生命と自然

 三次元世界は縦・横・高さから成り立っている。さらに、四次元世界は時間という要素、五次元世界は精神という要素が加わります。

 あの世の世界だけではなく、この世の世界にもこれらの要素は働きます。「質点」を定義した上で、高次元の引き付け合う力が物質に働くありさまを、時間や精神の要素を抜いた三次元空間の運動法則として定めたのが力学です。

 ドイツの哲学者カントは、ニュートンの空間と時間を、主観を超えた必然的な時空間として再定義しました。電磁気学は、「再定義された時空間に遍満したエーテルの振動を記述したもの」と位置づけてよいでしょう。精神は取り除かれたままですが、四次元空間が科学の場となったと言えます。 

 「三次元科学を四次元科学で統一しよう」という営みが現代物理学だったとすれば、次の「精神」の手前で足踏みしているのも、現代物理学ではないかと思います。「客観的データへの実験者の観測の関与」や「光速を超える相互作用」などのあたりで、精神の領域に踏み込めていないように思います。

参考

現代科学の自然観の限界

 幸福の科学で説く四次元には、「幽体」を存在形態とする、地獄界や精霊界(幽界の上段階のある程度調和した世界)と呼ばれる世界があります。ただ、死後五次元に上がるには精神的な目覚めが必要で、肉体的な欲望に流されているだけではいけません。

 科学(電磁気学)で扱う四次元は、この四次元の幽界から、喜怒哀楽といった感情レベルの心を抽出した世界と言えるのではないか思います。幽界の科学は、かなり電磁気学と重なるものがあり、幽体レベルの心の存在は「電磁気の応答」で検出できると思います。

 物質を扱う物理学は、これでいったん完結した世界になっています。生物学も物質レベルで解明し、医学、薬学、農学、環境科学などに応用することで、飛躍的な進歩を遂げました。しかし、新しい生物学や進化論には、四次元で取り除いた精神的要素、五次元以降の精神が必要です。 

 また、未来の宇宙航行技術など、これからの物理学の分野でも五次元以上の探究が不可欠です。

 

生命の認識

 生命の本質を認識することは、難しいことです。この物質の世界に生きていながら、物質以上の価値に目覚めなければいけない。そのため、生命の探究の前には、”心の窓”を磨き、”外の風景”が見えるようにしなければいけない。

 動植物の個体レベルの生命を扱うには、従来の生物学が解き明かした生物体の知識が必要となりますが、それに加えて、四次元幽界レベル(特に精霊界)に存在する生物個体の「幽体」を科学で扱う方法の構築が必要です。

 しかし、動植物の諸霊と心を通わすことを目的として、悟性を澄まし、霊的感覚を磨くというのはお勧めできません。まずは、自らの使命・志の発見や本当の自分の探究、そして悟りを磨き、生命そのものの慈悲を感得することが必要だと思います。

 動物霊には、純然とした動物の魂だけでなく、死後、地獄に堕ちた人が、動物霊になっていることがあります。たとえ霊的な感覚をもっていても、亡くなって迷っている人の意識と通じて幸福にはなれません。動物、植物、自然霊などの意識と通じたとしても、欲にまみれたままの心境であれば、かえって動物霊に翻弄される危険があります。まず、心を正し、使命を持った人が動植物の霊性の探究に入るほうが正統でしょう。

 「空」を観じることで、生命そのものに到ることができるのです。

「『空』とは、結局、仏の光、仏のエネルギーのところまで見抜いていくことなのです。仏のエネルギーとしての自分、仏のエネルギーとしての万象万物というように見ていったときに、『空』というものは、第一義的には、もちろんこの世的なる見方、考え方の否定になりますが、この世的なる存在の否定をした奥に肯定が現われてきます。すなわち、力強い生命のエネルギー、生命そのものが現われてくるのです」(『悟りの挑戦(下巻)』)

 まず、生命そのものの慈悲に浸ることが大切ではないでしょうか。慈悲は空間的にも時間的にも満ち満ちたものです。

 

大いなる 念い の顕現

 生命の大樹・宇宙樹がなければ、この大宇宙はとても運行できない。透徹した目を持つ、あるいは宗教的な体験をすることにより、そのことが分かるようになります。エントロピーがただ増大していくだけで、どうしてこのような美と秩序と調和の世界ができあがるでしょうか。

