ほんとうの成功

 愛なき成功は、ほんとうの成功ではない。

 愛ある成功のための第一は他人に対する限りない関心、第二は自己内部への洞察である。

 そして、第三は その愛を大きくしていこうと常々願っていることである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『成功の法』で以下のように説かれました。

「成功について話をしているわけですが、私は、成功哲学のなかには、どうしても、「愛の思い」というものを含まざるをえないと思うのです。
 幾つかの成功談を読み、幾つかの、成功学についての本を読むにつけても、愛ということに触れてあるものは、そう多くはないように感じます。しかし、私には、愛の思いを介さない成功というものは、底が浅いように思えてなりません。その人が、ほんとうに成功した人であるかどうかは、愛の思いを持ちつづけることができたかどうかに、深くかかわっているのです。
 私は、「金銭的に大儲けをした」とか、「会社が大きくなった」とか、「地位が上がった」とかいうようなことだけをもって、「成功した」とは、とうてい思えないのです。「成功した」と言えるためには、そういう外面的な成長は必要なものではありますが、その奥に、心の奥に、愛の思いが燃えつづけているということが大切だと思います。愛なき成功は、ほんとうの成功ではないのです。
 愛がない人には、ほんとうの意味で、「人類を幸福にしていく」ということや、「他の人々を幸福にする」ということは、分からないに違いありません。しかし、他の人を幸福にすることができなくて、いったい何の幸福でしょうか。何の成功でしょうか。自分一人が「成功した」と思っても、周りにいる人たちが悲しみに沈んでいたら、それが、いったい何の成功でしょうか。それで、どのような成果をあげたと言いうるのでしょうか。
 私は、愛の思いを持ちつづけることは、とても大事なことだと考えています。そして、できうるならば、「愛の思いを持ちつづけた」ということが何らかの感化力となって、多くの人々を教化できることが、素晴らしいことだと思うのです。
 それでは、この「愛の思い」とは、いったい何なのでしょうか。何をもって、愛の思いとするのでしょうか。私は、ここでも、三つの事柄を挙げておきたいと思います。
 愛の思いとは、まず、他人に対する限りない関心です。
 第二は、自己内部への洞察です。
 自分の内を深く深く見つめ、自分のなかに、ほんとうによいものを掘り出したことのある人でなければ、真実の愛というものは分からないのではないでしょうか。自分の心の奥を深く深く見つめながら、真実の愛、真実の自己というものに出会ったことがなければ、愛の思いは、おそらく分からないでしょう。真実の自己というものは、それほどまでに大事なものなのです。この素晴らしいもの、素晴らしい自己に出会うことなくして、愛というものは分からないのです。
 三番目に大事なことは、「その愛を大きくしていこうと、常々、願っている」ということです。「愛のなかに発展の思いを抱く」ということです。
 小さなもののなかに、いつも満足していてはいけないのです。小さな自己満足や小さな善意だけでもって、「愛の思いを遂げられた」と思ってはいけません。「愛は、そのなかに発展を含むものだ」と私は考えるのです。」
(24~28ページ)

 

人格向上のための三つの条件

 真なる成功は気高さを伴う。それは、その人の霊格、あるいは人格が高まっているということでもある。

 人格向上のための条件は、第一に、より高い見識を持てるようになること。第二に、強い感化力が備わってくること。そして第三に、寛容さが高まること、である。

 自分自身がいかに不完全な人間であるか、にもかかわらず、いかに多くの人に許され生かされているかを知ったときに、その自己認識は必ずや感謝を生み、この感謝が他人への寛容さとなって表れていく。

「真なる成功は気高さを伴うものなのです。真なる成功は、確かに、富を伴うことも、社会的名声を伴うことも、地位を伴うことも、人の称賛を伴うこともあるでしょうが、私は、「その人自身に気高さが伴うことこそ、真の成功である」と言えるのではないかと考えるのです。

