歴史の「IF」 太平洋戦争で「戦っても勝てた」

 太平洋戦争は、日本の「侵略戦争」とか「自衛戦争」という言い方がされます。どちらも当たっている面はありますが、一面的な見方です。では、その本質は何だったのでしょうか。

 日本は、1860年代に戊辰戦争で国内を統一。日清・日露戦争で勝ち、アジア地域で影響力を拡大します。一方、アメリカも1860年代の南北戦争で国内を統一。ハワイやグアムの併合など太平洋を西へ進出します。

 そして、1895年に日本が台湾を1899年にアメリカがフィリピンを統治したあたりで、国際社会の表舞台に飛び出してきた二大新興国の衝突が運命づけられました。それが太平洋戦争だったのです。

 様々な見方はありますが、突き詰めると、あの戦争の本質は同時期に国力を伸ばしていた「日米の覇権戦争」だったと言えます。

 この戦争をきっかけに、アジアやアフリカの国々が独立し、植民地支配が終わったことは大きな意義がありました。

 戦後の左翼的な教育の影響で、太平洋戦争の負の面が強調されている。しかし、当時の国際情勢や国際常識に照らせば、日本は極めて常識的な国だった。

 むしろ、幕末以降、欧米列強から押し付けられた不平等条約の解消や他国からの侵略を受けないように、一刻も早く一人前の国家になろうと、「坂の上の雲」を目指して必死に駆け上がっていた純朴な国だった。 

 一方、当時の日本の強さは特筆すべきものがある。空母が長距離を移動し、そこから飛び立った航空機が敵を叩くという史上初の空母艦隊決戦を編み出し、緒戦の真珠湾では、アメリカの戦艦群を、2日後のマレー沖海戦でも、イギリスの東洋艦隊をあっという間に沈めた。時間が経つにつれて劣勢に回るが、指揮官の正しい決断があれば、勝つチャンスは何度もあった。

 過去を正しく評価し直すことで、改めて日本人としての誇りを取り戻したい。

 実際の戦闘でどうすれば日本は勝てたか。過去を正しく評価することで、日本が今後世界の平和にどう関わっていくべきかを探ります。

参考

1 1941年・真珠湾攻撃 石油タンク群や空母などを攻撃すべきだった

 南雲中将が追加攻撃を命令

→アメリカ軍の石油タンク群やドック、空母を破壊

→アメリカは数ヵ月から1年程度太平洋に海軍を展開できない

→その後の戦局を有利に進める

現実 燃料基地を攻撃せず

 1941年12月8日、司令長官の南雲忠一中将率いる空母機動部隊は、アメリカのハワイ・オアフ島の真珠湾基地を奇襲。6隻の空母から飛び立った360機の航空機が、停泊していた米戦艦に向け魚雷攻撃や急降下爆撃を繰り返した。戦艦8隻のうち、沈没4、座礁2、損傷2とほぼ全滅状態に追い込み、圧倒的な勝利を収めた。

 だが、南雲中将は、石油タンク群や艦船修理施設(ドック)、湾外に出ていた空母2隻へのさらなる攻撃をためらった。追加攻撃を部下から進言されたにもかかわらず、アメリカの反撃を恐れて引き揚げたのである。

 歴史評論家の三野正洋氏は、「その後の戦いを見ても分かるように、日本は自軍にも敵軍に対しても、燃料や武器、食料や人員など軍隊が戦い続けるために必要な兵站への関心が極めて薄かった」と指摘する。

 真珠湾攻撃について、戦後、米太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥はこう振り返っている。

 「日本軍は湾内の近くにある燃料タンクに貯蔵されている450万バレルの重油を見逃した。この燃料がなくなったならば、艦隊は数ヵ月にわたって、真珠湾から作戦をおこすことは不可能であったろう」(『ニミッツの太平洋海戦史』)

 当時、米太平洋艦隊は、燃料や物資の補給・貯蔵、艦船の大規模修理などを真珠湾基地に完全に依存していた。ここで石油を失えば、約4千キロ離れた米本土から改めて運び直し、ドックが壊されれば、修理が必要な軍艦は米本土まで帰らなければいけなくなる。

 南雲中将が勇気を出して「追加攻撃を行う」と決断していれば、その後の戦局を相当有利に進めることができたであろう。

 

