痴呆症 詳しく

      (幸福の科学・大川隆法総裁の法話から)

年を取った人がぼけるのは、よくあることです

 これは、長い距離を走った自動車がやがて動かなくなるのと同じようなものです。長いあいだ走っていると、自動車も傷んできます。やはり、傷むものは傷むのです。どこから壊れるかは走り方しだいであり、ねじが緩む、車体が壊れる、油が漏れる、ハンドルが利かなくなるなど、いろいろな部分に問題が生じます。そして、車が傷んでいると、いかに運転がうまい人であっても、その車ではレースなどはできないのです。人間の体も、何十年も生きていると、やはり傷んできます。魂のほうは傷んでいなくても、体のほうが傷んでくるのはこの世的にはしかたのないことなのです。

参考

人間だけでなく、動物や昆虫も、やはり体が傷みます

 動物もやはり病気をしますし、犬や猫にも痴呆症があるように見えます。年を取った犬や猫は、頭がぼけているような変なことをしはじめたりします。カブトムシの寿命は非常に短いのですが、カブトムシの体も傷むのです。たとえば、捕るときに、木の上から落ちて頭を打ったカブトムシは早く死にます。また、何かに引っかかって脚が一本取れたカブトムシもやはり死ぬのが早いのです。

 この世に肉体を持っている生き物は、やはりさまざまなことで体が傷つき、思うように生きられないものです。

  年を取ると体が傷んでくるのは、仏教の説く「生・老・病・死」のなかの「老」と「病」に当たり、ある程度しかたがないことなのです。

 

 幸福の科学大川隆法総裁は、『復活の法』で以下のように説かれました。

「ぼけの原因として何があるでしょうか。年を取ると、目が老眼になってきます。普通は、四十代、四十五歳前後からですが、早い人だと三十五歳ぐらいから老眼が始まるそうです。  老眼になると、近くのものが見えにくくなるので、新聞の小さな字が読めなくなります。週刊誌なども字が小さいので読めません。若いころに読んだ文庫本も、字が小さくて読めないのです。字が読めないため、新聞や雑誌、本などを読まなくなります。そうすると、さまざまな情報が入ってこなくなります。ところが、体に栄養が必要なように、脳にも〝栄養〟が必要なのです。そのため、勉強的な知識が入らなくなってくると、訓練が行われなくなり、脳が、だんだん枯れてきて、弱ってきます。このように、目が弱ってくるあたりから、ぼけが始まるのです。また、目が弱るのと同じころに足も弱ってきます。目と足は連動しています。足の裏と目と脳は、みな、つながっています。お年寄りはよく散歩をしますが、足が丈夫で散歩ができているうちは、血液の循環がよくなるので、脳も健康になり、目も健康になるのです。足をよく使って運動ができていると、目も頭もよくなるので、本も読めるのです。しかし、足が弱ってくると、血流も悪くなるため、頭もすっきりしないし、すぐくたびれてしまいます。本を読むとくたびれ、テレビを観てもくたびれ、すぐくたびれるのです。したがって、血流の維持が大事です。歩けるうちは、なるべく歩いたほうがよいでしょう。散歩は最も安上がりな運動です。「散歩をすると目と頭によいのだ」ということは知っておいていただきたいと思います。ただ、四十歳を過ぎてからは、体が傷みやすくなるので、ハードな運動をすると足や腰などを傷める人が出てきます。ゴルフをしても腰を傷めることがあります。「足を捻挫した」「転んで腰を傷めた」などということがきっかけになって、運動が止まってしまうと、その結果、目も頭も弱くなり、知的活動ができなくなって、ぼけが始まるのです。このように、目がきっかけになったり、足がきっかけになったり、腰がきっかけになったりして、ぼけが始まります。その意味で、健康管理は、とても大事なのです。四十代以降もハードな運動を続けられる人もいるのですが、それを続けられなくなったとしても、体の健康維持のことを考えると、ソフトな運動でもかまわないので、なるべく運動を続けたほうがよいでしょう。」

 

