ゆとり教育のツケ

 教育政策について、幸福の科学大川隆法総裁は、「ゆとり教育」の危険性についても指摘していた。

 1992年、文部省官僚の寺脇研氏が「脱偏差値」を宣言し、学力競争を否定する”教育改革”に着手。「脱偏差値は時代の流れ」(読売)など各紙は肯定的に報じた。「ゆとり教育」導入への議論が進んでいた。

 それに対して、大川隆法総裁は1999年3月、こう指摘した。

「競争をなくせば、ゆとりが生まれてユートピアができるかというと、そうではありません。そのゆとりは、ユートピアにつながるように見えて、実際は、ゆっくりと地獄へ続いている道なのです。まず、有用な人材がいなくなり、価値を生み出せなくなります。その結果、国富が減って国が貧しくなり、生活のレベルが下がってきて、国民はあえぎはじめます。やがて、他国との競争に負けて貧困国になり、他国の援助を受けなければならなくなります。そして、最後には奴隷的国家になり、卑屈な国民になっていきます。このように国家の衰退が起きてくるのです」(『奇跡の法』所収)

 しかし、2002年に、学習内容を大幅に削減した新学習指導要領が実施され、「ゆとり教育」が本格化した。

 その後、子供たちの学力は低下。2005年から公式にゆとり教育の見直しが始まり、現場ではその前から少しずつ対策が取られた。授業時間は2009年から増やされ始めた。

 地獄への道は善意で舗装されている。競争をなくすことは、ユートピアにつながるように見えて、実際は、ゆっくりと地獄へ続いている道である。

 よい学校に入ることができた人は、より多くの人のためになるような人生を生きる責任がある、と思わなくてはならない。

 そして、だれかが一切れ食べれば、パイがそれだけ減ってしまうと考えるのではなくて、パイは何枚でもつくれると考える必要がある。

 大川隆法総裁は、『奇跡の法』で次のように説かれました。

「いまの日本の教育のあり方を見ると、少し優しさが行きすぎた体制になっているように思います。確かに、教育機関である学校には、施設や教師の数、予算等の限界があるため、受け入れ人数に限りがあります。そして、よい学校であればあるほど、多くの人が「この学校で学びたい」と思うため、定員枠に対して競争が起こります。その結果、試験の得点や席次、偏差値などで競い合うことになるのです。しかし、そうした競争をなくせば、ゆとりが生まれてユートピアができるかというと、そうではありません。そのゆとりは、ユートピアにつながるように見えて、実際は、ゆっくりと地獄へ続いている道なのです。外国のことわざに、「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉があります。多くの人が「こうしたらよかろう」という善意で舗装してくれた道路を歩いていくと、その先は地獄に通じているのだということです。天国への道というのは、むしろ、いばらを切り開いていく道であり、困難な道なのです。岩を登り、崖を登って、山を切り開いていくのが天国への道であり、善意できれいに舗装された道路を歩いていくと、いつのまにか地獄に行ってしまうのです。子供たちに対して、「勉強などできなくてもいいんだよ。学校でも家でも勉強しなくていいし、宿題もしなくていい。テストも受けなくていい。ゆっくりと楽しい人生を送りなさい」という指導をしたならば、そのツケはあとから必ず回ってきます。まず、有用な人材がいなくなり、価値を生み出せなくなります。その結果、国富が減って国が貧しくなり、生活のレベルが下がってきて、国民はあえぎはじめます。やがて、他国との競争に負けて貧困国になり、他国の援助を受けなければならなくなります。そして、最後には奴隷的国家になり、卑屈な国民になっていきます。このように国家の衰退が起きてくるのです。したがって、一見、善意と思えるものに対しても、それがほんとうに未来への道に通じているかどうかについては、一定の警戒心を持つ必要があります。俗人の耳に心地よくささやきかける思想の一つに、「パイの取り合い型」の考え方があります。「幸福のパイには一定の大きさがあって、だれかが一切れ取れば、その分だけパイは減る」という考え方です。受験の合格者定員などを考えると、そのようにも思えますが、この考え方にあまり深くかかわってはいけません。優れた成績を収めて、よい学校に入ることができた人は、世の人々の期待を背負って、より多くの人のためになるような人生を生きればよいのです。国公立、私立を問わず、多くの人の税金によって賄われている面があるので、学校教育を受けた人は、「お返しをしなければいけない」という気持ちを持つことが大切です。優れた学校に進んだ人は、それだけの義務を負っていると思わなければいけません。そして、「自分はパイをもらえなかった」という人も、それについて愚痴をこぼすのではなく、「パイは何枚でもつくれるのだ」と考える必要があります。」

