植物の魂

植物にも魂は宿っている

 幸福の科学の仏法真理に照らし合わせると、私たち人間の本質は肉体ではなく魂です。人間のみならず動物にも魂が宿っており、この地上でさまざまな経験を積むことで魂を磨き、永遠の向上を目指しています。

 それでは、植物はどうでしょうか。植物は人間や動物と違い、自分の意志で動いたり、しゃべったりすることはありません。

 幸福の科学大川隆法総裁は、2010年に行ったブラジル説法での質疑応答で、ベジタリアンに関する質問を受け、植物の魂について以下のように述べています。

「植物にも、かわいいかたちではありますが、ささやかな魂は宿っているのです。植物は、動物のように激しく動くことはできませんが、長時間、ビデオカメラで撮影し、それを高速で再生すると、植物も、ゆっくりとではありますが、やはり動いていることが分かります。彼らも生きているのです」

「植物であっても、喜びを感じます。例えば、暑い日が続くときには、雨が降ると喜びますし、曇りの日が続くときには、太陽の光が射してくると、やはり喜んだりするのです。つまり、単純な意味での喜びや悲しみは植物にもあるわけです」(『真実への目覚め』)

 人間や動物と同様、植物にも魂が宿っており、きちんと感情もあるということです。

 

古木はかなり人間的な意識を持っている

 植物の魂とは どのようなものでしょうか。総裁は、その姿かたちについて、書籍『幸福の原理』で次のように記しています。

「植物の魂というのは、ちょうど私の目から見ると小人のような形で、やはり人間のような姿、形をしているのです。霊視をすると、小さなものでありますが、おとぎ話のなかで見るような、ああしたメルヘンのなかに出てくる妖精のような姿を実際にしております。そして目もあるし、鼻もあるし、口もあります。語りかけることも可能であります。魂としては、そういう形を持っているのです。しかし、彼らも地上を去って天上界に還ってくると、個性化が進んでいる花というのは、そうたくさんはないのです。草花の場合には個性化がそれほど進んでいないから、天上界においても、だいたい群生して共同生活をしているのです。」

「ところが、植物のなかでも大きな木というのがありますね。樹齢何百年というような、そうした大きな木。神社なんかに行くと大木が立っておりますが、ああした樹齢何百年というような木になってくると、相当個性化が進んできているわけです。そしてその神社なら神社で何百年の生涯を送っている間に、神社にまつわるさまざまな歴史というものを見てきて、かなり人間的なる意識というものをきざみこんでおります。こうなると、あの世に還っても、その木は木の意識として、個性あるものとして生きています。こういう場合があります。」

参考

植物はなぜ創られたのか

 自由性・創造性において、人間がより神に近い存在であるということは言えるだろう。

 けれども、動植物の魂はいろいろな形態で現われ、特質が違っているのだから、その幸福感の上下は一慨には言えない。

 植物には、人間にはわからないような幸福感があるかもしれない

 大川隆法総裁は、『説法自由自在③ 真理の発見』で以下のように説かれました。

「やはり発現形態に差を認めている部分はあります。たしかに人間と植物とを比べてみて、植物はずいぶん不自由しているのではないかと同情する向きもあるかもしれませんし、出発点が違うではないかという考えもあるでしょう。
 しかし、植物のほうがいいかもしれない面もなきにしもあらずですね。じっとしていれば下から水がシューシュー上がってきて、光合成をしていられるのですから。私は光合成の気分はわからないけれども、日光浴をすると、ご飯が胃のなかにたくさん出てくるような感じなのかなと思ったりします。「うれしいな、陽があたってあったかくなって、おいしくなって、甘くなってきた。」というような感じがして、花をパッと咲かせたら、ミツバチなどがいっぱい飛んできて、「ああ、うれしい、よくモテるよ。」というふうに、けっこう幸福かもしれないですね。
 一方、植物のほうから人間を見たら、「何か試験でしぼられて、えらく厳しいし、あんな地獄みたいな生活をやっている。私たちはただ光合成をして、水をシューシュー吸っていれば、ミツバチに人気が出ていいのに。」というふうに思っているかもしれません。
 ですから、このへんはなんともいえません。幸福感をどこではかるかです。シンプルだから程度が低いとはいいかねる面があります。
 私たちはどんなに頑張っても、スミレの花のようなきれいなものはつくれません。彼らは咲き誇っているのかもしれませんよ。女性であれば超美人かもしれません。人間の女性と比べても、これも基準がないから比べられませんが、私はスミレの花のほうがきれいではないかと思うことがよくあります。彼らから見れば、あんなひどいかっこうをして、ひどい顔をして、よく生きていられるものだと思っているかもしれないですね。
 ですから、いろいろな魂の顕現はあるけれども、その上下というものは必ずしもわかるものではないのです。ただ、自由性・創造性において、人間がより神に近いところにあるということはいえるでしょう。人間が動物や植物よりも上ということはいえるけれども、しかし、それぞれの幸福感という意味においては、必ずしもわかりません。ひじょうにインテリといわれても、ノイローゼを起こして死んでしまうような人もいます。鉄道自殺した植物というのは聞いたことがありません。猫はたまに車にひかれることもありますが、そういう意味では、猫は植物よりも不幸かもしれないのです。それはわからないわけです。それぞれの段階で、やはり私たちにはわからないような幸福感があるかもしれないのです。それは認めなければいけないと思います。」
(134~136ページ)

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