2 1942年・フィリピン攻略 脱出するマッカーサーを捕まえるべきだった

 あらかじめマッカーサーの脱出を想定

→コレヒドール島周辺海域の警備を強化

→脱出したマッカーサーを海上で捕まえる

→日本に有利な条件で和平交渉

現実 マッカーサーがフィリピンを脱出

 日本は真珠湾攻撃と並行して、蘭印(インドネシア)の油田を奪うため、東南アジアに兵を進めた。アメリカの植民地になっていたフィリピンでは、真珠湾攻撃の直後から始めた空襲で米航空兵力を壊滅させ、1942年1月には首都マニラ、5月には米司令部があるコレヒドール島を占領。米比全軍を降伏させた。

 当時、米極東軍司令官としてフィリピンに赴任していたマッカーサーは、家族や幕僚と共に高速魚雷艇で同島を脱出。オーストラリアに逃れた。マッカーサーは、当時の厳しい状況をこう振り返っている。「私は11キロもやせていた。戦陣生活で古びてすりきれた軍服をまとった私の姿は、勲章が燦然と輝く勇ましい司令官どころではなく、おそろしくやつれてみすぼらしく見えたに違いない」(『マッカーサー大戦回顧録・上』)

 当時、フィリピンで圧倒的な強さを見せた日本海軍は、周辺海域を軍艦で封鎖していた。夜陰に紛れて脱出を試みたマッカーサーらは、この艦隊に何度も遭遇。しかし、魚雷艇の小ささから漁船と見間違われたのか、砲撃を受けずに逃げ切った。マッカーサーは、脱出後、「I shall return.(私は必ず戻る)」の言葉通り、1944年にフィリピンを奪還。米陸軍のナンバー2となり、戦後は、連合国軍最高司令官として日本の統治に当たった。日本は、この優秀な将軍を脱出の際に捕まえるべきだったし、あらかじめ想定して海上警備を強化していれば、容易に捕まえられた。当初は連戦連勝だったことを背景に、マッカーサーの身柄の引き渡しなどを材料にして、和平交渉を進めることもできたであろう。

 

3 1942年・ミッドウェー海戦 陸用爆弾のまま航空機を出撃させるべきだった

 南雲中将が、航空機に陸用爆弾のまま出撃を命令

→2倍の兵力で米艦隊に勝利

→アメリカは西海岸に軍を割かざるを得ず、ドイツが欧州を制圧

→アメリカは日独と講和を余儀なくされる

現実 兵装の転換で大損害

 日本は真珠湾攻撃で米空母を撃ち漏らしたが、1942年4月、この空母から飛び立った航空機に初めて本土を空襲される。これを防ぐために、日本は、アメリカの中継地となっていたミッドウェー諸島の攻略、米空母艦隊の撃滅を計画する。6月5日、同島付近の海域で、日本の空母艦隊と米空母艦隊が互いを発見。日本の司令長官の南雲中将は、航空機に装備していた陸用爆弾を魚雷に付け替えるよう命じた。だが、この判断が命取りとなった。付け替え作業と索敵から帰還した航空機で甲板上は混乱。その間に米航空機からの爆撃を受け、付け替え中の爆弾にも誘爆し、日本の空母は大炎上した。この戦いで、日本は空母4隻、航空機350機を失い、兵員5千人が死傷。それまで優勢だった日本とアメリカの立場が たった1日で逆転した。

 当時の日本の兵力は、空母、戦艦ともにアメリカの2倍以上。米の歴史家も日本はミッドウェー諸島を占領できるだけの戦力を持っていたと評する。では、なぜ大敗したのか。日本の暗号がアメリカに解読されていたこともあるが、大きな要因は「将の差」であろう。南雲中将は、魚雷への付け替えを命じたとき、部下の山口多聞少将から陸用爆弾のまま航空機を発進させるべきという進言を受けた。しかし、これを却下した。一方、スプルーアンス少将は、日本の空母艦隊を発見すると、これを好機と見て玉砕覚悟で艦載した航空機に全機発進命令を下し、日本の空母を沈めた。日本が兵装転換せずに出撃して、この戦いに勝っていれば、米軍は西海岸に貼りつく必要が生じ、ドイツが欧州を制圧。アメリカは日独と講和せざるを得なくなったであろう。

 

4 1944年・マリアナ沖海戦 レーダーの重要性に気づくべきだった

 レーダーの開発を進める

→アメリカに先んじて防空システムを構築

→戦闘を有利に進め、戦死者も激減

→日本に有利な条件で和平交渉

現実 レーダーを駆使した米国に航空機を撃ち落とされた

 1944年6月、アメリカはサイパン島攻略のため、マリアナ諸島沖に進撃した。一方、日本は、この島を失えば本土への空襲が本格化するため、「絶対国防圏」の最前線に位置付けていた。

