スピリチュアル世界史 神秘思想 VS 唯物論の150年

 テレビで毎日のように心霊現象や占いなどの番組が流れ、書店にはその種の本が並ぶ。実は、こうした精神世界への関心の高まりは、日本だけの一時的なブームではない。その始まりは19世紀。150年余り前に始まったスピリチュアリズム(近代心霊主義)は、科学万能の時代にあって、ともすれば唯物論に染まりがちな人々の心を霊的なものに向ける役割を果たしてきた。『神秘の法』(大川隆法著・幸福の科学出版)によって明らかにされた。その真実の歴史をたどってみましょう。

参考

精神世界への世界的な関心の高まり

 2004年5月、アメリカ国立衛生研究所(NIH)が発表した、アメリカ人3万1千人を対象にした調査が大きな話題を呼んだ。

 「アメリカ人で何らかの(非西洋的な)代替医療を実行している人は国民全体の62%にのぼり、その最も多くが、自分自身で行ったり、他の人にやってもらう『祈り療法』だった」

 NIHは祈りによる治療のメカニズムの研究に本腰を入れ始め、アメリカ各地の大学でも同様の研究がすでに立ち上がっている。その一つ、ノースカロライナ州のデューク大学医学部が2001年に公表した研究結果は驚くべきものだった。

 心臓病患者150人を二つのグループに分け、一つのグループについては本人たちには知らせずに、世界各地のキリスト教徒や仏教徒、イスラム教徒に患者たちの氏名・年齢・病名を通知し、定期的に祈ってもらうという実験を実施。結果は、祈りを受けたグループは、受けないグループに比べて、死亡率や発作などが起こる確率が25~30%低かった。

 同大のミッシェル・クルーコフ医師は「健康や病気治療へのスピリチュアリティ(霊性)や祈りの役割に関心が高まっており、それに応じるために正統で基礎的な科学がどう貢献できるか、研究をさらに進めなければなりません」と語っている。

 スピリチュアルなものへの関心は、アメリカでは医学の最先端の形をとっている。

 

懐疑派に根強い3つの「常識」

 ただ、こうした動きに懐疑的な研究者が少なからずいるのも事実で、医学界を二分する大論争へと発展している。

 目に見えない世界の力を否定しようとする人たちが根強く抱いているのは、次のような「常識」である。

1 霊やあの世といった神秘思想は、原始人が考えた大昔の遺物である

2 そうした”迷信”は、近現代の科学の発達を通して否定された

3 ゆえに、人々に科学的知識が広まれば、神秘思想を信じる人たちはいなくなる

 ところが、19世紀半ばからアメリカやイギリスを中心に勃興したスピリチュアリズムの歴史は、こうした「常識」をことごとく突き崩している。

 世界的な精神世界への関心をどう見ればいいのか。その源流を見てみます。

 それは1848年アメリカから始まった。

 

近現代スピリチュアリズム世界地図

 19世紀の半ば以降、スピリチュアリズムと無神論・唯物論の対立は、歴史の隠れた基調をなしてきた。世界各国のスピリチュアリスト(心霊主義者)たちの足跡を地図と年表で追う。

アメリカ

リンカーン(1809~1865) 

 アメリカ南北戦争の間、ホワイトハウス内での交霊会に参加。霊媒を通して、奴隷解放の実施を遅らせないようアドバイスされ、その通りにしたという逸話がある。

エドガー・ケイシー(1877~1945) 心霊治療家

 トランス状態に入り、難病に対し処方せんを与えた。

ウィリアム・ジェームズ(1842~1910) 心理学者 

 パイパー夫人の超能力を本物と確信し、以後心霊研究を始める。『宗教的経験の諸相』などを著した。

日本

井上円了(1858~1919) 仏教哲学者 

 心霊現象を含む怪奇現象の研究の先駆者で、『妖怪学講義』『霊魂不滅論』などを著した。東洋大学の設立者

福来友吉(1869~1952)

 東京帝国大助教授のとき、透視や念写について研究。1928年、ロンドンでの国際心霊主義者会議で研究発表し、注目を集めた。

浅野和三郎 (1874~1937) 

