現代進化論

「偶然性」と「自然選択」という二本柱

 変化の無方向性(偶然性)と自然選択は、現代進化論の大きな柱です。

 ダーウィンの著書『種の起源』の完全なタイトルは、『自然選択の方途による、すなわち生存競争において有利なレースの存続することによる、種の起原』であるので、自然選択が進化論の主柱の一つであることは間違いありません。

 もちろん、自然界では、生き残る個体の全てが環境に適したものだけではなく、運がよかったというものもあるでしょう。しかし、数多くの個体と何世代もの時間をかければ、適したものが残るように進化が働くというわけです。

参考

1 「自然選択」 優劣の判断には精神が必要

 ダーウィンは、育種家が優良個体の選抜によって新しい品種をつくることをヒントに、「それは自然界でも起こる」として自然選択を考えました。この場合、selectionは「選択」と訳されます。

 選択には何かを比べて優劣を判断する精神が必要です。人為選択では育種家がそれを行います。しかし、科学哲学が立脚している精神を捨象した自然では、それはできないはずです。唯物論下での「自然選択」は矛盾していると言えるでしょう。

 動植物や自然界に心や精神の一部の働きを認める哲学を立てなければ、これを論ずることは間違いであり、この立場でこそ自然選択は科学の用語となると考えます。

2 「自然淘汰」 事後的な説明にすぎない

 上記の用法が間違いだと知っている進化論者の多くは、selectionを「淘汰」と訳して使います。より多くの子孫を遺す形質を持ったものが淘汰される、あるいは不利な形質を持ったものがふるい分けられる(純化選択)という意味での自然淘汰です。ダーウィンも『種の起源』の発刊後、英哲学者ハーバート・スペンサーの「最適者生存」という言葉を受け入れて、こちらの意味でも使っています。

 なお、自然選択説の同時提唱者ウォーレスは、人為選択の比喩を用いず、こちらの意味で選択を用いています。例えば「ブルドックなどの品種を自然界に戻したら、いずれ生存に不利な特徴は淘汰され、祖先種に戻るだろう。その戻っていくプロセスが自然選択だ」という考えであり、ダーウィンとは異なっています。

 しかし、その自然淘汰説では、未来を予言できないことになります。何かが起きてからそれを説明する言葉にしかすぎません。子孫を遺すものが最適者と呼ばれ、その過程を自然淘汰と呼ぶ。これは現象の原因ではなく、事後的な説明であり、科学法則というよりは歴史の用語であると思います。

 もちろん、淘汰圧や適応度を数値化して、コンピュータ上で進化のシミュレーションをすることは可能ですが、だからといって自然淘汰が進化の論理となるわけではないでしょう。

 

唯物論下では自然選択は科学法則に至っていない

 自然淘汰(方向性選択)の説明でよく用いられる例えに、「デコボコした石がたくさんある中で、それらを坂道で転がすと、比較的球に近い形のものが遠くまで移動する。遠くまで移動したものを選び、何度も繰り返して転がすと、もっとも球に近い石が残る」というものがあります。

 しかし、その例えに「坂道」が登場する時点で、すでに知性の介在があります。なぜ、石の淘汰の説明に坂道をもってきたかと言えば、試験する前に球に近いものが遠くまで転がることを知っていたからでしょう。淘汰圧も適応度も、人間の知性を人為的に後付けで介入させています。こちらも科学として論じるのであれば、自然界に知性を認める哲学を立てる必要があります。それなくして、自然淘汰と適者生存は歴史的用語です。

 唯物論下では、「自然選択」は使用上の誤りがあるか、科学法則には至っていないというように思います。しかし、人類は自然選択という言葉によって長らく惑わされてきました。天動説やフロギストン、前成説でも世紀を超えて炎上し続けたことを考えると仕方ないかもしれません。

 平面世界に住んでいると、目の前の線が四角形を描いているか、大きな円の一部であるのか、よく分からないのと同じです。賢い二次元人はある一点から等距離にある点の集まりであることを突き止め、それが円だと証明するかもしれません。しかし、悟性のある人はそれをより高い位置から見るようなもので、眼下の図が四角形か円か一目で分かります。悟性の立場から見れば、「自然選択」の有効範囲が狭いことがすぐ分かると言えます。

 

偶然なのか、意図が働いたのか

 ダーウィンは、生物の変化は「無方向」だと考えていましたが、「個体が経験し、獲得した形質も遺伝する」というラマルクの「獲得形質の遺伝」も認め、それを理論化していました。

 現代進化論の要の一つは、「無方向の変異」だったと言えます。これを象徴的に説明すると、宇宙線や化学物質の影響などで、偶然に生物の生殖細胞の核DNAの塩基配列に変異が生じ、表現型に変異が現れるというようなことになるでしょうか。

 しかし、生物にある変異が生じたとき、それが本当に偶然なのか、それとも何らかの意図が働いてそうなったかについて、現代の科学では証明できません。証明できないにもかかわらず、無方向の変異は進化論を支える看板になっているのです。

 「偶然」ということが科学の顔をして鎮座しています。

参考

 大川隆法総裁の著書『信仰告白の時代』で説かれる「この世において存在するものは、すべてが縁起によって成り立っているのである」という仏教の思想が対立します。これは思想・哲学の問題です。

 「進化は偶然に起こる」というのは一つの思想です。進化論者はこの”砦”を必死に死守しています。ここには、「生気論や目的論への過去帰りを拒むために守られているルール」という以上の意図は、見出せません。

 偶然の変異では、よく適応しているように見える生物の存在理由を説明できません。そのため、「遺伝的浮動」という偶然論を”補助輪”として使いながら、特定の形質を遺すように働かせる機能を「自然淘汰」に一手に引き受けさせます。その自然淘汰も、これまでの連載で見てきたとおり、哲学的、科学的に限界があります。

 もちろん、新しい変異が起きる以前に、生物には個体差があります。平均値から外れたものが生き残りやすくなるような環境変動もあるでしょう。

 しかし、「干ばつで草木の種子が少数肥大になると、大きなくちばしをもつ鳥が生存率を高める」「マラリアが蔓延すると、それが発病しにくい鎌状赤血球をもつ人の割合が増える」というようなことで、進化や種の多様性のすべては説明できないと思います。

 この「偶然」と「自然淘汰」に信頼を置けば置くほど、生物の集団のなかで平均値が徐々にある方向にずれていくという「漸進的な進化」を主張するようになるようです。そうであれば、今でも、自然界には鎌の形になりかけの前脚を持つキリギリスや滑空できないがだぶついた皮膚をもつネズミなど、移行中の生物をもっと見かけてもよいはずです。

 「たまたま足の長い仲間がいて、その足が天敵から逃れる上で有利だったために、群れの中で占める割合が増えて、このような長い足が進化した」というワンパターンの説明では、なかなか信じられない時代になってきたように思います。「突然変異プラス自然淘汰」で変化した動植物もいるとは思いますが、すべてがそうとは思えません。

 もし、「偶然」という思想以上に、共感を得られる理論を打ち立てることができれば、進化論は次の段階へ移行することでしょう。