 

ゆとり教育と働き方改革の考え方が酷似

 ゆとり教育は、1980年代から2010年代前半にかけて導入された。「詰め込み教育」や「偏差値至上主義」への批判が高まったことで、教科の統合や土曜日の休業化など、教育内容と授業時間が大幅に削減された。

 激しい競争も、子供の成長に悪影響だとされ、成績評価は相対的なものから絶対的なものに変更。成績による順序付けの機会も減り、高い評価を得ることが容易化した。

 一方の働き方改革では、「モーレツ社員」を良しとする風評が指弾され、労働時間を減らす方向にある。加えて、「最低賃金の引き上げ」や「同一労働同一賃金」など、非正規雇用と正規雇用の”格差”も是正していく方針である。

 勉強や仕事の時間を減らし、評価や給料を平等化する。ゆとり教育と働き方改革の考え方は、酷似していると言える。

 

ゆとり教育は学力と精神性を低下させた

 だが、広く知られているように、ゆとり教育によって、日本人の学力が低下した。方程式や四則計算などの正答率は、ゆとり教育が実施された後、著しく下がっている。

 また、テストでは測れない「生きる力を育てる」とも謳われたが、それも達成できたかは疑問だ。日本青少年研究所が2000年に日米中の三ヵ国の高校生を対象にした調査では、次の結果が明らかになった。

 「他人よりも少しでも給料の高い仕事に就きたい」という質問について、日本人の73.6%が肯定した。対して、アメリカ人は53.3%、中国人は28.4%であった。

 また、「偉くなると責任ばかり負うから嫌だ」というものには、日本人の51%が肯定。アメリカ人の16.4%、中国人の36.4%と比較しても高い値であった。

 端的に言えば、「責任を負う地位にはつきたくないが、他人よりも高い給料が欲しい」ということでしょう。

 さらに、文部科学省の統計によると、2008年度に全国の小中高校で起きた暴力行為は過去最悪の6万件に上ったという。

 豊かな人格形成と生きる力の獲得を目指した「ゆとり教育」だったが、成果として現れたのは「学力と精神性の低下」だった。働き方改革も似たような結果を生みかねない。

 1992年、文部省官僚の寺脇研氏が「脱偏差値」を宣言し、学力競争を否定する教育改革に着手。「脱偏差値は時代の流れ」(読売)など各紙は肯定的に報じた。「ゆとり教育」導入への議論が進んでいた。

大川隆法総裁は、1999年3月、以下のように指摘された。

「競争をなくせば、ゆとりが生まれてユートピアができるかというと、そうではありません。そのゆとりは、ユートピアにつながるように見えて、実際は、ゆっくりと地獄へ続いている道なのです。まず、有用な人材がいなくなり、価値を生み出せなくなります。その結果、国富が減って国が貧しくなり、生活のレベルが下がってきて、国民はあえぎはじめます。やがて、他国との競争に負けて貧困国になり、他国の援助を受けなければならなくなります。そして、最後には奴隷的国家になり、卑屈な国民になっていきます。このように国家の衰退が起きてくるのです」(『奇跡の法』)