 大本教に触れ、心霊研究に入る。「東京心霊科学協会」を設立し、守護霊などについての研究を行った。

新渡戸稲造 (1862~1933)

 自伝『東西相触れて』にロンドンで交霊会に参加したことに言及。「真実なる霊的現象もありそうであると思う」と述べた。

フランス

ベルグソン(1859~1941)哲学者

 物品を引き寄せたり、空中に浮かせたりする霊媒をキュリー夫人らとともに検証。「魂が身体の死後に生き残ることは自然」と語った。

キュリー夫人(1867~1934)

 物理学者・化学者。手を触れずにものを動かす女性の霊媒を数十回実験し、検証した。

アラン・カーデック(1804~1869)

 霊媒を通じて得た霊界思想を整理し、『霊の書』などを出版。欧州大陸及びラテンアメリカで広がった。特にブラジルでの人気が根強い。

ユゴー(1802~1885) 『レ・ミゼラブル』の文豪

 英仏海峡に浮かぶ島にいたとき、約2年間、降霊術の実験に明け暮れ、その模様を記録した。

 イギリス

クルックス(1832~1919) 科学界の第一人者

 物質化したケティー・キングという女性霊などを研究。心霊現象の実在を認めた。

ウォーレス(1823~1913) 自然淘汰説をダーウィンと共同発表した生物学者

 唯物論から心霊主義へと転向し、進化論を修正。

コナン・ドイル(1859~1930) シャーロック・ホームズ・シリーズを書いた小説家

 収入のほとんどを心霊思想普及の講演活動にあて、「スピリチュアリズムのパウロ」と呼ばれた。

ビクトリア女王(1819~1901)

 女王は英国国教会の長であったが、お抱えの霊媒師がおり、その霊媒を通して、亡き夫と交信していた。

チャーチル(1874~1965)

 首相として第二次世界大戦中、女性霊媒に頻繁に相談し、霊媒から真珠湾奇襲の半年前にその予言を聞いた。

マルクス(1818~1883) ドイツの共産主義思想家

 イギリスに亡命し、『資本論』などを書き、社会主義運動を指導した。

エンゲルス(1820~1895) 

 マルクスの盟友で、『共産党宣言』の共著者。マルクスを経済的にも支援した。

ダーウィン(1809~1882) 生物学者

自然淘汰による進化論を提唱した。

シルバー・バーチの霊言

 霊媒バーバネルに起きた霊言を約50年間にわたりまとめた。

心霊治療の浸透

 ハリー・エドワーズ(1893~1976)ら、『シルバー・バーチの霊言』にさまざまなアドバイスを受けた心霊治療家が出た。

スピリチュアリズムの動き

1848年3月 ニューヨーク郊外のフォックス家で心霊現象(ハイズビル事件)。

1856年 フランスのアラン・カーデックが霊言をまとめ、『霊の書』を刊行。

1866年 イギリスの生物学者ウォーレスが心霊現象に関する論文を発表。

1871年 クルックスが心霊現象を本格的に研究。

1874年 クルックスがケティー霊の研究結果を発表。

1887年 コナン・ドイルが心霊現象の研究を始める。

1916年 ドイルが「死者との交霊を信じる」との声明を発表。

1920年 イギリスで『シルバー・バーチの霊訓』が始まる。

1945年 第二次世界大戦終わる。心霊治療が盛んになる。

唯物論の動き

1831年 ダーウィンがビーグル号で航海に出発。

1848年2月 マルクス、エンゲルスが『共産党宣言』刊行。

1858年 ウォーレスが自然淘汰説の論文をダーウィンに送る。ダーウィンと共同発表。

1859年 ダーウィンが『種の起源』出版。マルクスが『経済学批判』刊行。

1867年 マルクスが『資本論』刊行。

1876年 エンゲルスが論文『サルが人間になるにあたっての労働の役割』を発表。

1883年 ニーチェが『ツァラツストラはかく語りき』を刊行し、「神は死んだ」と記述。

1917年 ロシア革命。

1922年 ソ連成立。

1945年 中国共産党政権成立。

 

神秘思想は原始時代の遺物か?

