善因善果・悪因悪果

 世の中の様相は、さまざまに変わっていっても「何が正しくて、何が間違っているか」ということに関しては法則がある。この基本的な法則は、千年前も二千年前も、さらにもっと前においても、そのルールを知ろうが知るまいが、必ず降りかかってくる。

  よいことをした人にはよい結果が、悪いことをした人には悪い結果が必ず来る

 人間の運命を支配する宇宙の絶対法則・因果律 人間の運命は宇宙の絶対法則である因果律に支配されています。因果律とは、「原因には必ず結果が伴う」ということ。仏教の最も基本かつ重要な教えである「因果応報」ということで、「自分のしたことはすべて自分に返ってきます」ということです。 この宇宙の絶対法則である因果律が地球はもとより、全宇宙を支配しており、人間は決して、この因果律、因果応報の法則から逃れることはできません。

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 不幸な人間は自分が不幸になるような悪い種を前世からまき続けていた。逆に、幸福な人間は自分が幸福になるような良い種を前世からまき続けていたと考えられるのです。そこで、仏教では良いことを思い良い言葉を語り、良い行いをして、善の種をまき、将来、幸福の実を刈り取ることを教えているわけです。

 その仏教の幸福になるための教えの基本的なものに「施論 戒論 生天論」があります。

 施論とは、慈悲の心をもって、生きとし生けるものを愛し、特に出家者へ布施を行うことです。

 戒論とは、在家の五戒、すなわち「不殺生、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫、不妄語(ふもうご)、不飲酒(ふおんじゅ)」、つまり、「殺すな」「盗むな」「不倫をするな」「ウソをつくな」「酒を飲むな」の五つの戒を守ることです。

 生天論とは、以上の二つ、施論・戒論を実践して生きれば、死後、天国に生まれることができますという教えです。 

 幸福の科学大川隆法総裁は、「仏教的幸福論─施論・戒論・生天論─」で幸福の科学教学に深いかかわりのある仏教思想について、その幸福論とは何かを説かれました。

 

あの世を前提とした幸福論

 仏教は、「この世の生は苦しみや悲しみに満ちている」と見ていたのであり、幸福論を説いたわけではないと見る向きもあるだろう。だが、仏教が栄えたインドや日本において、これまで人口が増え続けてきた事実を踏まえれば、この世に生まれてくることには、何らかのニーズがあるはずだと指摘。

 この幸福の意味は、最終的には『生天』にあります。『この世を去って、あの世に生まれる』ということです。「苦しみの多いこの世で、どれだけ功徳を積んだかによって、来世に行くべき世界が変わる」という霊的人生観が、仏教的幸福論の根底にあることを明らかにした。

 大川隆法総裁は、仏陀が得意としていた説法である「次第説法」を挙げて、人々を幸福に導く「施論・戒論・生天論」を解説されました。

 施論が筆頭に来る意義や、戒論が「仏法は王法を超える」という故事の根拠になった理由などを詳述。さらに、仏教、キリスト教、イスラム教の戒律が時代に合わなくなっている現状や、比較衡量の視点で解釈を変えていく必要性を強調した。

 施論と戒論を守れば、天国に還ることができ、これが最大の幸福であるという教えは、あの世も含めて初めて、「善因善果・悪因悪果」の法則が完結することを意味している。

 学問の世界において、霊魂と実学を分けたとされるカント自身も、「善因善果は来世がなければつじつまが合わない」という主旨のことを語っていたと指摘。善良な人が非業の死を遂げることがあるように、この世は一見不合理に見えるが、来世があるからこそ、神仏の正しさは実現するのです。

 

仏教は唯物論ではない

 現代の仏教学では、中村元氏などが、次第説法を「子供騙し」や「方便」のように捉え、その流れから仏教の「無霊魂説」や「唯物論説」が出てきている。

 しかし、仏陀が「不妄語」の教えを説いていたのは厳然とした事実です。

 大川隆法総裁は、「『最初から、仏陀が方便のために、初見の民衆に対して嘘を説いた』というのは、仏教に対する大いなる侮辱だと思います」と、仏教学者たちの間違いを厳しく指摘しました。

 

 大宇宙を貫く「原因・結果の法則」(「縁起の理法」または「時間縁起」とも呼ばれる)は、この世では必ずしも成り立っていないように見える。

 あの世があってはじめてこの法則は論理が完結することがわかる

 幸福の科学大川隆法総裁は、『幸福の革命』で以下のように説かれておられます。

「よい原因をつくったにもかかわらず、悪い結果が出ているように見えたり、悪い原因をつくったにもかかわらず、よい結果が現われているように見えたりすることを「異熟(いじゅく)」といい、その結果を「異熟果(いじゅくか)」といいます。 世の中の人には、それはまことに奇怪なことのように思えるかもしれません。

しかし、よくよく観察していただきたいのです。 この世的には成功しているように見える人であっても、その成功の原動力がその人の持つ欲望である場合、その人は欲望の炎をさらに燃え立たせて、大きな欲望へと変えています。傍目には成功しているように見えても、よくよく目を凝らしてみると、その人は燃えています。眼も、鼻も、口も、からだも、心も、炎に包まれ、燃えています。煩悩の炎に包まれ、平安なる心を失って、欲望のなかに、猜疑心や嫉妬心、恐怖心のなかに生きています。したがって、結果を外面的な成功だけに求めてはなりません。外面的な成功だけを求めた人は、その姿をよくよく見るならば、苦しんでいるはずです。一方、清く生きたにもかかわらず、この世的には恵まれない最期を迎えた人もいることでしょう。しかしながら、この世において努力したことは、それが成就しなくとも、その人の魂の糧として確実に残っているのです。すなわち、「この世を去った世界が厳然としてある」ということが、仏の、そして神の、公平な世界があるということの証明なのです。仏神の心、その教えに則って生きた人が、死後に苦しみを得ることはありません。また、仏神の教えに反した人が、死後、安らぎの世界に入ることもありません。正しい心を持ち、正しく生きた人には、正しい結果が必ず現われるのです。 それが仏の創った世界です。それは実に単純明快な世界です。 報いられないということは、まったくありえない世界なのです。みなさんはその世界を信じるべきです。この世、すなわち現象世界においては、原因と結果が必ずしも整合していないように見えます。しかし、そうした論理的矛盾があるからこそ、「世界はこの世だけではない」ということが明確に分かるのです。この世以外の世界があってはじめて、論理が完結するのです。これが原因・結果の法則、時間縁起といわれるものです。」