税率が上げられ、経済成長を圧迫する「増税ラッシュ」を止める鍵になるのではないでしょうか。

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