スピリチュアリズムは、無神論・唯物論に対抗して現れた新しい思想

マルクスの「宗教憎悪」

 19世紀は、無神論・唯物論が大きく台頭した時代だった。その主役は、『共産党宣言』のマルクス(1818~1883)と、進化論のダーウィン(1809~1882))。

 マルクスを唯物論へと走らせたのは、ユダヤ教徒の家庭に生まれた葛藤のためだったとされる。マルクスの父親はドイツ(プロシア)の法律顧問官をしていたが、政府から「キリスト教徒でなければ仕事をさせられない」と通告され、生活のために一家はやむなく改宗。しかし、ユダヤ人社会からは「背教者」とののしられ、キリスト教徒からはユダヤ人として差別を受け続けた。家庭の中では改宗に不満な母親と父親との間で口論が絶えなかったという。

 そのようなな環境に育ったマルクスは、宗教や支配階級に複雑な感情を募らせ、大学の学位論文では、「すべての神々を私は憎む」とも書いたし、絶対精神という名の神の存在を説いたヘーゲル哲学も批判の対象とした。

 「宗教は民衆のアヘンである」と公言し、1848年の『共産党宣言』で労働者による暴力革命をうたいあげたのは、宗教を批判し、憎悪したマルクスの当然の帰結だった。

 エンゲルスに唯物論への道をたどらせたのは、キリスト教の教義への不信だったとされる。エンゲルスは聖書研究をする中で疑問にぶつかり、やがて神を信じられなくなったという。

ダーウィンの神への不信

 一方のダーウィンが無神論に至ったのは、家族の死がきっかけだったとされる。1851年、長女が原因不明の病にかかり、10歳で夭逝。すでに生物学の研究で「人類をはじめ種の創造に神は関係ないのではないか」という自然淘汰説を温めていたダーウィンは、悲しみの底で「神は邪悪を阻止する力があるのでしょうか。あるならば、なぜ邪悪さは存在するのか」と無神論に傾斜していく。

 1859年にダーウィンは、生命創造における神秘的な力を否定する自然淘汰説を盛り込んだ『種の起源』を出版。これを読んだマルクスは盟友エンゲルス(1820~1895)に「我々の見解に益する自然史上の根拠が書かれたものだ」と絶賛する手紙を書いた。さらにマルクスは1873年、出たばかりの自著『資本論』をダーウィンに送り、添えた手紙に「心からの信奉者カール・マルクス」とつづった。

 19世紀後半から急激に広がった無神論・唯物論は、神への「憎悪」や「不信」を出発点に、思想家マルクスと科学者ダーウィンの二人が、いわば協同してつくり上げたものだった。

 それでもダーウィンは、人間がサルと共通の子孫から偶然に進化したとする自然淘汰説を公にすることに躊躇した。ダーウィンがこの進化論を世に出したのは、1858年、東南アジアにいたイギリス人博物学者ウォーレスから、ダーウィンと同じ考えの論文が送られて来て、学問上の優先権を確保するためにウォーレスに断りなく、あわてて共同発表したときだった。

信仰の危機の時代に生まれた心霊主義

 ここに19世紀の人々は、近代科学の発展と伝統的宗教観とのあつれきに揺らぐことになる。

 こうした信仰の危機の時代に起きたのが、アメリカ・ニューヨーク郊外での心霊現象、いわゆるハイズビル事件(前ページコラム参照)。マルクスが『共産党宣言』を出してから1カ月後のことだった。これ以降、アメリカやイギリスなどでさまざまな心霊現象が相次ぎ、数多くの科学者や知識人が「この現象をどう説明すればいいか」と研究し、交霊実験に集まる人々も急増した。こうしてスピリチュアリズムの時代が始まった。

 霊やあの世といった神秘思想は、懐疑論者や否定論者が言うような、単なる原始時代のものではない。台頭する無神論・唯物論に対抗する形で、人々の間に広がった新しい思想だったのだ。

 スピリチュアリズムの時代の幕を開けたアメリカ・ハイズビル事件

 1848年3月半ば、アメリカ・ニューヨーク州ハイズビル村のフォックス家で突然、壁をたたいたり、ベッドを揺り動かしたりして、不可解な物音が起こるようになった。その家の12歳と9歳の姉妹がその「音」に話しかけ、イエスなら1回、ノーなら2回たたくように言うと、正確に答えが返ってきて問答が成り立った。その中で目に見えない存在は、「自分は数年前にこの家で殺された行商人の霊で、遺体は地下室に埋められている」と語った。警察の調査で、5年前に村を訪れた行商人が行方不明になっていることが分かり、後に地下から白骨死体と行商用の箱が発掘された。

