自殺の現状と問題点

幸福の科学大川隆法総裁『幸福へのヒント』 より

参考

近年の自殺は中年世代に集中している

 統計によると、2002年に自殺した人は、前年より3.5パーセント増えて、3万2143人です。新聞には、「5年連続で3万人を超えた」と書いてありました。

 なかでも、生活苦による自殺が過去最多の7940人でした。約8千人が生活苦で死んでいるのです。「リストラや借金など、景気低迷による影響が、そうとう大きかったのではないか」というようなことが、新聞には書かれていました。こういう、経済や生活の問題が原因である自殺は、全体の25パーセントぐらいです。

 そして、年代別では、50代、60代以上がかなり多く、50歳以上が全体の60.9パーセントになっています。60代以上は1万1119人です。50代、60代は、昔なら、初老に当たり、老人なのですが、現在、日本人の平均年齢は80歳前後なので、いまでは中年と言ってもよいでしょう。このあたりの年代に自殺者が集中していることが分かります。

 新聞には、自殺原因の分類の統計も出ていました。もちろん、死んだ人に、「なぜ死にましたか」とインタビューしているはずはないので、周りの人から聞いて、「こうだろう」と推定したものでしょう。

 それによると、健康問題が47.1パーセントで、1万4815人、経済・生活問題が24.7パーセントで、7940人、そのほか、家庭問題、勤務問題、男女問題、学校問題というようになっています。

 

注目すべきは、職業別の統計です

 無職が1万5117人であり、半分ぐらいが無職ということになっているのです。「50歳以上が60パーセント以上」ということも併せて考えると、「リストラに遭った人、不景気によって職を失った人、会社を去ったあと、収入がなくて、邪魔者扱いされている老人、病気になってしまい仕事ができない人、このような人の自殺が多いのではないか」と思います。そのように全体的には感じられるのです。

 これは自殺の統計ですが、自殺者なのに、自殺の統計に含まれていない人も数多くいると思います。家族から自殺者が出たとなると、縁談や就職に差し支えるとか、会社での出世に差し支えるとか、いろいろと差し障りがあるため、自殺を隠す傾向があり、死因を病死にしてしまうことも多いのです。

 したがって、もしかしたら、自殺している人は、もっともっと数は多く、ほんとうは十万人ぐらいいるのかもしれません。

 

「死ねば楽になる」という考えが自殺を生む

 自殺は、たいへん悩ましい問題だと思います。

 「生老病死」は昔からのテーマであり、人はみな、老い、病になって死ぬわけですが、現在は、自殺というかたちの死に方が増えてきたということです。

 死んだあとのことについては、分かっている人は少ないので、「死後についての情報はない」ということで、「とにかく、自殺によって、生きているあいだの不都合な部分や不愉快な部分を消してしまえば、楽になるのではないか」と考えて自殺する、そういうかたちの自殺が多いのではないかと思います。

 また、「あの世はある」と思っていても、死後の世界についての情報を充分に持っていないために、「死ねば楽になるのではないか」と考えている人が、けっこういるのではないでしょうか。

 しかし、実際には自殺者が天国に行くことは極めてまれであって、地獄に行くか、あるいは、地縛霊となって、自分が死んだ場所に漂っている人が多いのです。

 昔、新宿の高層ビルから飛び降りて死んだ俳優がいました。その人は、「おやじ、涅槃で待つ」というような遺書を書いていたのですが、「涅槃」という言葉がマスコミには分からず、 

 「何だ、これは」ということで、宗教学者や仏教学者が引っ張り出されて、いろいろと訊かれたりしたことがありました。

 「涅槃で待つ」という言い方自体は変なのですが、その人は、この言葉を、ちょっと聞きかじったのでしょう。

 仏教では、安らぎの境地のことを、「涅槃」といいます。死後の、煩悩の炎が消えた状態です。それを涅槃というものだから、「涅槃で待つ」と言った人がいたのですが、ちょっと意味としては違うのです。

 しかし、その人が、自殺するにあたって、「死ねば、あの世で、安らぎの世界に入れる」と思ったのは間違いないでしょう。そういう人もいました。

 あの世を信じていないので自殺する人もいれば、あの世を信じていても、「死んだら楽になって、安らかな世界に行ける」と思って死ぬ人もいて、「両方とも、仏法真理の知識が足りないのではないか」という感じがするので、幸福の科学としては、もうちょっと、思想的キャンペーンを頑張りたいと思っています。

 死後の世界のことを知らない人が多すぎますが、それは、学校で教えている学問が、あの世、死後の世界、霊魂の世界を認めていないからでもあります。

 そういうことについての情報が得られるのは、たいてい、お盆のころのワイドショーなどといったテレビ番組です。お盆のころになると、ワイドショーでは幽霊特集をよくやります。また、低俗な週刊誌は、ネタが尽きると、興味本位の幽霊ものの記事を書いたりします。その程度でしょうか。

 それから、子供向けには、心霊ミステリーのような本も、ときどき出ているので、そういうもので読む人もいるかもしれません。

 いずれにしろ、正規のルートでは勉強がなされていません。

 

自殺者の霊は自殺を繰り返す

 自殺する場合には、その前に、いろいろなことで悩みがあったり、病気になったりしていることも多いと思うのです。その際、相も変わらず霊障問題が起きているので、たいていは、自殺者の不成仏霊に取り憑かれて、その霊が死んだときと同じようなやり方で死ぬことが多いのです。

