生物進化の見方 唯物論的進化論

進化論の生んだ果実

 幸福の科学大川隆法総裁は、「ダーウィンの『唯物論的進化論』は、マルクスを狂喜させ、政治経済面で共産主義・社会主義となって、全地球を侵食した。またニーチェをして『神は死んだ』と叫ばせ、神に代わる超人としての『ヒトラー』をも出現させた。百五十年の歳月を経て、今、日本の教育の根本にあるガン細胞を、ここに摘発する」(大川隆法著『進化論─150年後の真実』まえがきより)

「歴史に『IF』が許されるなら、『心霊主義』と『進化論』の両立を信じて疑わなかったウォーレスの名において、現在まで『進化論』が語られていたなら、かつての『ソ連邦』も現在の『中華人民共和国』もなかったはずである」(大川隆法著『進化論─150年後の真実』あとがきより)と指摘しました。その影響はソ連や中国といった唯物論国家の成立にまで及んだと指摘しています。両国とも、数千万人もの自国民を粛正し、葬った国家です。

参考

 もし、物質的な素材から、ある時、たまたま微生物ができ、それが多細胞生物となり、植物、動物へと進化して、ある時、サルから人間が分かれ、心が生まれ、文化をつくり、文明をつくり、神という概念をつくり、宗教をつくったというのであれば、信仰の価値はゼロでしょう。

 そうした考え方が、いつの間にか支配的になることを望んだ者たちがいたに違いありません。しかし、「人類が生存する以前から時空間を超えた絶対の愛、慈悲なる存在があった」というのが真実です。

 ダーウィン以前にも、生物進化の可能性は論じられてきました。ダーウィンより半世紀ほど前、フランスの生物学者ジャン=バティスト・ラマルクは、「至高の創造者の意志のもと、自然には生物個体の身体に変化を与える傾向がある。動物個体にも内部から継続的な要求があり、それが器官の発達を促し、子孫に保存される」ということを説きました。

 ダーウィンの同時代にも、「神による進化の後押し」、あるいは、神秘主義的な介入と進化論とを融合させようとする論調はかなり多くありました。ダーウィンの自然選択説は、生物進化の普及に影響を与えた仮説の一つですが、ダーウィン論とは異なる有神論的進化論の果たした役割の方が、生物不変説という固定観念からの脱却に果たした影響は大きかったようなのです。

 ところが、「ダーウィンの主著『種の起源』が、宗教が押しつける教義を打ち払って、華々しく世に出た」というような印象が、後世につくられました。どのような経緯があったのでしょうか。

 20世紀以降は、メンデルの「遺伝の法則」が知られるようになります。例えば、黄色い豆・緑の豆、しわのない豆・ある豆など、生物の形質の違いは遺伝子によって決まり、子孫がどちらの形態を示すかは、自然選択とは関係がないと考えられた時期がありました。そのため、1940年ごろまで ダーウィニズムは衰退状態だったのです。

 その後、自然選択説とメンデルの法則とを融合させたかたちで、進化論(ネオダーウィニズム)は復活しました。そのころには、有神論的な進化論の面影はすでに失われていました。当時の思想の影響が大きかったと言えます。

 

ダーウィニズムは科学以外のところで利用された

 ダーウィニズムは、当時の進歩思想と相まって、帝国主義者や全体主義国家、博愛精神なき資本家などに都合よく解釈され、社会思想として広まりました。彼らにとっては、神なき世界観のほうが都合がよかったのでしょう。生物学者は、「ダーウィン理論は生物学として広まった」と考えているかもしれませんが、むしろ思想として広められたのです。

 ダーウィンにも、白人優位の考えから来る人種差別を自然選択説で解釈する傾向がありました。例えば、当時の白色人種は、頭蓋骨のある部位を計測して得られた「ゴリラ55度、化石猿人77度、黒人80度、日本人85度、スイス人90度」という数値を見て、「これが進化の過程だ」と喜んで信じました。

 これに対し、保守評論家の渡部昇一氏は「『そんな馬鹿な話はないだろう』ということは、日本人が法隆寺を建てていたころにスイス人が何をやっていたかを考えれば、すぐ分かる」と喝破しています。

 一方、科学の分野においても、ダーウィニズムは思想として広まり、定着しました。生物進化自体は科学の扱う領域ですが、あくまでも、「生物に魂や目的などない」という条件下でのみ有効な理論に過ぎず、唯物論が正しいかどうかは、科学では証明できません。

 唯物論と近代科学の有効範囲は重なっているため、生物進化を科学的に扱おうとすると、「物体」としての生物で説明し切れる論理に軍配が上がるでしょう。しかし、生物は「物体」以上のものと確信できる人にとっては、ダーウィニズムは不完全で不十分な理論なのです。

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