六十にして耳順う

 「六十にして耳順う」という論語の言葉が語り継がれています。人の言うことを逆らわないで聴けるようになった境地のことだったと思います。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『孔子の幸福論』で以下のように教えておられます。

「六十歳は、還暦ということになるけれども、一般には、定年を迎える人が多いことは多い。このころには、体力的に弱ることもあり、自分の将来に対して不安になることもあり、また、子供も完全に手が離れていくこともあるので、未来に対する希望が薄れてくる。そういう年が、六十という年だと思うんだ。ただ、やはり、ここで、「一生の意味をだいたい終えるか終えないか」という判断がなされるのかなという気がするね。六十歳にして、まだ、学ぶ心を忘れない者には、それから先に、晩年の大成が待っていると私は思う。つまり、六十歳にして、まだ、自己投資というか、自分自身の将来に対する努力研鑽を忘れない人は、さらに豊かな完成期の晩年を持つことができるだろう。一方、六十歳にして「人生をだいたい終えた」と思う人は、普通の人であり、「好々爺として生きていく。よき老人として、周りの人に迷惑をかけずに生きていく」ということが目標になろうなあ。このように、六十歳は、「人間としてのさらなる完成があるかどうか」ということがかかった年齢だ。六十プラスマイナス何年かあると思うけれども、ここでもう一度発心する人には、さらに先の未来が待っていると思う。普通の人の場合は、一般的な仕事、例えば、事務仕事や筋肉を使うような肉体的な労働ならば、だいたい、六十歳ぐらいで終わってしまうことが多い。しかし、六十歳にして、まだ、知的投資をし、勉学に励むようであれば、その人には、もう一段、大きな完成への道が待っているだろうね。もう一段、大きな師として、多くの人たちから仰がれるような未来が待っているのではないかな。そのように思うね。」

生涯現役社会 へ

「仏法真理」へ戻る