体が不自由な人とは

 転生輪廻のプロセスで、今世の修行課題が与えられて体が不自由になる場合もある。

 しかし、人体というものは本当は奇跡に満ち満ちているのに、それが当たり前ではないことを人々に教えるために、障害を持って生まれる子供もいる。

 不自由な体で生まれたのに、一生懸命に奮闘して生き切った人が一定の率でいることは、人々がうぬぼれて慢心し感謝を忘れてしまうことを戒め、生かされていること自体が奇跡であることを忘れないようにする役割を果たしているのであって、その人は実は菩薩行をしているのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『超・絶対健康法』で以下のように説かれました。

「体というものは、本当は奇跡に満ち満ちているのです。(中略)ところが、それがあまりにも当たり前すぎるため、たいていは感謝する気持ちも起きません。普通に起きることを、「当たり前だ」と思い、慣れてしまっているのです。しかし、「当たり前だと思われていることが、実は当たり前ではない」ということを人々に教えるために、人間は一定の比率で病気をすることがあります。また、一定の比率で、障害を持って生まれる子供もいるのです。『心と体のほんとうの関係。』に書いてあるように、人間は転生輪廻をしている存在なので、もちろん、過去世で体験した、いろいろな事件のつじつまを合わせるために、今世で修行課題が与えられて、そうなる場合もあります。ただ、別の面から述べると、誰もが、あまりにも当たり前に生まれて普通に生活していると、本当に、それが奇跡であることが分からなくなるため、体の機能のなかに何らかの面で標準値から外れた部分のある人、そういう障害を持った人が、一定の比率で生まれる場合もあるのです。そのように、「ほかの人を教える」という役割を持って生まれてくる子供もいるわけです。健常者、体が元気な人には、障害を持って生まれた子供などが非常に気の毒に見え、「なぜ、このような苦しみが、こういう人には与えられるのか」と思うこともあるのですが、実は、本人は菩薩行をしているという場合もありうるのです。そういうかたちで、周りの人に何かを教えようとしていることもあります。これは、ほかの例を考えると、よく分かるでしょう。例えば、「貧乏な家庭に生まれたけれども、努力し、一生懸命に仕事をして、会社を大きくした。そして、大金持ちになった」という人のことであれば、「ああ、そうか。貧乏だったのに大金持ちになったのだな」ということが誰の目にもよく分かり、そういう人は立志伝中の人物のようになります。「不自由な体で生まれたのに、一生懸命に奮闘して生き切った」という人の場合も、これと同じことであり、(中略)実は、そういう人が一定の率でいてくださることは、人々が、うぬぼれて慢心し、感謝を忘れてしまうことを戒め、「生かされていること自体が奇跡である」ということを忘れないようにする役割も果たしているのです」