年を取っても、ぼけないための秘訣は、何でしょうか

 原則は健康管理です。規則正しい生活をし、また、年を取ると足から弱ってくるため、できるだけ歩くことが大事です。

 それから、情報が得られないと頭がぼけるので、新たな情報に接することも大事です。

 「老人ホームが風光明媚な所ばかりにあるのが、ぼけの原因だ」という説もあります。そういう場所は散歩にはよく、散歩ができる環境は必要だとは思いますが、情報があまり入ってこないとぼけるのです。

 また、常に気を若くすることも必要です。老人ホームにいるおばあさんであっても、化粧をすると若返って頭がしゃんとすると言われています。やはり、生きる意欲を持たなければいけないのです。ただただ枯れていくだけでは済まないということです。

 要するに、自己管理として、健康管理や栄養管理をし、常に何かに関心を持つことで、気を若くすることがぼけを防ぐのです。

 それでも、体が傷んでしまったときに、体が充分に機能しなくなるのはやはりしかたがないのです。

 ただ、五十歳ぐらいの人でも、会社の仕事がなくなったり、子どもが早めに巣立ったりして、生きがいがなくなると、そこから急に老け込んで、ぼけてしまうこともあるのです。

 したがって、そういう人はペットでも飼うとよいでしょう。ペットも生き物なので、いろいろなことを考えているため、ペットに話しかけたり、世話をしたりしている人はやはり若返るのです。

 生き物の場合は、えさをやったり、ふんを片づけたりしなくてはなりませんが、いまはロボットのペットがはやっていて、犬や猫のロボットが出ているので、生き物が嫌な人はロボットでもよいと思います。何か刺激があったほうがよいのです。

 痴呆症は四十代後半や五十歳ぐらいからありえます。生きがいを失えば、その時点でぼけてくることがあります。そういう人は、体を訓練しながら何か別の生きがいを見いだすことが大事です。

 

本来の意味でのぼけとは異なりますが、もっと若い人が“ぼけている”ように思える場合もあります

 小さい子の場合、小学生であっても、学校などで学んだことを忘れやすく、「きのう学んだのに、きょうはもう忘れてしまった」という人もたくさんいます。学んだことが頭に入りきらないのです。

 したがって、何度でもくり返し教えることが必要です。そうしないと「また忘れた」ということになります。

 年を取った人だけがよく忘れるのではありません。小学生も忘れやすいのです。きちんと学んだことであっても、1ヵ月もたつとたいていはそれを覚えていないのです。ころっと忘れています。覚えている人は大秀才です。

 1ヵ月前ではなく、1週間前や3日前、1日前に学んだことでもやはり忘れます。新しいことを学んだら古いことを忘れるのです。

 「小学生とは、そういうものだ」ということを前提として、小学校の教育は成り立っています。

 したがって、小学校の先生は同じことをくり返し教えています。たとえば、足し算や九九を一年間、教えつづけたりします。よほど根気がないとできません。

 一通りできるようになったということで、教えるのを打ち切ると、1ヵ月もすれば、子供たちは簡単に忘れてしまいます。忘れないようにするためにはそれをくり返して教えるしかありません。

 年を取ると忘れやすくなりますが若くても忘れやすいのです。しかし、訓練によって記憶力は強くなるものなのです。

 ただ、大人であっても、覚えることが一定量を超えるとなかなか覚えられないものです。それは、頭の記憶容量が足りないために起きることであり、しかたがないのです。記憶容量が不足することはコンピュータにもあります。

 頭の記憶容量には限りがあるため、頭のなかには覚えておく必要のあるものを入れ、忘れてよいものは消去することが大事です。重要な情報に入れ替えるのです。それしか方法はありません。

 いま必要なものに特化して、そうでないものをメモリーから消してしまうのです。そうすると気が楽になりますが、「あれも、これも」と思うと頭に入らないのです。

 内容を忘れたら、何度でも聴けばよいのです。年を取っている人で、幸福の科学大川隆法先生の説法を1回だけ聴き、内容を何年も覚えているという人は、異常に頭のよい人です。1回だけではなかなか覚えられないものなのです。 

 

新しいものをつくるためには、古いものを、ある程度、捨てていかなければなりません

 情報に関しては、古いもののうえに新しいものを乗せると、ぼやけてしまいます。したがって、新しい情報を入れるときには、古い情報を、ある程度、忘れていかなければならないのです。