 しかし、2002年、学習内容を大幅に削減した新学習指導要領が実施され、「ゆとり教育」が本格化しました。

 その後、子供たちの学力は低下。2005年から公式にゆとり教育の見直しが始まり、現場ではその前から少しずつ対策が取られた。授業時間は2009年から増やされ始めたのですが。

 教育内容が3割も削減された ゆとり教育 のツケが、日本の国際競争力の低下となって表れている。高校の参考書が中学校の参考書かと思うほど易しい内容だったりするのでは、世界に出せる人材など育ちようがない。

 学校の教師は、自分が担当しているときに楽だったらよいとか、生徒が文句を言わなければよいとかではなく、生徒が実社会に出て使えることを教えなければいけない。

 最終的に実社会に出て使えるレベルを考えると、教育学部系の人でなければならない必然性はなく、他の学部を出た人のなかにも学力があり教え方がうまい人はたくさんいるから、社会で実際に仕事をした人に教員資格を与えてもよいと思う。

 大川隆法総裁は、『教育の使命』で以下のように説かれておられます。

「とにかく、この国の未来を明るくしたかったら、自分たちよりも後に来る人たちが、自分たちを乗り越えていけるような状況をつくらなければなりません。先生というのは、生徒が自分を追い抜いていくことを喜びとしなければいけないのです。そのためには、「後ろ姿」を見せなければいけません。自分が努力している後ろ姿、背中を見せながら、「後から来る君たちは、私を乗り越えて先へ進みなさい。それが、この国の発展につながるし、世界のためにもなるのだよ」と教えなければいけないのです。これは、「自分たちだけの権益を守ろう」などという堕落したスタイルの先生にはできないことです。しかも、「ゆとり教育が大切だ」と言って楽をしてきたツケが、日本の国際競争力の低下となって表れています。それだけ、日本の学力水準が下がってきているのです。これから復活させようとしているところですが、ゆとり教育では、教育内容が三割ぐらい削減されました。例えば、昔は、中学三年間で習う必修単語が千語ぐらいあったと思いますが、それがだんだん減らされていきました。特に、ゆとり教育下の指導要領では、そのうちの基本語が百語にまで減っていったのです(説法当時。2012年より必修単語は千二百語に増加)。英語圏では、「乞食になるのにも三百語は必要だ」というように言われているので、この程度では使いものになりません。世界に出せる人材など、育ちようがないでしょう。高校の参考書を見ると、「これは中学校の参考書かな」と思うほど易しい内容が載っていたりするので、このようなことでは駄目だと思います。幸福の科学は、今、教育事業も行っていますが、「最終的に実社会に出て使えるレベル」を考えると、やはり、その途中において埋めていかなければいけないものがあります。先生は、「自分が担当しているときに楽だったらよい」とか、「生徒が文句を言わなければよい」とか、そのように考えるのではなく、生徒が実社会に出て使えることを教えなければいけません。そういう意味では、社会で実際に仕事をした人などに教員資格を与えてもよいと思うのです。教員にも、「教育学部系の人でなければならない」という必然性はなく、ほかの学部を出た人のなかにも、学力があり、教え方がうまい人はたくさんいます。さらに、例えば、営業系やサービス系で仕事をした人だったら、学級崩壊を起こさないような授業が、わりに簡単にできてしまうかもしれませんし、あるいは、マネジメントや経営を経験した人だったら、学校をうまく運営できるかもしれません。」

 

教育から宗教を排除

 天上界の眼でみたとき、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定した日本国憲法20条3項は間違っている。憲法は「国及びその機関は、宗教を奨励し、宗教教育、宗教活動の大切さを国民に教えなくてはならない」と宣言すべきである。

 そして、学校で子供たちに宗教の内容を教えることになれば、「ほんとうに世の中をよくする宗教とは何であるか。ほんとうに真理を内包し、体現している宗教とは何であるか」を、もっと真剣に議論する必要が生じる。その過程で、真実のものが何かを明らかにする努力をしなくてはならない。

