本人が望んでいない臓器摘出が行われたら

臓器提供者は激痛に驚愕する

 宗教の観点から見た脳死者は、脳に重い障害を負って、体を動かすことも、話すこともできないが、考える力自体は肉体に宿った魂の側にあって意識がある。

 「自分はまだ死んでいない」と思っている段階でメスが入れられ、臓器が切り取られると、臓器提供者は激痛に驚愕し、「やめてくれ」と心の中で叫ぶしかない。そのとき、手足が動いたり、血圧が急上昇したりするのだが、医師からは、「脳が死んでいるので痛みを感じているはずがない」とたいてい顧みられない。

 

提供者の魂が被移植者に憑依する場合もある

 その後、臓器提供者の魂は、取られた自分の臓器を求めて地上をさまようこともある。そして、移植を受けた人(被移植者)の肉体に魂が同居する形で憑依し、被移植者の臓器への拒絶反応や人格の変化、その家庭での不幸を起こしていく。アメリカで臓器提供者の記憶や意識が乗り移り、移植を受けた人の食べ物の好みや性格が一変したり、移植を機に離婚したりするケースが報告されているのは、こうした事情を裏付けるものである。このため、正しい霊的知識を家族みんなでしっかり理解しておく必要がある。

 

脳死臓器移植は何が問題か

1 肉体からの魂の離脱が死の瞬間。脳死の状態は肉体と魂が密着している

 死の瞬間について間違いがある。脳死は臓器としての脳の機能喪失であって、人の死ではない。本当の死は、心臓停止後数時間から約24時間経ち、肉体と魂とをつなぐシルバー・コード(霊子線)が切れたときにほかならない。

「(脳死であっても)『まだ心臓が動いており、血流があって、体が温かい状態においては、魂は、まだ肉体から離れておらず、生きようと努力している』というのが真相なのです」(『永遠の生命の世界』

 こうした肉体と魂が密着している脳死の段階で、臓器を取り出されるとき、さまざまな混乱が起きる。

2 臓器提供者があの世へ安らかに旅立つ権利を侵害される

 深刻なものが、臓器提供者があの世へ安らかに旅立つ権利が侵害される。

 臓器摘出時に臓器提供者が頻繁に手を動かしたり、血圧が急上昇したりするのは、生体解剖されるのと同じような激痛を感じているためです。その結果、スムーズにあの世へと旅立てなくなる。

 霊的な目から見て、本来の世界、魂のふるさとであるあの世に還ることは、人間にとって大切な幸福の一つ。逆にそれができず、この世で迷うのは大きな不幸と言える自殺した場合も含まれる)。脳死臓器移植は、そうした不幸を引き起こすのです。

3 臓器提供者の魂が被移植者に憑依し人格変化や不幸を起こすこともある

 あの世に旅立てなかった臓器提供者の魂は、被移植者に憑依し、人格変化やその家庭で不幸を起こすことがある。

 それは、被移植者に「何とかして生き延びたい」というこの世の生存への強い執着があり、臓器提供者の魂と同調していることにも原因がある。

 「この世がすべて」という考えに立つならば、どんな手段を用いても自分の命を長らえさせたり、重病の人の命を助けることはうなずけなくはない。

 しかし、私たちが生きるのは、この世だけではない。肉体を去った、まさに永遠の生命の世界で魂として生き続ける存在でもあるのです。

4 現代の医学は未熟な段階にある

 脳死臓器移植を推進する医師らは「脳死者は死んでいるのだから、臓器移植すれば助かる患者を救うべきだ」と考えている。確かに重病人の命を助けるのが医療の使命です。しかし、「死ねば何もかも終わり」と唯物論的に考え、機械の部品を付け替えるように移植を行う現状では、これまで見てきたように、臓器提供者の魂ばかりか、救おうとしているはずの被移植者をも苦しめることになる。

 肉体と魂の関係を解き明かせていないという意味で、現代医学はまだまだ未熟な段階にある。移植医療の関係者はそれを謙虚に受け入れる必要がある。

 臓器移植法の見直しにあたっても、「人間の死とは何か」という根本問題を避けて通ることはできない。「人間は肉体は死んでも意識はあり、永遠の生命をもって転生輪廻を繰り返しながら魂修行する存在である」という霊的真実に目を向けたとき、私たちは脳死臓器移植という医療が持つ問題を乗り越えていくことができるのです。

 

脳死臓器移植が「正しい布施」となる条件

 『永遠の生命の世界』のあとがきでは、正しい布施の条件である仏教の三輪清浄の教えに触れて、臓器移植が認められる条件について次のように指摘している。

「臓器提供者が仏法真理を学び愛の心で与えたいと思うこと、受者も深く真理を理解しつつ、感謝すること、臓器取引に違法性や金銭対価を伴わないこと、などを前提として正しい布施が成り立つ」

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