 これは、結局において、「その人自身の霊格が高まっている」ということでもあると言えましょう。「霊格」という言葉に、なじみが深くないならば、それを「人格」と言ってもよいでしょう。
 私は、人格向上のための三つの条件を、ここに挙げておきたいと思います。
 第一は、「より高い見識を持てるようになる」ということです。
 それは、どういうことかというと、「数多くの人の相談事に接して、解答を出すことができるようになる」ということです。それは、当然、「自分自身の問題にも解答を出すことができる」ということです。
 第二の条件とは、「感化力の強さ」ということです。人を感化する力です。「桃李もの言わざれども下おのずから蹊を成す」という言葉がありますが、こういう感化力を持っているということが、「気高さを有する人格へと向上した」ということの証拠であろうと思います。
 これは、実際に、そのとおりであって、人格が向上すればするほど、感化力というものが強くなります。それも、単に、言葉による感化力、行動による感化力というものではなく、その人の存在自体に伴う感化力が強くなっていきます。周囲に対して、自然に影響を与えるようになっていきます。自然に、そういう感化力が備わってくるのです。
 そして、周りの人は、「感化力」という、何とも言えない雰囲気のなかで、自然に向上を目指すようになっていくのです。
 人格向上のための第三の条件は、「寛容さが高まる」ということです。
 ある程度の人格の向上においては、「人々の心がよく見える。悩みがよく見える」という境地が伴うわけですが、この境地は、ともすれば、「他人の悪を見いだし、裁きの目が伸びてくる」ということにつながることがあります。他の人を裁きの目でもって見る傾向、つまり、「この人は、よい人か、悪い人か。有能か、有能でないか。性格に欠点があるか、ないか」ということを裁いていく傾向が出てくるのです。
 それゆえに、「気高く、かつ、幅広い人格」というものを築いていく必要があります。
 そのためには、やはり、寛容さが大事です。それは、「より大きな愛の目でもって、人を包み込んでいく」ということだと思います。「一対一で相対峙する人間同士」という目を持つのではなくて、より大きな愛で相手をくるんでいくことが大切なのです。これが寛容さです。
 そして、寛容さの基礎には、確実なる自己観照がなければいけません。「自分自身が、どれほど不完全な人間であるか」ということを十二分に分かっていなければ、気高さに伴う真の寛容さは生まれてこないのです。「このような不充分な自分ではあるけれども、現在、多くの人に許され、生かされている」という事実を知ったときに、その自己認識は必ずや感謝を生み、この感謝が他人への寛容さとなって表れていくのです。」
(成功の法53~60ページ)

 

天命のはずなのに成功しない人

 熱意が最も大事である。

 熱意の前には、頭の良さや体力の強さといった少々の違いはそれほど大した問題ではない。

 成功しないのは熱意が足りないのである。

 大川隆法総裁は、『経営入門』で以下のように説かれました。

「陶器は、いくら粘土や上薬がよくても、あるいは模様がよくても、窯の火の熱が足りなければ、よいものは焼けません。同様に、仕事には熱意が大事です。世の人々は、この辺を誤解していることが多いのです。
 成功しなかった人は、その理由として、「生まれた家が悪かった」「時代が悪かった」「お金がなかった」「学校時代に勉強ができなかった」「友人が悪かった」など、いろいろなことを挙げます。もちろん、そういう影響もあるでしょう。
 しかし、最後は熱意なのです。「あなたが成功しなかったのは、熱意が足りなかったからだ」ということです。ほとんどこれに尽きるのです。
 天命から外れていない仕事をしているのに成功しない場合は、「熱意が足りない」ということです。自分が本当に好きで、自分の生命を生かし切れる職業、仕事であったならば、熱意が湧いてこなければ駄目なのです。
 少々の能力差や身体的ハンディなどといったものは、熱意の前には吹き飛んでしまいます。年齢的なものもそうです。すべて吹き飛んでいくのです。
 成功しないのは、要するに熱意が足りないのです。一生懸命に不成功の言い訳を探したところで、どうなるものでもありません。
 勉強でも同じです。学校時代に勉強ができなかったことを、いくら言ってもしかたがありません。その後、熱意を持ってカバーするしかないのです。
 大学では、普通、四年間しか勉強しません。しかも、四年間まともに勉強している人はごく一部であって、ほとんどの人はそれほど勉強していません。したがって、社会に出てから、五年、十年としっかり勉強していけば、勉強不足は十分にカバーすることができます。それで済むことなのです。
 学生時代の不勉強をいつまでも言っていてはいけません。やるかやらないかは各人の熱意です。それだけのことです。
 「自分は過去にこうだったから、現在はこうだ」という説明をしているだけの人は、それだけの人間なのです。「過去はこうだったが、現状を変えよう」と思ったならば、そこを熱意で埋めていかなければならないのです。言い訳をしてはいけません。
 熱意は本当に大事です。『仕事と愛』には、釈尊、イエス、孔子、ソクラテスという四聖の例を引いて述べていますが、彼らがなした仕事は、単に頭が良いだけでできる仕事ではありません。
 救世の事業はすべてそうです。いくら頭が良くても、それだけでできるものではなく、やはり熱意が必要です。熱意が勝っているからこそ、人々が動いていくのです。
 師だけではなく、弟子も同じです。弟子の熱意がどれだけあるかによって、法が広がっていくこともあれば、広がらないこともあります。
 弟子が、「自分が尊敬されたい」という「奪う愛」の思いだけで仕事をしていれば、法は大して広がらないでしょう。しかし、「人々を救いたい」という気持ちが本当に強ければ、法は広がっていきます。そういうものです。
 熱意が最も大事です。熱意の前には、頭の良さや体力の強さといった少々の違いは、それほど大した問題ではないのです。」
(66~70ページ)