 人間の能力にはやはり限界があるので、大事なものとそうでないものとを分けて、「大事でないものは忘れてもしかたがない」と思うことです。

 そして、必要性のあるもの、大事なものをくり返してやることです。それ以外に方法はないのです。

 能力に限界があると思ったら、いま必要でないものは削除することです。本棚や机の上には、自分がいま消化できるものだけを置き、消化できないものは、目に見えないところに置いておくのです。

 そして、またご縁があったときに、もう1回、読むなり、見るなりすることです。

 

頭は疲れるものなので、気をつけなくてはなりません

 テレビや新聞は同じニュースを同じように報道しています。「何年何月に、どこそこで殺しがあった」などということを覚えていたほうがよいのは、刑事などの関係者ぐらいです。あとの人は関係ないでしょう。「どこそこで人が死んだ」ということを覚えているだけでも不愉快です。

 ニュースでは、「どんな殺され方をしたか。血糊がここについていて、凶器がここに落ちていた」などということまで克明に伝えたりしますが、こうしたことは覚えてはいけません。早く忘れましょう。

 どんな手口だったかなどということは、推理小説のファンは別として、あとの人は関係がないのです。

 覚えることだけが大事なのではありません。必要なもの以外は消し去ることも大事なのです。

 

幸・不幸の記憶についても、同じことが言えます

 不幸な記憶がたまりすぎ、幸福な記憶がすぐに蒸発してしまう人は、不幸感覚が強くなります。

 不幸な経験は避けられない面がありますが、そうした記憶は早く蒸発させ、幸福な経験の記憶のほうを、牛のように、くり返し反芻することです。そうすると、何かいつも幸福だったような気になります。悪いことは一日も早く忘れていくほうがよいのです。

  その意味では、頭の記憶容量が限られていることには、ありがたい面もあります。頭に限界があるからこそ、不愉快な記憶や悪いことの記憶を忘れられるのです。それは、ときどきよみがえってくるだけで、ふだんは忘れてしまっているというのは、ありがたい話です。

  したがって、忘れることによって幸福になることもあるのです。老齢になった人がぼける理由は、もしかしたら、そういうところにもあるかもしれません。人生に辛酸が多いと、ぼけたほうが幸福な場合があります。思い出したくないことがたくさんある人は、ぼけるのが早いかもしれないのです。

 

本などでも、何でもかんでも読めばいいというものではありません

 対象を少し絞り込み、大事なもの、くり返して読めるものを中心に、じっくりと読み、それを、折に触れて、四回、五回と読んでいくと、知識となって、力になるのです。

  単にジャーナリスティックなものとか、最近はやっているものばかり読みすぎると、記憶に残らないうえに、頭のなかが少し雑然としてきて、大事な記憶のほうが薄れたりします。

 そうならないようにするためには、雑多な情報はあまり入れないようにする、あるいは記憶に残さないようにする努力をしなくてはいけないのです。

  ただ、仕事の関係で、いちおう目を通しておかなければならないものもあるので、そういうものは見る必要があります。しかし、見たうえで、「要らない」と思った情報は早く記憶から消すことです。そういう判断が大事です。

 

本を買ったときに、読まない努力も必要です

  買った本の内容を見て、「これはおかしい。間違っている」と思ったり、「くだらない」と思ったりしたら、そこで読むのをやめてよいと思います。最後まで読み、内容をすべて頭に入れてしまうと、大事な本のほうの記憶が薄くなるのです。

 ある程度、自分の能力の限界を知り、選択的に記憶しなければいけないのです。

  子供であっても、若い人であっても、一種のぼけはあります。若くても、記憶する能力にはやはり限界があるので、自分に対して配慮しなくてはいけません。くだらないものを記憶しすぎると、大事なことを覚えられず、ぼけに似た状態になることもあるのです。

  現代は情報があふれている時代です。そのなかを生きていくには、重要な情報を選択し、そうでないものは意図的に忘れ、大事なものだけをくり返して覚えていく努力をすることが必要なのです。

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