未知の領域を認める

 西洋医学は、正確に言えば、唯物論のほうに傾いていると言わざるを得ないところはあると思います。哲学的には、デカルトやカントの流れがさらに″純粋化”してきて、肉体的なことと精神的なことを切り離してきた流れが科学として残って、そういうふうになってきているところはあると思います。

 ただ、「事実がどうであるか」ということは、やはり大事なことです。現実には、「魂と肉体を融合したもの」が人間です。これは、各種の霊言集を出して、ずっと実証をやっております。

 人間は、やはり、魂と肉体が合体して存在するものです。たとえて言えば、いくら卵が、自分に中身があることを信じていなくて、「私は殻だけであって、中身はないんです。外側の殻だけが卵です」と言っていたとしても、やはり、中に入っているものがあってこそ卵なんですね。こういうことを言っているだけのことです。殻を否定しているわけでもありませんし、中身だけで卵が存在できるわけでもありません。

 ”器”がなくて魂だけでは、この世で修行ができないし、肉体だけで、中身の霊がなかったら、やはり修行になりません。そういう存在であるということが事実なので、唯物論は片方だけ見ているということです。

 もちろん、唯物論的に攻めていって、成果を上げている医療もあることはあるので、私はそれを否定するつもりは決してありません。この世的に研究して、薬なり、治療法なり、有効で成果を上げているものについては、それなりの神のご加護はあるものだと思っています。

 ただ、それによって、霊的なるものを完全に否定する方向に物事が行ってはいけないのだということは、知っていなければいけません。医学系の人は唯物論的になりがちではあるのですが、医学よりも科学として純粋な物理学系統、最先端の物理学になってくると、もう信仰の世界と変わらなくなってきており、神様を信じている人がすごく多くなってくるのです。物理学や天文学をやっていると、だんだん、信じるようになってくる人が多いのです。神秘の世界を垣間見ていると、どうしてもそうなってくるのです。

 この辺の未知の領域は、未知の領域としてまだ残っているのだということを、認めることが大事です。

 自分の肉体を簡単に“葬られない”ようにするためには、強い光の思想、繁栄の思想、あるいは邪悪なるものに負けない気持ち、「真実は死なない」という強い気持ちが必要です。こういうものを持っていないと、自分を守れないこともあると思います。

 それを表立って言うか言わないかは別にしても、病気を治すほうの側としては、両方を上手に使い分ける必要はあるでしょう。両方を知って、使えるものは使って、やるべきだと思います。

 さらに、もう一つは、医学で使われる心理学が、まだあまりに幼稚なレベルです。これについては、人間学をもっともっと深く知っておかないといけないと思います。

 まだ、フロイトやユングなどの流れのなかで、医学的にも治療は行われているんだと思いますが、われわれから見れば、間違ったものも相当あることは事実です。また、病気と判定されているなかにも、いわゆる「霊障」に当たるものがかなりあることも現実です。これは、エクソシスト(悪魔祓い師)のところへ行くか、病院へ行くかの違いですけどね。やはり、真実をきっちり知っておいて、光のパワーによって治していくことも、同時にやらなければいけないと思います。

 それから、病気の大部分は、本当に心の持ちようで変えていくことができます。

 「心で何を思うか」によって、人間は自分の未来を設計し始めるのです。肉体をつくるのは、もとは、やはり心です。「自分の未来をどう設計していこうとするか」ということが大きいわけです。治療をしながら、そのことを少しずつ伝えていくことが大事だと思いますね。

 「自分に、まだ、未来がある。将来がある。希望がある。まだ、やるべきことが残っているんだ」ということで、「自分自身で治していこう」という気持ちを本人が強く持って心に刻印し、医者がそれを手伝うという立場でやれば、病気の治りはすごく早いだろうと思います。

 たいてい、メンタルな面から崩れていっております。それで、簡単に人は死ぬものです。しかし、「まだまだやれるんだ」ということを、やはり、教えなければいけません。

 

  医学がどんなに進歩しようとも、人間の本質は肉体に宿っている魂であるという真実に変わりはない。人間の肉体を支配しているのは心であるからこそ、いつの時代も、正しい心の持ち方を教える宗教によって病気が治る事例が後を絶たないのだ。

 しかし、現代の医者は医療現場でそうした事例に直面しても、偶然か何かで片付けてしまうことが多い。それを追求して世に問う医者もいるが、残念ながら、人間が霊的存在であることを明確に認めている人はまだ少ない。「科学で実証されないものの存在は認めない」という姿勢が、医学の世界では頑強なまでに貫かれている。

 しかし、科学の本来の目的は未知なるものの探究にあるはずだ。これまでの学問の前提が崩れるからといって、未知なるものを避け続けていいのだろうか。

 大川隆法幸福の科学グループ創始者兼総裁は、近著『救世の法』のなかで、信仰と科学の関係についてこう述べている。

 「私たちは科学を決して否定していません(中略)。『科学のなかにも、神の真理、仏の真理は流れている。人類を幸福にする原理の一部は入っている』と言っています」

 「科学の未来は、実は、この信仰の上に成り立つものです。この信仰があって初めて、霊的存在やあの世の世界の探究が始まります」

 医学をさらに進歩させ、病気で苦しむ人々を救っていくためには、医者はもっと目に見えない世界の真実に心を開いていく必要がある。

参考

霊的人生観を受け入れ問診の付加価値を上げる

 現代の西洋医学はなぜ、がんや生活習慣病などに対応し切れないのか。医療改革を実現する上で、避けて通れない課題だが、実は、「問診の診療報酬が一律に決められている」ことに、考え方の限界が垣間見える。

 生活習慣を改善するには、対話の力が大きく影響する。検査数値の奥にある、その人の性格や悩み、人生観などを理解しようとする医者であれば、治療効果は高まるはずだ。しかし、今の医療制度は、「対話」についての付加価値の差を認めていないため、医者の意識は投薬などに向いてしまう。

 結局、西洋医学の限界は、人間を物質と捉えて、機械のパーツを修理するような発想から抜け出せないことにある。

 その限界を乗り越えるには、「人間の本質は心であり魂である」という霊的人生観を受け入れるかどうかにかかっている。人間は肉体に魂が宿って生活する色心不二の存在であり、葛藤や悩み、怒りやストレスといったマイナスの思いを長く持ち続けると、それが霊体に暗い影をつくり、やがて肉体に病気となって現れてくる。つまり、表面的な生活習慣の乱れは、そのマイナス感情の現れなのだ。

 信仰を持つと健康が回復する例は数多く存在する。なぜなら、正しい宗教は神仏の心に適った生き方を教えているからだ。手術や薬という外からのアプローチだけでなく、心を正すという内面からのアプローチを増やせば病気はもっと治せるだろう。

 医学の限界を乗り越え、本当の医療改革を実現するには、医療者が霊的真実に目を開くことが求められている。