 

成功者から学ぶ

 失敗者への慈しみや同情の気持ちは大切にしつつも、成功者から学んでいくという気持ちを自らの心の傾向性とするように努力すること。

 成功者から学ぶためには、ケチをつける卑怯な心を持たないようにすること。

 さらに進んで、成功者を褒める努力をすることで、成功のイメージを肯定すること。

 総裁は、『人生の王道を語る』で以下のように説かれました。

「優秀だと思える人、自分もそう思っていますし、傍目(はため)から見てもこの人は優秀だと思える人が成功しない理由というのは、突き詰めていくと、たいてい、この一点になることが多いのです。それは、要するに自分より優れている者、強い者に負けたくないという気持ちがあって、成功した人の、その成功にケチをつける心が必ずあるということです。こういう心のある人が、残念ながら、優秀だけれども成功しないのです。やがて失敗していきます。
「あいつはたまたま運がよかったんだ」、あるいは、「あいつは要領がよかっただけなんだ」という言葉を使うことがよくありますが、こういう言葉は、これから幸福になっていこう、成功していこうと思う気持ちがある人は、絶対に使ってはなりません。
 他の人が成功したことを、その人の努力以外のそうしたものに帰してしまおうとする心、そして自分とは関係ないとする気持ち、これは無くさなければなりません。こういう気持ちがあると、成功した人のいいところを学ぶことができないのです。ケチをつける卑怯な心があると、学ぶことができないのです。
 成功者といえども、完全な人格ではないでしょう。自分のほうが勝っているところもあるかもしれません。しかし現に成功した人がいたなら、成功者は成功者として認めて、そのなかから参考になるところを学んでいく。これが自分も成功していくための方法なのです。その人にケチをつけ、批判をしたところで、一時的な気休めにはなるかもしれないけれども、自分が幸福になることもなければ、成功することもありえないのです。断じてこれを排除せねばなりません。嫉妬心はいちばん危険です。これが多くの人が成功していけない理由なのです。
 弱い者、失敗する者を愛する気持ち。これは、正義の観点からみて正しいこともあるけれども、幸福理論からいくと、そうした失敗する人ばかりをかわいがる気持ちがいつもあると、自分もいつしか不幸を愛していくようになり、決して成功できなくなっていきます。
 弱き者、失敗した者に対する慈しみ、同情というのは大事なことです。しかし、それが自分自身の心の傾向性になってはなりません。そうであっては、真に向上することはできないのです。やはり、成功していく者、強き者、立派な者から学んでいくという気持ちが大事なのです。
 自分は失敗して、人はうまくいったとき、まず、その人の悪口を言うことだけはやめる。いや、それだけではまだ足りない。やはり、その人を褒めなければいけません。その人を褒める、祝福する。そして、「立派な姿を見せていただいて、ありがたかった」という感謝の言葉を述べる。そうであってこそ初めて、自己の学びになり、自分の進歩になっていきます。
 自分がそのようになりたいならば、そのイメージというものを肯定することです。それによって、自分はそういうふうになっていけるのです。」
(103~107ページ)