幸福の科学大川隆法総裁は、著書『人生の王道を語る』でこう述べています。

「全人類の魂は、あるいは人類だけでなく、動物、植物をも含めた魂は、大宇宙的な視点から見たときに、巨大な一本の大木であるということを忘れてはならないということなのです。すべての生命は、三次元的な目によって見るならば、バラバラのように見えます。一本一本の根が違うように、一枚一枚の葉っぱが別のように、違って見えますが、より巨大な目で見たら、霊的な目で見たら、一本の巨大な樹木そのものであるということなのです」

 「幹から枝分かれした生命」が実在のものであり、この幹と枝のつながり全体が進化しているのだと思います。進化とは、決して一枚の葉っぱが隣の葉っぱの光を奪うように育つことではなく、生命に備わった原理、さらに言えば「宇宙の法則」の中に位置づけるべき現象なのです。

 

自然の中にも利他の精神が見えてくる

 心境を磨き、高め、唯一の慈悲に包まれるほどの宗教的な体験を得ることで、宇宙そのものを慈悲として受け止められる。そこまで行かなくても、自分の中の霊性に気づき、「霊的な自分が本当の自分だ」という気づきに到ったとき、自然界や生き物の世界の霊性にも気づく人は数多い。 

大川隆法総裁の著作『悟りの極致とは何か』には、菩薩(七次元)の悟りについて、「自分というものが『単なる自分のための自分ではない』ということが、本当の意味で納得できる」と説明されています。この境地に至ると、自然のなかにも利他の精神が見えてくるはずです。

 もちろん、一頭一頭の動物が利他の心を持っているというわけではありません。生態系というか、「生物のつながり同士の関係性の総体」が、生命を生かそうとして存在していることが感じられるようになるということです。

参考

生命を持ち地上に生きている以上、生物は進化する

 時間的・空間的に絶対の存在、それは永遠の生命です。銀河系も恒星も、生命の永遠性を三次元世界で表現しようとしているのだと思います。地球系で言えば、「地球の生命を生かそう」という太陽の圧倒的な生命力でもあります。こうした生命の一端を、ある程度知識で推測することは可能でしょう。例えば、木星が公転することによって、水を含む小惑星が地球に届けられたことや、地球に向かう隕石を数千分の一に減らしていることなどを学べば、惑星と惑星を結ぶ慈悲のつながりが感じられます。単に知っただけでなく、その神秘性に打たれ、心に芽生える「感謝」が次の科学への道案内になるのではないでしょうか。太陽系も「地球生命を生かすためにある」ように見えてくるのです。また、地上の生命も、絶滅の危機が何度訪れても、「生命の永遠性」という理念を実現すべく、その都度進化を遂げて、活動を止めなかったのだと思います。

 生命そのものは永遠ですが、地上世界は、エントロピーの増大則に支配されているため、形あるものは滅びていく。生物たちは永遠性の理念を体現するために、自然環境の激変や、天敵による捕食や病気などの抵抗をかいくぐり、進化している。生命を持ち地上に生きている以上、生物は進化するのです。

 こうした大いなる「生命」の存在に気づくと、精神(霊性)のない四次元空間に たまたま生命ができ、時間の経過や自然選択だけで進化したという考えに帰依することはできません。

 

東洋では自然をどう見ていたか

 朱子の自然学では、形而上の「理(イデア)」は形而下の「一気」に現れ、一気はさらに「陰陽(気)」や「五行(質)」といった階層を持ち、全ての物質に影響を与えているという階層構造を持っています。これは、プラトン哲学の「神─宇宙霊─物質」の考え方や、ルネサンス思想からシェリング哲学の「絶対者─自然霊(産み出す自然)─質料(産み出された自然)」の考え方に近いものです。また、不思議なことに、「気」はフランスの生物学者ラマルクが提唱した進化論の進化要因としての「自然」にも近いのです。

 参考

生物を陰陽と五行で説明

 陰陽という概念は、三次元の素材を取り扱う上では出てきませんが、「電磁気」などがもつ四次元以降の世界の性質をよく表現しています。「何かの存在があると、周囲との相対的な陰・陽が決まり、それが時空間に波として影響を与えていく」というものです。

