地球神の本心

ユダヤ・キリスト教的正義では全世界は救えない

 今、世界ではロシアとウクライナの戦争が進行し、欧米諸国が対露制裁を強化した結果、中露北が結束し始めている。戦いが世界規模に拡大する危険性が高まっている。

 大川隆法総裁は、2022年4月、「『小説 十字架の女(2)〈復活編〉』発刊記念対談」で同書について、「全体的に見れば、ユダヤ教・キリスト教的な価値観と世界観がバックボーンとして入っている」と説明している。そして、それが「現代の世界においてだいたい、正邪を判定する場合の中心軸になっている」ため、この物差しでもって世界のさまざまな情勢について判断されていく現状があるとした。

 ロシア・ウクライナ戦争でも、欧米のキリスト教国の為政者が「プーチンは悪」と判定。マスコミを含めたさまざまな勢力もそれにならい、一斉に動いた。

 しかし、彼らの「正義」に、ロシア側は納得していない。今回の軍事作戦の直前、大川隆法総裁の霊言において、プーチン大統領の守護霊はこう断じていた。

 「欧米は植民地・・・、五百年の歴史でかなり悪いことをしてきてる」「『自分たちは優越人種だ』と思ってるから、ちょっと反省したほうがいいよ」(『ウクライナ侵攻とプーチン大統領の本心』)

 同守護霊は、欧米の時代はもう終わったとして、ロシアと日本、インド、ブラジルなどで「新しい構想」をつくろうとしており、人種差別問題の解決までも視野に入っていることを明かした。

 こうした感情・考えを持つのはロシアだけではない。今秋のG20の議長国・インドネシアは、日米に反対されてもプーチン氏にG20サミットへの招待状を送った。

 大川隆法総裁は、「記念対談(2)」で、「G20を見れば 半々ぐらいに意見が分かれた」「ユダヤ・キリスト教的な考え方を持っているところはロシアを倒すという方向で賛成なのだが、そうではない国々は、わりにしらっとしていた」と評した。

 世界の半分以上の国は、欧米のユダヤ・キリスト教国が過去500年間にわたり世界各地で積み重ねてきた”罪”に納得しておらず、その判断の元になった「ユダヤ・キリスト教的正義」にも同意していない。これが今の世界の紛争の根底にある原因なのです。

 

霊言が明かす世界の神々の意志

 それでは、過去、欧米の国々は何をしてきたのだろうか。

 欧米列強は、アフリカで植民地をつくり、奴隷を売買した。南米や中米ではインカ・マヤ・アステカ文明を滅ぼした。イギリスはインドを植民地支配し、人々が二世紀近くの間、収奪と差別のもとに置かれた。東南アジアは、タイ以外の国が欧米列強の植民地と化していた。

 大川隆法総裁は、この歴史と「欧米的正義」に対する反発が、霊界においても多数存在することを明かしてきた。

 例えば、アステカの王・モンテスマ2世は、霊言において、その文明の滅亡について「納得しがたい」と述べていた。

 スペインの貴族コルテスは、1519年、アステカ王国を征服する際、白人を善意で迎えたモンテスマを武力で捕囚とした。黄金や財産を差し出させた上に、反乱を起こした民を殲滅し、スペイン軍に協力した周辺部族をも裏切り、文明そのものを滅ぼした。そのことに対して、モンテスマは「あんなに極悪非道な人種とは思わなかった」と憤り、「キリスト教のその『受難の思想』『愛の思想』『犠牲の思想』は、中世以降、十字軍などによってイスラム教と戦っているうちに、帝国主義的なものへと発展していき変質していると思うな」と指摘していた(『2012年人類に終末は来るのか?』)。

 東京裁判を批判したパール判事も霊言でこう明言した。「スペイン、ポルトガルあたりから始まった侵略の歴史と、カトリックの宣教師たちは一体『軍事的に占領して、宗教的に改宗をさせ、統治下に置く』っていう洗脳行為が、カトリックの行動原理だった」(『されど、大東亜戦争の真実 パール判事の霊言』)

 パール判事が、日本の指導者が一方的に断罪された東京裁判に異を唱えたのは、こうした考えが背景にある。

 大東亜戦争については、天照大神も霊言においてこう評価している。

 「『アジアの植民地解放運動の部分』や『アジア以外の国々からも植民地がなくなった部分』は成功した部分として、やっぱり、戦うべき意義があっただろうとは思います」(『天照大神の「信仰継承」霊言』)

 

宗教文明の激突の背景

 中東問題の背景にも、西側のユダヤ・キリスト教に基づく独善性への異議申し立てがある。

 2003年のイラク戦争で、アメリカ側は「文明対テロの戦いだ」と謳った。だが、その内実は、キリスト教とイスラム教という「宗教を背負った文明の激突」であったと、大川隆法総裁は指摘している(『宗教文明の激突』)。この激突は、その後も終わらず、アメリカでは共和党政権も民主党政権もイラクの後に台頭するイランを敵国とみなしてきた。