 人柄もいいし、頭もいいのに成功できない場合は、志が足りない。

 志を持つことができるのは、人間として最大の才能の一つでもある。

 志は、感化力を持つ。不幸の底にあり、敗北の底にあっても、なお高い志のもとに生きていく姿を見せることが、多くの成功者を生み出していく秘訣である。

「それは「志」だと私は思います。志です。理想です。これなのです。これがなければ、いくら研究しても向上しないのです、発展しないのです。
 この理想を描く能力、志を持つことができる能力、これは、人間として生まれて生きていくなかでの、最大の才能の一つでもあるのです。現にそういう結果が出ていなくとも、過去の実績から見たらそうでなくても、しかし、志がまだあるということは、それは大いなる才能なのです。志があるということは才能なのです。自分には、この才能がまだあると思わねばなりません。すべては、そこから始まっていくのです。
 ですから、どのような不幸に打ちのめされても、マイナスの思いは発さず、そして他の人のものをよく研究し、自分自身についてもよく研究して、理想に燃えることです。志を向上へともっていくことです。それが大事なのです。
 この思いがない人は、どうしても、いま一歩を進めることができないのです。
 頭がよくて、人柄もよいのに、成功しないという人がいます。そういう人に足りないのは、たいてい志です。なぜなら、その理想が情熱を呼ぶことになるからです。そして、そういう志を持っている人のところに、人は集まってくるのです。
 世の中には、「どうすれば志を持てるのか」と訊く人がいます。「どうすれば理想に燃えることができるのか」と問う人も数多くいます。「どうすれば熱情を持って生きていけるのか」と問う人もいます。
 しかし、そういう人たちへの答えは、たった一つの実例が出てきたら、それで充分なのです。たとえば、この本を手にされているみなさんのなかに、一人、志の高い人が出てきて、熱情ある人生を示したら、これで、ほかの人たちへの説明はいらなくなるのです。
 そうなのです。志というのは感化力を持つのです。他の人びとへの影響力を持つのです。人は、その波動に、その念いに、揺り動かされます。そして不思議なことに、その志が自分のなかにも宿るのです。「ああいうふうに生きてみたい」という気持ちが、宿ってくるのです。
 したがって、こういう真実に目覚めたみなさんであるならば、手本を求めるのもよいが、自分がまず手本になってみようとは思いませんか。不幸の底にあり、敗北の底にあっても、なお明るく生き、マイナスの思いは出さず、研究を重ね、さらに工夫をし、もう一度、挑戦していく。そして、高い志のもとに生きていく。みずからがそういう姿を見せることこそ、じつは多くの成功者を生み出していく秘訣なのです。
 私は、偉人の条件とは、迸り出てやまない熱情であるように思います。挫折など、どこにでも転がっています。失敗など、どこにでも転がっています。要は、掃き溜めのような人生環境のなかに生きようとも、そのなかで、いかに鶴のように生きるかということです。掃き溜めのなかでも、鶴のように生きられるかどうかなのです。それが大事なのです。そういう人が出てきてこそ、世の中は幸福に満ちた人びとでいっぱいになるのです。」
(『人生の王道を語る』110~114ページ)

