言葉の反省

 幸福の科学大川隆法総裁は、『釈迦の本心』で以下のように説かれました。

「人間は、「語る」ということを通しても、心に毒を受け、毒を売り、毒を広げることが多いのです。「人びとの苦しみの大半は言葉に起因している」とも言えるでしょう。他人から発せられた言葉が自分を不幸にすることもあれば、自分の発した言葉が他人を不幸にすることもあります。言葉は人間の幸・不幸と非常に関係があり、ある意味では、「言葉の調律」ができれば、地上は理想社会となっていくことが可能なのです。霊天上界においては、高級霊界に近づくほど、言葉の調律ができるようになります。高級霊界には、他人に対して悪しき言葉をはく人はいません。ときどき批判めいたことを言うことはなきにしもあらずですが、その場合は、その人をよくするため、善導するためであることが原則であり、心底から他人をきらった言葉を発する人は高級霊界にはいないのです。したがって、言葉というものは、その人の人間性を評価するための大きな目安、基準となります。自分の言葉がどういうものであるかは、反省の項目として非常に特徴的であり、分かりやすいチェックポイントだと言えます。正語(しょうご)の反省においては、「きょう一日、自分はどのように語ったか」ということを具体的に思い出してみます。言葉というものは、たいてい、他人の存在を前提としているので、「どういう人が自分の前に現われたか。その人に対して、どう語ったか」ということを、一つひとつ点検してみるのです。気分や体調がすぐれないとき、また、悩みのなかにあるときには、たいていの場合、他人に対して否定的な言葉を数多く出していると思います。否定的な言葉とは、相手が幸福にならないような言葉、相手を傷つけ、不安に陥れ、前途を真っ暗に感じさせるような言葉のことです。否定的な言葉を出すことは、不幸の拡大再生産をしているのと同じです。自分が暗い感情に囚われているのは自分ひとりの責任ですが、それを言葉に出して語ることによって、その病原菌が他の人びとにうつっていきます。そうした言葉を一日の比較的早い時点で浴びてしまった人は、不愉快な一日を送ることになり、その人の不愉快さが、また他の人にも伝染していくことになるのです。したがって、言葉の調律は非常に大事な修行です。よい言葉を出す。正しい言葉を出す。仏の心にかなった言葉を出す。こうして言葉を正していくうちに、言葉のもととなる部分、すなわち思いへも、反省の作業が深く深く進んでいくようになるのです。」

 

言葉のチェック

 大川隆法総裁は、『復活の法』で以下のように説かれました。

「女性にとって特に大切なのは言葉の部分です。女性は正語を重点的に点検してみてください。正しく見ることも難しいのですが、女性の場合は、言葉の部分が、より難しいだろうと思います。男性には、どちらかというと、理性的、知性的な傾向があるので、「正しく語る」ということは、訓練していくと、ある程度、できるようになります。女性の場合、悪しき言葉によって地獄をつくっていることが多く、「正しく語る」ということが特に大切なので、これをチェックしてください。「自分の家庭が天国であるか、地獄であるか」ということを判定しようと思うならば、口に出している言葉をチェックすればよいのです。そうすれば、たちどころに分かります。  一日を振り返り、自分が出した言葉を思い出してリストアップし、その言葉を天国的な言葉と地獄的な言葉とに分類してみると、意外なことに、その比率は、五対互や六対四にはならず、たいてい、八対二や九対一と、どちらか一方に極端に偏っていることが多いのです。なかには、十対○ということもあるかもしれません。地獄的な言葉が出るような心境のときには、そのような言葉がずうっと出やすく、日によっては、一日中、出ることもあります。逆に、天国的な言葉を出す人は、わりに安定感があり、「いつも、よい言葉しか出さない」という“十割打者”も、けっこういます。天国的な言葉と地獄的な言葉との比率を、できれば九対一ぐらいまでもっていきたいものです。地獄的な言葉は、ゼロにはできないかもしれませんが、努力して一割ぐらいまでに抑え、九割ぐらいは天国的な言葉にしたいところです。」

 

 総裁は、『仏陀(ぶっだ)の証明』で以下のように説かれました。

「ただ、みなさんが心しなければならないのは、言葉を正すということが消極的な方向に現われてしまい、正しいことも言えないようになることです。間違ったこと、悪いことを言う人が、銃弾をいくらでも撃つように言葉数が多く、正しい見解のもとに活動している人が、それに対して何も言い返せず黙っていることによって、悪を増長させ、正しい者たちの集団をぐらつかせるようなことが現実にあったならば、これはやはり間違いであると思わなければなりません。 「仏陀の説いていることは間違っている」と言われて、「はい、そのとおりです。忍辱(にんにく)いたします」と引き下がる仏弟子はいないのです。「それは、あなたの考え違いである。仏陀の教えは、こうしたことにおいて正しいのである。あなたのほうが邪見なのである」と反論するのは、仏教徒として当然のことです。この批判、ないし論理的な切り返しは、感情的に怒ることを伴わずにできることです。必要なことは、押しの強さであり、言葉の論理的な組み立てなのです。ですから、悪を受容し、それを増長させることをもって、正語の教えとするべきでは絶対にありません。それは間違いです。特に当会は非常に人の好い方が多いため、この正語のところで間違って、口の悪い人たちを優勢にさせてしまう傾向があるので、人の間違いに対しては、きちんと正していくことが大事です。その際に、「いたずらに感情的にならずに、やはり事実を根拠として、あるいは理論を根拠として、的確に批判をしていき、相手を悟らしめることが愛なのである」ということを、きっちりと理解しておくことです。間違った見解のもとに、いろいろな活動をしている人は、地獄に堕ちていきます。ですから、こうした人たちを救うためには、その見解が間違いであることを教えてあげなければならないのです。それを教えてあげることができないのならば、伝道は成り立たないのです。世の中の人は誤解しているのです。知らないことがたくさんあるのです。だからこそ、教えてあげる必要があるのです。間違った見解に対しては、それが間違っていることを指摘しなければなりません。そして、「正しい見解とはこのようなものです」ということを教えてあげなければなりません。正語においては、消極的に「こうしたことを言ってはいけない」ということもありますが、積極的に「正しい法論を説く」ということも、非常に大事なことです。決して〝弱々しき善人″になるべきではありません。」

 

 正語の反省のポイントとして、以下の4つの指針が示されております。

「不妄語」・・・嘘、偽りを言ってはいけないということ。

  不妄語(嘘)は、自分を飾りたい気持ちや人を騙したい思いから出ている。

「不悪口」・・・他人を傷つけるような悪口を言ってはいけないということ。

「不両舌」・・・二枚舌(相手を仲違いさせるようなことを言うこと)を使ってはいけないということ。

「不綺語」・・・過ぎたお世辞を言ってはいけないということ。

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