 しかし、イスラム圏の霊人も、欧米の「正義」に納得していない。十字軍と戦った英雄サラディン霊は、「欧米系では、まだ、アフリカやアジアを植民地化してきた、この五百年の歴史の反省がなされていません」と述べた(『中東で何が起こっているのか』)。

 イランのソレイマニ司令官の霊は、イラン革命について、「(民衆は)アメリカ文化をそのままイランで行われることには、なんか『穢れ』を感じている」(『アメリカとイラン 和解への道』)、同国のハメネイ師守護霊は「(イランの人々が)『霊的な人生観を持っている』っていうことが、十分に分かってないんじゃないかなと思います」と訴えた(『イランの反論』)。

 

今こそ、メシアの出現が必要

 ここ500年ほど、「ユダヤ教・キリスト教的な正義」のもとに、欧米文明が世界を主導してきた。そこでは、至高神の考えにかなうことも かなわぬこともなされてきたと思われる。結果的には、悪魔の片棒を担いだ行為もあり、勝利の後に、敵国の正義を闇に葬る行為が繰り返されてきたのだ。それゆえ、大川隆法総裁は、「神と悪魔の区別がつかず、正義を闇に葬る戦争を『悪』という」と指摘する(『ウクライナ問題を語る世界の7人のリーダー』あとがき)。

 今の世界戦争が起こる思想的な根は深い。その深さを闡明にしつつ、かつ、人類を新しい未来に導くためには、「地球的正しさ」を説くメシアの出現が必要なのです。

 

「ご利益信仰」を捨てなければ「真の信仰」は分からない

 我が国には、多くの人が思い当たるであろう一つの事実がある。

 日本で流行っている信仰は、「ご利益」を目当てにしたものが多いということです。

 神社の祈願を見ると、無病息災、学業成就、一家繁栄、事業成功などが目立ち、祈願者の多くは「ご利益」を期待している。

 日本の仏教でも、「供養をすれば功徳がある」という形でご利益信仰が説かれることが多い。

 我が国では、「ご利益があれば神を信じる ご利益がなければ信じない」という信心がポピュラーなのかもしれない。

 

「死と復活」が意味するもの

 大川隆法総裁は、「記念対談(1)」で、「この小説は、キリスト教の信仰の中心を、十字架と復活に見ている」と述べている。

 復活の前には「死」を経なければならない。その「死」が意味するものには、もちろん、肉体の死も含まれるが、現代においては、この世における名誉ある立場や職業での考え方(倫理)が崩壊するところまで追いつめられることも含まれるという。

 何かを失うか、あるいは、すべてを失うかして、人は「死」を迎える。死を通さずしては、「復活」、つまり、真の信仰に目覚めることはできない というのが「一つの真理ではある」、と総裁は説く。

 この「すべてを捨てた者が最大のものを与えられる」という信仰の真髄が、日本型のご利益信仰では全く理解できないのだという。

 ご利益信仰では、神は人間に現世利益を与える存在である。そこには、「ご利益を与えてくれるなら信じてもよい」という ある種の対価関係が神と人間の間に生まれる。そのため、現世利益(この世の勝利)も与えず、ただただ罪人として死んでいったイエスが信仰の対象になるということは、伝統的なご利益型の神道の世界では信じられなかった。

 神道で そうした存在が神になるケースがあるとすれば、平安時代の平将門のように「祟られないように祀っておく」存在にすることだったのです。

 

「真の信仰」とは

 大川隆法総裁は、書き下ろしの詩編「心の指針(176)『弱さを知る』」において、真の信仰について問いかけている。

 キリスト教は、開祖が「この世的無力さの極み」の中で死に、後代に世界宗教になったという異例の歴史を持つ。それは、弟子の中に真の信仰者がいたことを示している。イエスの十字架の死の後、彼らには、仕事も地位も、学歴も収入も、名誉や見栄も、執着するものがなくなった。その時に、「弱さの極みを経験することで、逆に宗教的人格は強められる」という逆説が起きた。現世利益を求める心を捨て、神への愛に命を捧げる者が出てきた。それは、まさに「ご利益宗教が自己犠牲の宗教に敗れる瞬間である」。これが「信仰の宗教」の偉大さである。

 総裁の霊言において、日本文明の祖・天御祖神もこう語る。

「弟子たちはイエスを護ることはできなかった。しかしながら、その後に、深い、後悔、懺悔の思いで、イエスのように十字架に架かって、死んででも、信仰を護る、教えを伝えていくという人たちが、次々と何百年も出続けた。それによって、信仰の宗教になったわけです」(霊言『天御祖神 武士道を語る』)

 果たして、この国に「真の信仰」は根付くか。幸福の科学の救世運動に「真の信仰」は立ち上がるか。大川隆法総裁は、「記念対談(1)」で、「(この世的な)不幸と(霊的な)幸福は一緒」であり、それが「十字架を背負うことの意味」でもあると語った。

参考

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