 大川隆法総裁は、何らかの失敗や逆境があっても成功している方に共通する4つのポイントを教えてくださっています。

 第一に、逆境や困難を、他人のせいにしないこと。

 第二に、与えられた運命を、受け入れる決意、勇気があること。

 第三に、その逆境から必ず教訓を見出していること。

 第四に、そうした境遇にいても、独立独歩、独立不羈の精神、自助努力の精神を忘れていないこと。『常勝思考』で以下のように説かれました。

「病人もそうですが、挫折や失敗のさなかにある人も同じでしょう。「自分ひとりだけが、どうしてこんな目に遭っているのか」という感じになりやすいのです。
 そうしたときには、どうか目を開いて、もっと心を開いて、多くの人びとを見ていただきたいのです。どのような人がいるかを見れば、決して順調な人ばかりが成功しているわけではないことがわかるはずです。何らかの失敗や逆境をバネにして、それ以上にがんばっている方が必ずいるはずなのです。
 こうした方がたは、そうした逆境のなかにあって、必ず何かをつかんだのだと思います。そうした逆境のなかにありながら、普通の人でも達せられないようなところまで上がってくる方、登ってくる方には、必ず共通する面があります。
 このような方がたに共通する面について、私が観察して思うところをあげてみます。
 まず第一点は、そうした逆境や困難を、決して他の人のせいにしないということです。決して、他の人のせいにしたり、運命をのろったりするようなことはしません。そのようなことをしても、何のプラスにもならないということを、充分に知っているからです。他の人のせい、運命のせいにしない これが第一点です。
 二点目は、自分に与えられた運命を受け入れているということです。「これさえなければ」と考えるのではなく、その悪しき運命や逆境を受け入れています。受け入れているということは、それを現実だと見なして、その現実からいかに立ち直るかを考えているということです。悪しき運命、現実を受け入れる決意、勇気があるのです。
 三点目は、その逆境から必ず教訓を見出しているということです。この逆境が自分に教えんとしているものは、いったい何であるのかを、必ず見つけ出しています。その教訓を学んでいて、それが後のちまで、その人の心の宝になっているのです。必ず、大事な宝になっています。
 四点目は、「他の人を頼りにしよう」「他の人の援助で生きていこう」とは決してしていないということです。そうした不利な境遇のなかにいても、あくまでも独立独歩、独立不羈(ふき)の精神、あるいは自助努力の精神を忘れていません。与えられた運命を運命として見て、その現状を現状として受け入れ、しかし受け入れてそのままで満足するのではなく、それをみずからの力で打開しようとしているということです。この過程を必ず通っています。」
(35~39ページ)

 ナポレオン・ヒルの名著『Think and Grow Rich』(邦題:「思考は現実化する」)は、アメリカ大恐慌の前年に出版され、恐慌が終焉する翌年までに約100万部が売れました。彼の成功哲学がアメリカ経済の一つの救いになったことは言うまでもありません。

 『Think and Grow Rich』の生みの親であるアンドリュー・カーネギーは、「鉄鋼王」と言われた実業家です。引退後は篤志家として活躍し、財団や大学、博物館、図書館などの創設資金を提供したことでも知られます。

 アンドリュー・カーネギーから成功哲学のプログラムを依頼されたナポレオン・ヒルですが、カーネギーから紹介された成功者は錚々たるメンバーでした。発明王トーマス・エジソン、自動車王ヘンリー・フォード、電話を発明したアレクサンダー・グラハム・ベルなど。成功者の智慧は、後に数多くの成功者を生み出すことになります。

 ナポレオン・ヒルは、数多くの名言を遺したことでも知られます。なかでも失敗を成功の縁とする格言が多く、人々に勇気を与えてくれます。「人間に挫折や失敗はつきものである。問題は、そこから教訓と成功の糧を引き出せるか否かである」、「失敗や逆境のなかには、すべてそれ相応か、それ以上の大きな利益の種子が含まれている」。

 アンドリュー・カーネギーは、成功哲学の体系化をナポレオン・ヒルに依頼した際、500人以上への取材、20年間の調査期間とその間の報酬ゼロという条件を提示します。ヒルは、29秒で承諾しますが、ストップウォッチで計っていたカーネギーは1分以上返答がなければ諦めたと語ります。直観力、洞察力が、ヒルを成功者へと導いたのです。

 ナポレオン・ヒルは「マスター・マインド」、つまり、二人以上の同じ志を有する者の集まりという言葉の重要さをアンドリュー・カーネギーから学べます。カーネギーはそれを “聖書”から取り入れたものだと語ります。「マスター・マインド」とは、人間がつくったものではなく、宗教的真理に基づく原則だったのです。

 

大目標、中目標、小目標

 若くして成功した人が その後も謙虚さを失わないために、人生の成功論として、「大目標、中目標、小目標」ぐらいは持っていなければいけないと思います。

 例えば、「学年末試験で、よい成績を取る」「何か、英語の資格を取る」といったことは目先の小目標です。また、中目標というのは、もう少し時間がかかるものです。「10年以内には、こういうことができるようになっていたい」というぐらいの、アバウトなスパン(期間)で努力を続けられるようなものが、だいたい中目標です。さらに、大目標になると、「一生を通して、このくらいのことをやりたい」と思うようなものになるでしょう。

