縁起の理法

 「人間は、自分の考えているとおりのものになる」「自分の考えているところのものが、自分自身である」心の力、心の偉大さは、過去の偉人も様々な言葉で語ってきています。釈尊、ソクラテス、近代ではエマソン、ウィリアム・ジェームスなども言っているのです。人間は考えたとおりになるのです。人間の「念い」「心の作用」には、力があります。心構え、考え方、思考には、人間を変える偉大な力を秘めているのです。その力は、自分も未来も変えられることができるのです。人生を発展させるには、成功した姿、自己像を描くことです。明るい未来を引き寄せるには明るい未来を描くことです。未来は、未来を描くことから始まるのです。そして、個人も世界も縁起の理法によって成り立っています。  

 縁起とは、これは因縁、因果応報、因果の理法として知られています。  

 「因」というのは直接的な原因のことです。  

 「縁」というのは他者との関係における間接的に発生する原因、条件といってもよいものです。

 「果」とは、結果のことです。 「報」とは、その報いです。

 これを「因・縁・果・報(いんねんかほう)」と言います。直接原因に間接原因が幾つか加わることで、何かが起こり、その結果、報いを受けるという考え方です。  

 縁起の理法とは、原因、結果の法則で、原因と条件で結果が生じ、その報い(カルマ)を得るというものです。その縁起の理法には、「空間縁起」と「時間縁起」という二つの考え方があります。時間的な原因と結果の連鎖―これを「時間縁起」。空間的な原因と結果の連鎖―これを「空間縁起」。生きているもの、社会も日本という国家も世界も全て地球上のありとしあらゆるものの営みによって成り立っているということです。この「時間縁起」と「空間縁起」が様々に影響しあってこの世界を構成しているのです。

 

 自助努力と縁起の理法

 「自助努力とは、西洋的にいえばセルフ・ヘルプですが、東洋的にいえば、まさしくこれは仏教の「縁起の理法」そのものなのです。なぜならば、「どのような種を播き、どのように育てるかによって、それぞれの人が手にする結果は異なってくる」というのが縁起の理法だからです。これは、人生の成功・不成功に関して、個人の努力の余地というものを明確に肯定する思想です。単なる運命論や宿命論、環境論などに縛られることなく、みずからの自助努力によって開けていく運命を肯定する思想が、縁起の思想なのです。」(『青春に贈る』 )

 自分のこれまでの成長をみてくれば分かるとおり、努力という「播いた種」によって、人間は確実に変わっていけることを肯定するのが「縁起の理法」なのだ。これは大宇宙を貫く偉大な法則であるということです。

 

 幸福の科学の大川隆法総裁は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で以下のように説かれてておられます。

「高校時代は、英語、国語、数学、理科、社会などを勉強し、一定のレベルを修めて卒業します。それから、大学に入ったり、短大に入ったり、各種の専門学校その他に進学したりします。なかには、すぐに社会に出る人もいます。そこで、たとえば大学生を例にとると、どんなに優秀な高校生であったとしても、高校卒業時点では持っていないものを、大学で何年か学んだ大学生は持っているのです。どのような草深い田舎の大学生であっても、そうなのです。これは不思議ですが、大学生は高校生が持っていないものを持っています。(中略)もちろん、大学の専門領域はいろいろあります。たとえば文科系では、法律、政治、経済、経営、哲学、心理学、教育などがあります。理科系でも、理学部、工学部、医学部、薬学部など、たくさんの系統があります。しかし、これらはどれも高校で習うことはありません。したがって、こうした専門領域については、高校時代にいかに優秀な人であっても、その後、専門的な勉強をしなければ、身につかないものなのです。高校時代には、かなり優秀な人から、そうでない人までいたと思います。しかし、次の段階である大学に上がり、新しい学問に出合って四年間勉強すると、大学入学時には持っていなかった学力を、大学の卒業時点では持っています。このように、同じ人であっても、高校の卒業時点と大学の卒業時点では、学力の点では別の人間になっているのです。それは、大学に入って、それまで学んだことがないものを学んだ結果、頭のなかに入っているものが違ってくるからです。知識や情報のレベルにおいては、明らかに入れ替わっていて、別な人間になっています。つまり、十八歳の段階と、二十二歳の段階とでは、違う人間になっているのです。これは大学在学中の四年間の話ですが、同じようなことは、それから先にもあります。二十二歳と、三十歳、四十歳、五十歳とでは、別人になるのです。成人後は身長や体重がそう変わらないので、魂の入れ物である肉体は、確かにあまり大きくは変わらないかもしれません。しかし、目や耳などから、新しい経験や知識が常に流れ込んでいるので、中身は変わるのです。(中略)したがって、みなさんは、自分自身のことを、同じ水をたたえた池のような存在だと思っていたとしても、なかに流れている水は違ったものになってくるのです。(中略)この間、いろいろなものが新しい情報として入っては出ていき、みなさんは変化しています。形は同じく丸い池であっても、中身が違ってきます。どのくらいきれいな池になるか、魚が棲むか棲まないか、他の生き物が棲むか棲まないか、鳥が来ても養えるような池になるかならないかということが、まったく変わってくるのです。このように、縁起の立場は、「播いた種によって、あるいは努力によって、人生は変わっていくものだ」ということを明確に肯定するのです。」