 朱子の自然学は、天体の運行や物理学などの面では自然科学に太刀打ちできませんが、気象学と生物学においては見るべきものがあります。「一なるものから分かれて、万物がつながっている」という考えは、生態学にも通じるものがあります。

 朱子は、「生物の起源は気である」「全ての生物には心がある」とし、生物の多様性は、陰陽と五行で説明しています。例えば、草は陰、木は陽、獣は陰、鳥は陽、獣でもサルは陽、鳥のなかでもキジのように歩く鳥は陰というように、陰陽を基本にして種差を説明しています。これでは180万種いると言われる生物を説明しきれないので、東洋の自然学・生態学が廃れてしまったのは無理もありませんが、生物を「一つの有機体」として捉える視点は捨てがたいものがあります。

 

「空間縁起」としての生物のつながり

 生物のうち、独立して生きていけるものは何一つありません。

 恒星は銀河のなかの適度な位置にあり、惑星は恒星重力のバランスの上に公転しています。惑星がなければ、生物が住める環境もありません。太陽は地球に日々、生物が生きていくためのエネルギーを届けていますし、地球には二酸化炭素や窒素、水、酸素など、生命維持に必要な素材が揃っています。

 生態学は、生物と無生物との関係、生物同士の関係性を扱う学問ですが、生態学が明らかにしたことは、独立して生きられる生物はいないということです。生命の探究ということで、生物個体を解剖し、器官や細胞、細胞小器官、遺伝子などに細分化しても、生命を理解し切れるものではありません。個体以上の生命を有らしめる関係性についても理解が必要です。

 重力や電磁力、大気・海洋の流れから生物同士の「食う・食われる」の関係性まで、つながったものとして理解しなければ、生命の真の姿は分かりません。そうした物質やエネルギーの流れの理解は、目に見える材料のみを扱っていてはこぼれ落ちてしまいます。

 慈悲の念いが大宇宙として顕れ、そこに人間も自然もその慈悲を分かち合いながら つながっている。そうした”一本の大樹”が見えてきたら、それが生命であり、神に創られた本当の自然であると思います。

 

生命の古くて新しい見方

 現在の生物学は、生態学、発生学、遺伝学、生理学など、「目に見える物質としての生物学」としては一大成功を収めていますが、生物が死してまた生まれてくる「見えない世界の解明」がなければ、完結しません。

 数学者・岡潔は、エッセイの中でこう述べています。

 「仏道を修行するとそうでない(理性的な知ではない)知力を体験する。無意識裡に働き、一時にぱっとわかる。仏教はかような知力を無差別智といっている」

 「生命の緑の芽の青々とした人なら、冬枯れの野に大根畑を見れば、あそこに生命があるとすぐわかる。生命が生命を認識するのである。こうした人にはまた、真善美の実在することもわかる。しかし、物質主義者には決してわからない」

 生命を把握するには、このような悟性、第六感といった「心の力」を必要とするのです。

 現前の今の自然のあり方、生物を生かしめている慈悲のつながりを見なければ、進化論は語れません。

 

生物に押し付けられている価値観

 ダーウィニズムから見えてくる生物の姿は、どれも 光やエサをいかに自分のものとするか(エネルギーの確保)、いかに自分の子孫を遺そうとしているか(性、遺伝)を考える存在としてしか描かれていません。しかも、こうした「捕食や配偶者選択を目的として生物は生きている」という表現ですら、現代進化論の立場においてはタブーなのです。

 一時期、生物学において一世を風びした社会生物学は、生物の合目的的に見える生態や形質も、利他的に見える行動も、共存して調和している生物間のルールも、単に「遺伝子の頻度を高めたことによる結果」として扱ってきました。これは、唯物的・無神論的な人間がその人生観を生物に押し付けているだけにすぎません。「人間はその食うところのものである」と言った唯物論者がいますが、その信奉者は生物に「欲」や「本能」以上のものを見ることはないでしょう。

参考

 イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」説では、「個体は遺伝子の乗り物」になっています。ドーキンスの説では、個体の食も性も、遺伝子の”保存戦略”の支配下にあるのです。