 結局、すぐに天狗になる人というのは、大目標を持っていないことが多いのです。例えば、「大学に入るまでの人」とか、「大学に入ってからも頑張るけれども、卒業までの人」とか、「会社へ入社するまでの人」などとよく言われましたが、実際、そのとおりなのです。要するに、無理をしたのでしょう。「無理をして、これだけ頑張って入学したのだから、もう、あとはご褒美をくれてもよいではないか」と考えるのだろうと思います。

 しかし、「社会に出ても、まだ大変だ」ということは知っていなくてはいけないでしょう。

  (2018.1.25法話「天才と凡人の間で」質疑応答より)

 

他の成功法と仏法真理との違い

 成功法のなかで、強く 念い を発することによる自己実現だけを強調して、自分の欲得や、自我我欲の達成だけに集中したようなやり方を教えているものには、注意が必要である。

 たしかに、一見成功はするが、そういうやり方での成功には、死んでからだけでなく、まだ生きているあいだに嫉妬を浴びたり、非難されたり、世の中に嫌われるという形で何らかの反作用が出てくる。

 幸福の科学が教える成功法は、「あなたの成功を、他の人々をも照らすものにしていくこと。少なくとも、そう願うこと」というもの。そうすれば、その成功は、常に仏や神の目を意識したものとなり、あの世に還ってからも幸福な成功となるのです。

 大川隆法総裁は、『希望の法』で以下のように説かれました。

「この世的な成功法を説く本のなかには、それを実践すると地獄行きになるものもあります。どのような成功法が地獄的であるかというと、基本的には、「自分の欲得、自我我欲の達成」ということにフォーカス(集中)した考え方を説くものです。
 思いの法則においては、強く思ったことは実現する場合が多いため、自己実現だけを取ると、確かに、欲が強い人のほうが、それを達成しやすいという面はあります。
 ただ、そういうかたちでの成功には、たいていの場合、死んでからのちと言わず、生きているあいだに、何らかの反作用が出てくるものです。
 だいたい、「人に嫌われながら成功する」ということは、一時期はできても、それで長く成功しつづけるのは困難です。なぜなら、人間の幸福感のなかには、「多くの人に心から支持される。多くの人に心から感謝される」という面が含まれているからです。
 周りがみな敵に見えるような状況では、それほど幸福とは言えません。
 なぜなら、「来世で、どうなるか」ということ以前の問題として、今世で、不幸感もあるし、孤独感や、ある意味での疎外感もあるからです。他の人の嫉妬や非難を背負って生きていかなければならないので、どちらかというと、世の中において嫌われる「エゴ丸出しの年寄り」のようになっていくかもしれません。
 「エゴイズム」のことを利己主義といいますが、エゴイズムより、もっときつい言い方で、「エゴティズム」という言葉もあります。これは、完全に、「自分だけよければいい」という考え方です。
 エゴイズムには、まだ、多少、人から理解される面があるのですが、エゴティズム、自分のことしか考えていないような生き方、「人を犠牲にしてもよい」というような生き方になると、人からたいへん嫌われます。
 したがって、この一線を守らなければいけません。
 死んでからあとの、悟りの状態、心の状態に、「来世、自分は天使や菩薩になれるか。それとも、地獄の存在になるか」という分かれ目があります。「常に、そういう意味での、仏や神の目を意識し、その価値判断を肝に銘じて、この世での生き方を考える」という点を忘れてはいけないのです。
 ここが、数字だけを求める成功法と、私が説いている「成功の法」との、決定的な違いです。
 つまり、私が述べているのは、「あなたが成功を求めて成功するのはよいのです。しかし、その成功を、他の人々をも照らすものにしていただきたい。少なくとも、そう願っていただきたい」ということなのです。

 

成功に慢心せず精進し続ける

 学生時代においては、受験の結果によって幸・不幸が分かれるように思うことがある。だが、幸福の科学大川隆法総裁は、その程度で人生の勝敗は決まらないとして、「(受験での成功は)新しい勉強をし、努力するチャンスが与えられたということに過ぎない」という謙虚さを持つべきだと語った。

