『永遠の仏陀』 「正思」への道 より

 魂向上の道の一つに、反省的瞑想というのがある。 我はかつて、おまえたちに八正道を説いた。 八つの正しい道を説いた。 正しく見よ。 正しく思え。 正しく語れ。 正しく行為をなせ。 正しく生活をせよ。 正しく道に精進し、 正しく念じ、 正しく定に入れと。 この八つの正しき道こそ、おまえたちが、人生の途中で仏法真理に目覚め、その人格を向上させ、珠玉の宝へと変えてゆくための秘宝であるのだ。 この八正道のなかで、特に大事なことを、ただ一つ取り出すとするならば、すべては、「正しく思う」という、この一点に集約される。 あたりを見渡してみよ。 おまえたちを取り囲んでいる人たちの、心の様相を見よ。 心のありかたを見よ。 なんとも見下げ果てたことを、一日中、考えているではないか。 いや、ほとんど考えなきに等しい人が、どれほどの数、いることであろうか。 考えなき人生を生きるとは、昆虫の人生にも劣ると言わざるをえまい。 考えることなく生きているということは、昆虫以下の人生であるとさえ、言うことができよう。 人間として生まれ、そして生きてゆくことの、いちばんの意味は、人間が考えというものを持つことができるという点に帰着するのだ。 すなわち、「正しく思う」とは、「正しく考える」と言いかえてもよいだろう。 おまえたちの人間性を決定しているものは、すべて、おまえたちの考える中身にある。 もし、他人の心がガラス張りだとして、だれもがその中身を見ることができるとしたならば、おまえたちは、いったい、どのように感じるだろうか。 まさしく、それは驚愕でしかあるまい。 もし、おまえたちの首から黒板がぶら下がっていて、 その黒板に、おまえたちの考えていることが、チョークの文字となって現れているとしたら、どうするか。 街を歩くことさえできまい。 人と視線を合わせることさえできまい。 この際に、どうすればよいのか。 そう、基本的には二つのことが重要となろう。 一つは、見られても恥ずかしくないような、仏法真理に則ったことを考えるということである。 そして、いま一つは、もし仏法真理に反したことを考えたとしても、即座に修正を入れるということなのだ。 「ああ、自分は間違ったことを考えていた。これは、自分の良心に照らして、まことに恥ずべきことであった」と、即座に修正することなのだ。 それによって、魂は洗われ、その汚れは取り去られるのだ。 このようにして、自分の正しき思いというものを探究してゆく過程において、その魂は、次第しだいに力を帯びてくることになるのだ。 偉大なる人物とは、偉大なることを考えた人間のことであるのだ。 これが大事なポイントとなる。 そして、その「正しき思い」というものを探求するために「正しい信仰―正信」が必要なのです。

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