 進化論では、「被子植物は、いかに動物に食べられず、いかに動物をだまして花粉を運んでもらうか」といった方向で進化したように描かれることがあります。

 しかし、それは植物個体の持つ一側面であって、大局的には植物全体は、動物その他多くの地球に住む生物や環境に奉仕していると思います。動物には少しぐらい食べられても困らないようにつくられているのです。

参考

進化論は、唯物論下でしか有効ではない

 進化論が提唱される一昔前には、「植物は人間に貢献している」として、神の恩寵を説く神学がありました。

 しかし、唯物論的な進化論は、そうした擬人的な表現、目的論的な説明を神の存在とともに否定。進化論には、生物の神秘性や親愛性をはぎ取ろうとする 偏った「目的」があったと言えます。

 唯物論では、生物の自己保存的な面しか見ません。もちろん、生物個体の本能としては、そうした面はあるでしょう。ただし、生物あるいは生態系、生物全体の存在には、目に見えないものも確実に存在します。

 見えないものは、”現代科学”の対象ではないかもしれません。しかし、「生物の目的」や「偶然の変化が本当に偶然によるものか」ということは、科学では検証できません。

 進化という事実は科学が扱える範囲のものです。しかし、進化のメカニズムで 科学で解明されている部分がほとんどないのです。

 重力方程式は、自然観が違っても有効な理論ですが、進化論では、「霊的な自然存在があるか否か」で結論が異なります。進化論は、唯物論下でしか有効ではない理論なのです。

 そのため、進化論は歴史の問題ではありますが、思想の問題でもあり、自然科学だけでは答えが出せないものなのです。

 地球上の生物に限った話をすれば、この星に生命を与えるものは、まず太陽と言えるでしょう。もちろん、生物に身体を構成する元素や、地磁気やオゾン層などが整った住みかを提供する環境としての地球もそうでしょう。しかし、こうした目に見えるものばかりではありません。

 大川隆法総裁の著作『太陽の法』には、地球系に限ると、十次元の意識には、大日意識、月意識、地球意識の三体があると説かれています。さらに上位には、太陽の生命体そのもの、太陽としての霊体そのものが存在するのです。

 『太陽の法』には、地上生命の誕生について、「地上にあらわれた生命の発現レベルにかなりの上下の差、高低の差をもたせる」という方針の下、動物の基本となる微生物をつくり、次にカビなどの菌類をつくり、植物の祖としたことが説かれています。

 地球の生き物として、個々の生物の理念に先立ち、動物(消費者)、植物(生産者)、微生物(分解者)を配置するような太初の理念があったのだと思います。

 太陽系意識霊のエネルギーが、十次元の三体の意識から九次元の十体の霊を通し、地上およびあの世の全ての世界へと流れています。

死んだ生物は、「群魂」と呼ばれる一つの魂になる

 この流れの下、上位理念によって下位の存在に影響を与える階層的な仕組みができていると思われます。生物の種とその種の個体との関係にも、こうした「一即多の関係」があり、生物の個体は種を形成しつつ、種の統制下にある関係性が成立しているのではないでしょうか。そこには、少なくとも唯一神が全生物を創ったとか、自然選択説で全生物の進化を説明できるといった単純なものではないことがうかがえます。 

 生物学者の今西錦司氏が言う「種社会」は、個体を全て足し合わせてできるものではなく、システムとしての存在でした。今西氏が説く進化論は、個体変異から説明するダーウィンの進化論とは異なり、この種社会を単位として起こるのです。

 この「種─個体」の関連性を裏付けると思われる霊的な実体が、大川隆法総裁によって明かされています。「人間は死後、個性が残り、その個性が転生輪廻して経験を積むが、動物や植物といった生物は死後、似たような魂でまとまり、『群魂』と呼ばれる魂に帰属してしまうことがある」と説かれています。

 ヒツジならヒツジ、シマウマならシマウマといった まとまった「種」の群魂があり、そこで個々の生物個体の経験が共有されるのです。そして、生物にも相応の心があって、それらが共有される磁場があるのです。

 この「種─個体」、あるいは群魂という霊的なまとまりは、地上での生物個体の経験を次世代に伝え活かす働きを持つため、進化論から偶然論を駆逐し、進化に方向性や合目的性を復活させる橋頭保になるのです。