「念い」と「時間」

若き日のエル・カンターレ 「存在と時間」より

 20世紀最大の哲学者とも言われているドイツの哲学者、マルティン・ハイデッガー(1989-1976)は、1920年代から仏教などの東洋哲学を学び、「存在と時間(Sein und Zeit)」に書いたようなことが、道元の「正法眼蔵」を読み、有時の巻に書かれている。「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」として、既に仏教で説かれていることに驚いたと言われています。さらに、晩年には、英訳の「歎異抄」を読んで以下のようなことを日記に書き残しています。「もし、10年前に、こんな素晴しい教えが東洋にあったのを知っていたならば、私はギリシャ語やラテン語の勉強もしなかっただろう。日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中に拡めることを生きがいにしたであろう」と。歎異抄には、人生の目的は、死さえもさわりとならない「無碍の一道」に出ることだと記されていました。

 仏教の教えでは、「今、死ななければならない」となっても微動だにしない境地があると教えています。これを歎異抄には「無碍の一道(むげのいちどう)」といいます。「碍」とは「さわり―害」のことで、一切がさわりにならない、死さえも「さわり」にならないたった一つの境地があるぞと言っているのです。現代人にとって、このような一転語とも言えるような悟りが散りばめられているのが歎異抄なのです。  『歎異抄』に衝撃を受けたというハイデガーは、未完に終わった主著『存在と時間』に、以下のように記しています。

 『歎異抄』に衝撃を受けたというハイデガーは、未完に終わった主著『存在と時間』に、 このように記しています。  

「Nur das Freisein fur den tod gibt dem Dasein das Ziel schlechthin.」  (ただ死に関してさわりにならない自由が、人間に目的そのものを与える。)  

 道元も唯円も、そしてハイデッガーも悟り得なかった「存在と時間」の悟りは現代に説かれているのです。  

 私もまた、存在の根源を求めて、思索し、考え、体験、経験し、一つの答えを得ました。それは、「全ての存在の根源には念いがある。それをあらしめようとする念いがある。その念いが表象化された姿こそが、この三次元世界である」ということです。「この三次元世界の存在の根拠は、それを有らしめようとする力が確かにあるということである」と言えるのです。人間が生きているのは、人間が現にあるのは、「人間よ、あれ」という念いが、そこにあるということです。人間を創ろうとする念いがあるということです。この念いがなければ、決して人間はできてこないのです。具体的には、両親が子供を生むという形になっています。子供の材料そのものは、この世的な食事で得られたものからできるのでしょうが、そうしたものができる背景には、その子供をつくらんとする体の機能があります。機能に先立って、心の作用があります。その心の作用を創っているものは、他ならぬ仏の心なのです。  

 遥かなる異次元世界の奥の奥の奥の奥にある存在としての仏が、四次元以降の多次元空間を創っています。そして、その同じ念いが、三次元世界という、特殊な物質化した世界を創り出しています。その念いのなかに、人間をあらしめようとする念いがあるのです。この地上を去った世界の住人、霊的な存在となった住人にとっては、念いが即、行動であり、行動が即、結果となって現れるということは、一つの常識なのです。即ち、「存在との根源とは念いであり、念いの根源は仏の意志である」ということです。仏の意志が個別の生命体を創り、個別の生命体をが仏の意志を汲んで、さらに次なるものを創ってきたのです。それが、宇宙とこの地球を創ってきた歴史の秘密です。 この世界は、念いの世界であるということです。  

 「聖書のなかに、「初めにことばあり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」という一説がありますが、この「言葉」を「念い」に置き換えたら、「初めに念いあり、念いは言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」。即ち、神とは念いであり、「念いがすべてを創った。念いの結果として言葉が発せられた」という事実があったのです。  

 仏は大いなる愛です。仏は、大いなる愛に基づいて、様々なものを創ってきたのです。仏の念いの原動力、仏が念いを発する原動力は愛にあります。

 次に時間については、時間というものは、実は人生の秘密を解く鍵でもあり、人生存在の意味を解く鍵でもあるのです。存在という観点から世界を解釈することと、時間という観点から世界を解釈すること、この両者が三次元世界においては必要なのです。もし時間というものがなければ、この三次元の現象はすべて、ストップした画面の如くになるでしょう。皆さんの生命を奪うには、刃物も銃弾もいらないのです。時間が止まれ、生命は消えます。存在していることの意味がなくなるからです。もし、時代というものが一瞬にして凍りついてしまったならば、その存在の意味がなくなるのです。仏は大変な発明家ですが、仏の発明の中で、時間の発明ほど大切なものはなかったでしょう。 この時間の発明こそが、実は世界を創った大いなる発明なのです。「念いによって表象を創っていく」という発明と、「時間によって世界を創っていく」という発明、これが実はに大発明なのです。仏は様々なものを創りましたが、この二つの発明ほど大切なものはありません。物体顕現の法則と、時間の法則です。即ち、時間というものは、存在の存在形式、あるいは存在の運動形式として認められているものであり、存在が運動形式を認められることによって、人間の歴史も宇宙の歴史も始まったのです。そして、存在に運動形式としての時間があることによって、実は発展が裏打ちされているのです。もし存在の運動形式としての時間がなければ、それは単なる静止の世界であり、何らの発展のない、変化のない世界となるのです。

ハイデガー『存在と時間』を読む

「時間」の本質

「仏法真理」へ戻る