 全米が大騒ぎになり、行政当局が心霊現象を何度も調査したが、「現象に器具も詐術も使われていない」と結論した。

 その後、アルファベットの文字盤を使った霊との通信で、姉妹に次のようなメッセージが送られてきた。「友よ、あなた方はこの真理を世に広めなければならないのだ。これは新時代の曙光なのである。あなた方はそれをもはや圧し、隠そうとしてはならないのだ。あなた方が義務を行うとき、あなた方を神が護り、善き霊たちが見守るであろう」

そ の通信の主は行商人の霊ではなく、別の霊に変わっており、以後のスピリチュアリズムの興隆を示唆。そして実際に、このメッセージを実行する人たちが次々と世界中に現れたのだった。

霊やあの世の存在は科学的に否定されたか

 それは一流の科学者により検証され、肯定された

 科学界の第一人者が「真実である」と明言

 19世紀半ばのイギリスは産業革命の絶頂期。イギリスに集結した世界一流の科学者の手によって、心霊現象の研究が行われた。その一人が、タリウム元素の発見やクルックス放電管の発明で名高い科学界の第一人者、クルックス(1832~1919)だった。

 1870年、クルックスは「科学によって愚にもつかない現象を追放しよう」と鼻息荒く語って、心霊現象研究への参加を表明した。ジャーナリズムも「博士の厳格で公平無私な研究態度を疑う人はまずいない」と、スピリチュアリズムの“化けの皮”をはがしてくれるものと大いに期待した。

 ところが、1874年にクルックスが発表した論文で、その期待は見事に裏切られることになる。

 クルックスは、10代の霊媒クック嬢に現れたケティー・キングという物質化霊をめぐる驚くべき実験の数々を報告して(上コラム参照)、「信じがたいことであるが、真実である」と論文を結んだのだ。

 それから20年以上後の晩年も、クルックスは「撤回すべきものは何もない」「この世とあの世との間に“連絡”ができたことはまったくの事実なのです」と言い続け、これには否定論者や懐疑派ジャーナリズムも沈黙するしかなかった。

ダーウィンの「弟子」が転向

 生命への神の関わりを否定した自然淘汰説をダーウィンと共同発表し、ダーウィンの弟子にもあたるイギリス人生物学者ウォーレス(1823~1913)も、心霊研究に没頭した。

 ウォーレスは若くしてキリスト教信仰を捨て、「純然たる唯物論者であることに誇りを持っていた」ために、ダーウィン以上に明快な進化論をうち立てたのだが、あるとき、価値観の大転換を遂げることになる。

 1865年夏、ウォーレスは「スピリチュアリズムは詐欺かイカサマに違いない」と、ある交霊会に乗り込んだ。ものをたたく音が聞こえるラップ現象のときは部屋や家具を丹念に調べ、心霊筆記の際は紙などに細工ができないように予防策をはり巡らせた。ところがほぼ1年間、徹底的に検証した結果、「霊魂が現象を引き起こしているという可能性以外、すべて否定された。私たちには来世があるに違いない」と“転向”を表明するに至った。

 当然、自説の進化論もまったく違ったものに生まれ変わり、「ある卓越した知性が、特別な目的に沿って、人間の発達を導いた」と結論づけたのである。

 心霊現象の研究者には、「心理学の父」と呼ばれたアメリカのウィリアム・ジェームズ(1842~1910)、フランスの哲学者ベルグソン(1859~1941)、ノーベル賞を受けた物理学者キュリー夫人(1867~1934)らがいるが、いずれも実験を何度も繰り返し、科学では説明できない世界があることを認めるようになった。

ダーウィンは交霊会から“逃げ出した”

 一方、ダーウィンも1874年、ある交霊会に一度だけ立ち会おうとしたことがあるのだが、その態度はウォーレスと正反対だった。心霊現象がいよいよ始まるというときに、その場を立ち去ってしまったのだ。