 空母艦隊の指揮官・小沢治三郎中将は、日本の航空機の航続距離がアメリカより1.6倍長いことから、「アウトレンジ戦法」をとる。空母が距離をとって戦えば、日本はアメリカを攻撃できるが、アメリカは日本を攻撃できないという理屈である。

 しかし、アメリカは、空母に250キロ四方を探知するレーダーを備え、航空機と連絡する防空システムを装備。日本の動きを把握し、上空で待ち伏せ、有利な位置から攻撃を加えた。

 航続距離の優劣は無意味となり、日本は空母3隻、航空機約400機を失い、「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄された。

 勝敗を分けたのは、レーダーという技術レベルの差である。日本がレーダーを開発したのはアメリカよりも早かったが、海軍上層部が重要性を理解できなかった。研究者がアンテナの試作品を戦艦につけようとした際に、「かんざしのようなものを艦橋につけるわけにいかない」と拒否されたこともあった。また、マリアナ沖海戦では、パイロットが航空機につけていたレーダーを取り外し、代わりに魚雷を積んで出撃した。アメリカがレーダーで数百キロの範囲を探知できる一方で、日本は、敵を確認するのに相変わらず兵士の肉眼に頼っていたのである。日米合わせて24隻の空母が投入された史上最大規模の海戦後、アメリカは、太平洋の制海権、制空権を手にする一方、日本は壊滅的な被害で空母決戦ができない状況に追い込まれた。

 

5 人材登用 能力主義人事で人材を抜擢すべきだった

現実 年功序列の人事だった

 日本が負けたのは、アメリカとの物量の差よりも将軍の力の差、人材登用力の差だったことが分かる。

 たとえば、日本海軍では、兵学校の卒業年次、いわゆる「ハンモックナンバー」に縛られた、年功序列の官僚主義的な人事がなされていた。真珠湾、ミッドウェーで失敗をおかした南雲中将は、駆逐艦が行う水雷戦の専門家で、航空作戦の知識が乏しかった。一方、ミッドウェーで進言した山口少将は、日中戦争の重慶爆撃に従事するなど航空作戦に通じていたが、南雲中将より年次が下だったため部下に甘んじた。これに対して、アメリカでは、真珠湾での大敗後、ニミッツが少将から大将に昇進し、20数人を飛び越えて米太平洋艦隊司令長官に就任するなど、信賞必罰の柔軟な能力主義的な人事が行われていた。

 真珠湾攻撃に向かう途中、南雲中将は、草鹿龍之介参謀長に「えらいことをひき受けてしまった。きっぱり断ればよかった」とこぼしている。他にも、マリアナ沖海戦でアウトレンジ戦法をとった小沢治三郎中将や、レイテ沖海戦で反転して逃げた栗田健男中将など、勇気が足りず、優柔不断さから勝機を逃した事例は多い。当時の日本は決して適材適所だったとは言えない。 かたや、ミッドウェーで進言した山口少将は、実は真珠湾でも追加攻撃を催促するかのように、攻撃準備が整った旨の電文を南雲中将に送っている。 当時の人々も、戦後の日米の研究者の間でも、「山口少将が司令長官だったら、太平洋戦争で日本は勝てた」という指摘がある。

もし、適材適所の人事だったら

 山口少将を日本の連合艦隊の司令長官に抜擢

→真珠湾の追加攻撃でアメリカは大打撃

→ミッドウェーでは、即時攻撃でアメリカに勝利

→日本がアメリカに勝ち続ける間に講和に持ち込む

 

リーダーが国の未来をつくる

 外交努力で「戦わずして勝つ」にしても、実際の戦闘で「戦って勝つ」にしても、先の戦争で日本が勝つチャンスは数多く存在していた。

 ただ、そのチャンスを生かせなかった原因を突き詰めれば、当時のリーダーが決断できなかったという一点に集約される。リーダーの決断によって、国家の運命、国民の運命が決まるのである。

 評論家の日下公人氏はこう指摘する。「太平洋戦争で日本はなぜ負けたか。私の答えを言えば『人事がダメだった』。つまり、敗因は外部要因でなく、内部要因だった」 

 現代を生きる私たちにとっても、「いかなるリーダーを選ぶか」は重要である。 

 日本を取り巻く国際環境を考えれば、まさに今こそ「戦わずして勝つ」「戦っても勝つ」リーダーが必要とされている。

 もちろん、戦争を望むわけではない。むしろ、そうしたリーダーが出てきてこそ、戦争を抑止することができるのである。その責任は、国の未来を決めるリーダーを選ぶ、国民自身も負っていることを忘れてはならない。