 東京大学法学部で学んでも、ニュースの本質やマスコミの真意が見えてくるまでには時間がかかったという総裁自身のエピソードをまじえながら、「人間の知性の成長には時間がかかる。たくさんの勉強をして、いろんな人生経験を積んで初めて見えてくるものがある」と、不断に努力し続け、蓄積することの大切さを強調した。

 

感謝の心が道を開く

(『精進と感謝の心』 より)

 よい仕事をし、業績を上げるには個人としての努力はもちろん、多くの人の協力が不可欠だ。だが、陰で支えてくれた人の恩を忘れてしまうことも多い。

 総裁は、「小さな事を大きく感謝する人はいい仕事をして、人がたくさんのことをしてくれても被害意識を持つタイプは、出世しなかったり嫌われたりする」と説き、成功している人は、感謝の心が強い人だと指摘した。

 質疑応答では、幸福の科学学園の卒業生を念頭に、努力は報われるという「縁起の理法」の意義を改めて説いた。また、現在、無神論・唯物論の勢力の方が、神仏を信じる勢力よりも繁栄しているように見えているところもあるかもしれないが、「本物の信仰が入っているほうが真なる繁栄がくる」ことを実証したいという強い決意が示された。

 

成功を続けるために

 たとえば、感性がすぐれて体力がある若い人は、知識や経験が少ないが、逆に年を取ってくると、体は弱り感性も鈍る代わりに、知識や経験が増えてくる。

 成功の要因は、通常、長所の部分にあるが、さらに成功を続けていくためのヒントは、長所と対極のところにあることが多い。

 長所の反対側にあるもののなかに、あすの自分を導く種がある。

 大川隆法総裁は、『幸福の法』で以下のように説かれました。

「さまざまなことを知り、経験していくにつれて、「矛盾した部分のなかに、いかに次の成功や発展の種があるか」ということに気がつくようになります。
 たとえば、若い人は体力がありますし、感性も非常に優れていますが、知識や経験の少ないところが弱点です。
 ところが、年を取ってくると、体は間違いなく弱ってきますし、感性も鈍ってきます。神経が少し太くなり、あまり感じなくなってくるところがあるのです。体力や感性といった、若者にとって特徴的であったものが薄れていき、その代わり、知識や経験が増えてきます。
 このように、逆のものに入れ替わってくるわけです。
 若いうちは、いくら無理をしても大丈夫だったのが、四十歳を過ぎると、無理が利かなくなってきます。そうなってきたら、次は、無理をしなくても仕事が続けられる方法を考えるしかありません。そのための知識であり経験であったはずです。
 また、若い人のような感性がなくなってきたら、感性がなければできないような仕事や発想は、若い人に任せることを考えていかなくてはなりません。
 このように年齢相応の考え方をしていく必要がありますし、たいていは、現在、いちばん使えている能力の対極にあるものが、将来において、自分を励まし、育てるものになることが多いのです。
 体力が自慢の人は、体力ではないもの、すなわち知力や経験が必要になってきます。
 それから、知性が強くなりすぎると、意志が弱くなることもあります。「勉強がよくできて、いろいろなことを知っていると、いいだろうな」と思うでしょうが、いろいろなことを知りすぎると、今度は、ある意味で意気地なしになってしまうようなところがあるのです。勇気がなくなり、優柔不断になって、「行動ができない」「結論が出せない」「踏み出せない」ということがあるわけです。
 そのように、知性的な人は意志薄弱になりやすいので、強い意志をつくるように努力しなくてはなりません。
 その反対に、意志が強い人は、ある意味では頑固で、人の意見を聴かず、我流で押し通すようなところがあります。「意志が強い」ということは、長所であると同時に弱点をも含んでいます。その弱点をカバーするためには、知性的な部分を補う必要があり、そうしなければ成長はできません。
 このように、成功の要因は、通常は長所の部分にあることが多いのですが、さらに成功を続けていくためのヒントは、自分の成功の要因であった長所と対極のところにあることが多いのです。
 「長所の反対側にあるもののなかに、あすの自分を導く種がある」ということを、常に知っていなくてはいけません。」

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