無我

 お釈迦さまが、「無我」の教えを説いた理由の一つは、人生の苦しみのほとんどは執着に原因があって、その執着を取り去るために、「我」を取り去る教えが必要だったからということ。

 そして、この無我というのは、「我」がないと言ってるわけではなくて、一つには、反省・瞑想・祈りによって神仏と一体になること。もう一つには、利他・愛他で他人と一体になることを教えていることです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『悟りの挑戦(上)』で以下のように説かれました。

「釈迦が無我を説かなければならなかった理由の一つは、「結局、人生の苦しみのほとんどは執着にある」というところです。執着とは、何かに執われることです。この執着のもとにあるものが「我」なのです。我欲。あるいは「我あり」と思う心。あるいは我見─我でもって見る、自我でもって見る、自分に非常に都合のよい偏りのある目で見る。こうした我に基づく見方や欲望によって、人生の苦しみはすべてできているのです。ほとんどそうです。そして、それが最も出ているところは、四苦八苦のなかの「求不得苦」ぐふとっく(求めても得られない苦しみ)です。みんなこれは持っています。この求めても得られない苦しみというのは、もともとは「我」のところからきているのです。「我あり」と思う心からきているのです。「我あり」と思う心から「我がもの」という心も出てきているのです。これはおわかりでしょう。「我なし」ならば「我がもの」もないのです。「我あり」と思うから「我がもの」があるのです。まず「我」があって、「私のもの」というのが出てきます。これが執着の原因です。この「私のもの」というのがあって、そこに執着が生まれてきます。ですから、この執着を断つためには、まず「私のもの」というのを切る必要があります。「私の私の」「我の我の」というのを、やめることです。本来のあなたの存在というのは、いったい何でしょう。それは、大宇宙の根本の神仏が、光として人間を存在あらしめようとして出したのです。それが本来の姿でしょう。それを忘れてはいけません。その本来の姿を想い起こしたときに、人間は神仏と一体になれるのです。この無我の教えは、二つの面から、もう一度点検されなければなりません。無我とは、物理的物体としての「我」が無いということを言っているわけではありません。無我なるものの本質の一つには、「あなたは神仏と一体にならなくてはいけない」という部分があります。己れを空しうしなければ、神仏と一体にはなれません。「自分が自分が」と思う心が強ければ、神の光も射してきません。神仏と一体になるためには、仏教的に言えば、もちろん反省、瞑想がありますし、キリスト教的に言えば、神への祈りもあるでしょう。ひとりで神に一生懸命祈るのもそうでしょう。「神仏と一体となる」、これが一つです。無我になる方法として、もう一つは、「利他、愛他」があります。要するに、神仏と一体になるのも、他人と一体になるのも、両方、無我の教えなのです。「これが結局あなた方を生かしていく道なのだ」ということを教えているわけです。」

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