 ダーウィンは、心霊主義に転じたウォーレスにあてた手紙で、「あなたが私たちの子供(進化論)を殺めたりしないよう願っています。あなたのみじめな友人より」と懇願するように書いている。

 目に見えない世界を知ることに、勇気ある一歩を踏み出したクルックスやウォーレス。他方、それを避けたダーウィン。科学者としても、どちらがあるべき態度かは明らかだろう。

 霊の存在を証明した、ケティー霊の実験

髪や衣服を切ると、たちまち元通りに。

「私の使命はこれまで」と消え去る

 クルックスは、霊媒のエネルギーを使って霊が物質化するエクトプラズム現象について詳しく報告し、世界中の科学者を驚かせた。

 これによると、ケティー霊の体は肉体と変わらないほどで、交霊実験の列席者の間を歩き回り、一人ひとりと会話したり、手の脈を取らせたりした。生身の人間の変装と疑われたが、あるときケティー霊は「あの世ではものがどうやってつくられているか見せてあげましょう」と言って、自分の髪や衣服をはさみで切って見せた。すると、たちどころに元通りに戻り、参加者をがく然とさせた。ケティーの許しを得てクルックスが撮影した40数枚の写真には、クルックスと腕組みしたものまであった。

 そして、2年間にわたる実験の後、ケティー霊は「私の使命はこれをもって終わりました。もう二度と出てきません。あちらでの仕事が待っていますので」と、まるであの世の“上司”から指示を受けているかのようなことを語り、その言葉通り再び現れることはなかった。

 ケティー霊は、まさに一流の科学者に対し、霊やあの世の存在を実証するために現れた存在だったようだ。

神秘思想を信じる人はやがていなくなるか

  スピリチュアリズムは、今また大いなる広がりを見せている

唯物論の反撃

 著名な科学者たちによるこうした心霊現象研究を、やがて無神論・唯物論の側は無視できなくなった。マルクスの同志、エンゲルスは1876年に論文「サルが人間に進化するにあたっての労働の役割」を書き、ダーウィンを擁護。その2年後には「心霊界における自然科学」という論文で、クルックスやウォーレスらを「ほとんど救済し難い」と痛烈に批判した。

 その後の歴史は、ソ連の成立など社会主義国が相次いで生まれ、唯物論勢力がスピリチュアリズムを圧倒したかのように見えるが、必ずしもそうではない。スピリチュアリズムの“灯”は確実に受け継がれてきた。

 その中で大きな役割を果たした一人が、名探偵シャーロック・ホームズを生んだイギリス人作家コナン・ドイル(1859~1930)である。

霊界思想の普及に後半生を捧げたドイル

 眼科医でもあったドイルは医学生時代、カトリック教会が科学の進歩に背を向けているとしてキリスト教信仰を捨て、唯物論者に転じていたが、患者だったイギリス軍の将軍に勧められ、交霊会に参加。ただ、その後30年間にわたって懐疑的な態度を崩さなかった。

 転機は1915年、義弟を第一次大戦で亡くしたとき。本人も驚いたことに、二人だけの秘密に関するメッセージをドイル自身が義弟の霊から受け取ったのだった。ドイルはその“通信”一つで、悲嘆の淵から抜け出すことができたという。

 「現象についての実証にこだわっていたが、そうではない。心霊現象はいわば電話のベルにすぎず、中身こそ大切なのだ。スピリチュアリズムの知識を人に分かつことができれば、悩める世に大いなる慰めとなるであろう」

 文名が最高潮にあった当時56歳のドイルは、「人間の魂は永遠である」という事実を伝えながら、戦争で大切な家族を失った世界中の人たちの心を救うことを自らの使命として、講演して回る第二の人生へと歩み出した。「私の生涯はまさにこのために準備されていた」と、この活動に作家として貯えた富を注ぎ込み、欧州各地はもとより、オーストラリア、アフリカにも足を伸ばした。

 心臓発作で倒れ、安静が必要なときも講演活動を続け、そればかりか、講演後に会場に入れなかった人たちに懇願されると、「よし、話そう」と言って雪降る屋外でさらに熱弁をふるったという。ドイルは数十万の人々に直接語りかけ、「スピリチュアリズムのパウロ」と呼ばれた。