 大川隆法総裁は、『繁栄の法』で次のように説かれました。

「教育の現場から宗教を排除することは正しいのでしょうか。宗教のほんとうの意味を考えたならば、「宗教は教育から排除できるものではない」ということが分かるはずです。教育とは、真理獲得を目指すための方法です。学校で教育を行なうのは、子供たちに真理を教えるためなのです。そして、真理の核の部分に「宗教的真理」があります。真理から核の部分である宗教的真理を排除したならば、唯物論的なもの、要するに抜け殻、外側の部分だけしか残りません。そもそも、宗教がなければ、哲学や思想は根なし草になってしまいます。  学校教育が真理の獲得を目指すものである以上、日本国憲法の第20条3項そのものが間違っていると言わざるをえないのです。 「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定した憲法20条3項を改正し、「国及びその機関は、宗教を奨励し、宗教教育、宗教活動の大切さを国民に教えなくてはならない」と宣言すべきです。もちろん、さまざまな悪しき宗教が存在していることは私も承知しています。しかし、その原因は、公の場から宗教教育や宗教活動が排除され、主要なマスコミも、宗教については事件以外は扱わず、宗教を日陰者扱いして、悪い宗教もよい宗教も一緒に排除するという、無責任な体制を敷いてきたことにあるのです。学校において子供たちに宗教の内容を教えることになれば、大人たちには責任が生じます。そのため、大人たちは、「ほんとうに世の中をよくする宗教とは何であるか。ほんとうに真理を内包し、体現している宗教とは何であるか」ということを、もっと真剣に議論するようになるはずです。  その過程で真実のものが明らかになってくるでしょうし、そのための努力をしなくてはならないのです。」

 

再評価されるべき「勤勉の精神」

 労働時間の短縮、成果の平等化。これらが導くものは、日本人が培ってきた勤勉の精神の喪失です。

 勤勉の精神が損なわれれば、日本の国際競争力は低下し、経済停滞にもつながる。給与は下がり、生活も厳しくなる。生活のゆとりを目指したはずの働き方改革が、ゆとりを奪う結果になりかねない。

 戦後の日本が経済成長できたのは、勤勉の精神に基づき、努力を続けてきた先人がいたからに他ならない。勤勉に働く人が増えてこそ、国は発展し、国民は豊かになる。

 国民の生活を思うのであれば、勤勉の精神が評価される社会を構築すべきです。

 

「創造性の教育」が資本主義の未来を拓く

 では、次の時代の教育の課題は何か。

 昨今、「資本主義が終わる」と言われることが多い。今までの時代は、「世の中のお金が、成長する産業に投資され、さらなるお金を生み出す」ことで繁栄してきた。しかし、今、先進国を中心に経済成長が止まり始め、お金の投資先もなくなり、世界中の金利がゼロに近づいている。「資本が資本を生む循環」がなくなりつつあるという。

 この問題について、大川隆法総裁は、答えは「教育」にあると分析する。

「『どうやって、創造的な頭脳をこの国につくり出すか』ということが大事なのです。

これをやれば、だぶついている資金の使い道が出てきます。『資金がいくら出ても、それをどう使っていいか分からない』『事業のアイデアが湧かない』『新しい仕事が存在するということが、人々に見えない』『そういう需要が今後まだあるということが分からない』という状況においては、経済の停滞は続くわけです。

 したがって、日本の資本主義が今後も続いていくための一つの手は、『創造的頭脳を数多くつくっていかなければいけない』ということです。その意味で、教育の生産性を高めなければいけません」(『資本主義の未来』所収)

 現在の日本の教育では、答えのある問題に対して、公式通りにミスなく取り組む能力を中心に訓練する。

 しかし、これは工業生産の時代に適した教育法だったといえる。これからの時代は、こうした基礎的な「処理能力」にプラスして、「新たな需要や」「前例のない仕事」を創造する頭脳が工場の設備に代わるような時代になる。教育において「起業家精神」的なものを教えなければいけなくなるのです。

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