 こうして20世紀初頭、スピリチュアリズムの軸足は、心霊現象の研究から霊界思想の普及へと移っていった。

消える唯物論の流れ

 第二次大戦後は、霊界の力を使って病気を治す心霊治療が注目された。例えば、イギリスの有力な心霊治療家(ヒーラー)は王室や政治家らの支持を受けた。現代の日本人には信じがたいかもしれないが、今でもイギリスにはヒーラーの公的資格があり、一般の病院で心霊治療が保険診療で受けられるという。

 アメリカの「祈り療法」はこの流れをくむものである。今日の日本での精神世界への関心の高まりも、こうした世界的な潮流の中にある。

 ドイルは「唯物論の唯一直接的な解毒剤はスピリチュアリズムである」と力説したが、20世紀末に社会主義国家が次々と崩壊し、マルクスが生み出した唯物論の一つの極が消え去ろうとしている。また、もう一方の極のダーウィニズムも世界的な見直しの機運にさらされている。今後、スピリチュアリズムの“灯”は、ますます勢いを増して広がっていかざるを得ないのが歴史の流れなのである。

 霊界思想の普及においては、フランスで編集者をしていたアラン・カーデックが活躍。また、1920年ごろ、ロンドンの青年実業家バーバネルに霊言現象が起こり、シルバー・バーチと名乗る通信霊が50年間にわたり、死後の世界の実在や地上人生の意味を伝え続けた。シルバー・バーチは、霊界の上位の存在から、人類の霊性向上の事業への参加を要請されたと語っている。

 

神秘主義と合理主義を両立させる世界的な思想・宗教が必要とされている

いま明かされた天上界の「計画」

 「実は、霊界通信などを使った、この世での真理の普及運動については、幸福の科学の活動が始まるよりもっと昔の、いまから百五十年余り前から、『大きな計画』がありました。具体的な年を挙げるとすれば、決定的な年は1848年です」

 『神秘の法』は、天上界が無神論・唯物論の広がりを予見し、スピリチュアリズムを興して、その勢力との戦いを開始したという人類に隠された「秘史」を明らかにした。

 天上界は、第一段階として、1848年のハイズビル事件を手始めに、唯物論とはまったく正反対の心霊現象を起こし、第二段階では、二つの世界大戦をはさんで、自動書記や霊言による霊界思想の普及を図った。そして、第三段階で、唯物主義の医学と戦うために、不治と言われた病気を治す心霊治療を指導したのです。

「こういう大きな三段階の文明実験を行いました。二十世紀の後半になって、真理の普及運動がいよいよ本格化するまでに、いろいろと、下ならし、地ならしを、百年ぐらい行ったのです」(『神秘の法』P-179)

 世界的な精神世界“回帰”の源流はまさに、天上界でのこの計画にあったのです。

 しかし、この150年ほどで広がった無神論・唯物論の影響は大きかった。唯物論を信奉する国家では人間がまるでモノのように見なされて、人を傷つけたり、殺したりすることが平気で行われ、人権無視や大量粛清がまかり通った。また戦後、唯物論思想が浸透してきた現代の日本でも、「死ねばすべてなくなる」という間違った考えから、毎年、自殺者が3万人以上という悲劇を生んでいる。

 

スピリチュアリズムを受け継いで

 19世紀以降、無神論・唯物論が世界を席巻した背景には、科学の急速な進歩によって、伝統宗教が人々の心をつかめなくなったという面もあった。このため、キリスト教や仏教の中には霊魂の存在を否定するなど「唯物論に対する敗北」のような動きが見られたことも事実です。

 しかし、21世紀に入り、人類は現代文明を一層進歩させつつ、これら無神論・唯物論の負の遺産を克服していかねばならない時に来ている。そのために必要なのが、「あの世や仏神の存在を認めつつ、この世において合理的な判断や努力を積み重ねる」という、神秘性と合理性を両立させた世界的な思想・宗教である。

 神秘主義と合理主義の融合。それが19世紀半ば以降、スピリチュアリズムのバトンが人々によって受け継がれてきた理由であり、また、それこそ天上界の150年にも及ぶ「大きな計画」の目的でもあるのです。