 海に飛び込んで自殺した人だったら、憑依した相手を海に引きずり込むし、ビルから飛び降りた人だったら、そのあたりにいる、悩みながら歩いている人を、スーッと持っていって、飛び降りさせたりします。踏み切りや駅のホームで電車に飛び込んだ人は、迷って、死にたがっているような人にパクッと憑いて、電車に飛び込ませます。これは、「一瞬、魔が差す」というような感じです。一瞬、引きずり込まれて、やられるのです。

 したがって、自殺は、本人の自由意志だとは必ずしも言えないのです。心に隙があるとき、あるいは、自殺した人と同じような心になっているときに、そういう霊に取り憑かれて、自分も自殺することがあるのです。

 しかし、取り憑いた相手が自殺したとしても、取り憑いていた霊は、それで幸福になるわけではありません。そのため、また、違う相手を見つけます。そして、憑依された人が自殺すると、その人もまた不成仏霊になって、一人だった不成仏霊が二人に、二人が三人、四人にと増えていきます。そういう意味で、よくないのです。

 何回も自殺が起きる所には、だいたい、不成仏霊が何体もいて、人に取り憑いています。そういう不成仏霊は、せめて仲間を増やそうとしているか、あるいは、自分が死んだこと自体がまだ充分に分かっていなくて、「自殺しそこねた」と思い、生きている人間に憑いて、もう一回、自殺しているのです。

 そういう人にとっては、たとえば、「自分はビルから飛び降りて死んだはずなのに、偶然にも助かって、まだ生きているようだ。しかし、友人、知人に会っても、だれからも反応がない。おかしい。自分はミステリーの世界か何かに入ったらしい。神隠しに遭っているらしい」という感じです。あるいは、「自分は、生きてはいるのだが、何か透明人間になったらしい」「周りの人が、なぜか、非常に冷たい」「分かってもらえない」など、そのような感じでしょうか。

 そこで、「自分は自殺しそこねた」と思って、もう一回、同じことをするのですが、そのときに、ほかの人の肉体を使います。だれかに取り憑き、その人になったような気分になって、自殺します。これが繰り返し起きているのです。

 

自殺者の霊と同じような心を持たないことが大事

 「基本的には、自殺の名所のような所には、あまり近寄らないほうがよい」ということです。心が弱っているとき、そういう所に行くと、フッと憑依され、衝動的判断で自殺に引きずり込まれます。自殺者が多いような所には、基本的に行かないほうがよいのです。

 また、「波長同通の法則」というものがあるので、自殺者の霊と同じような心を持たないことが大事です。

 最近は、病院で死ぬ人も大勢います。そこで病気が治ることもあるのでしょうが、死んでいる人もたくさんいるので、病院には不成仏霊がずいぶんいるだろうと思われます。そういう所では、あちこちで憑依されやすいのです。病院には、そういう怖い面はあるように思います。

 

生活苦による自殺を防ぐには

収入の範囲内で生活する

 幸福の科学は宗教であるにもかかわらず、私は、経済問題や経営問題等に、たびたび言及しているのですが、「自殺者の四分の一が経済苦や生活苦で死んでいる」ということであれば、やはり言っておく必要があります。死んでから言っても遅いので、やはり、折に触れて、健全な生活を送る方法を言っておく必要があると思います。

 『幸福へのヒント』においても、自殺問題と絡めて、経済問題について触れていますが、そのなかで、やはり、「個人の家計も企業も、それほど大きくは変わらないのだということを知ってほしい」ということを述べています。

 そして、「お金の問題は、基本的には、入るお金と出るお金、紙一枚の問題です」と書いてあります。

 個人でも、一枚の紙の左側に「収入の部」、右側に「支出の部」と書き、家計簿をつけたら、「収入がいくらで、支出がいくら」となります。この収入と支出の額が合わなければなりません。

 合わないといっても、収入のほうが多い分には別に困りはしませんが、支出のほうが多い場合には、必ず行き詰まることになります。借金できる当てがあるうちはよいのですが、借金ができなくなったり、借金しても返せなくなったりすると、夜逃げや自殺に追い込まれることになってきます。

 そういう単純なことだと思いつつも、この単純な、「左と右を合わせる」「収入と支出を釣り合わせて生活する」ということのできない人が、かなり多いのです。

 いまはカードで買い物もできますし、企業のほうでも、手形など、支払いの先延ばしをするような道具があって、ないお金を使う誘惑というものは常にあります。

 こういうことについては、学校では、それほどしっかりとは教えてくれません。私も、小学校から大学までのあいだに、「収入の部と支出の部とを釣り合わせて、収入の範囲内で生活するように」というようなことを教わった記憶は、まったくないのです。

 これは「実社会で学べ」ということで、放り出されているのかもしれませんし、あるいは、親が教えたりすることなのかもしれません。

釈尊が説いた「四分の一天引き法」

 私は、『仕事と愛』や『幸福のつかみ方』という著書のなかで、本多静六(1866~1952)という人の「四分の一天引き法」というものを紹介したことがあります。これは、「収入の四分の一ぐらいを天引きして貯め、将来に備える」という方法であり、「植福」(将来のために福を植える)という言葉と関係があります。

 ただ、これは、本多静六の発明でも何でもなくて、実は仏教の教えです。四分の一天引き法は、仏典に書いてあるもので、もともとは釈尊の教えなのです。

釈尊が在家の人に説いた教えのなかに、そういうことがあります。

 「収入のうち、四分の一ぐらいは、自分が個人的に必要なこと、自分の周りのことに使い、二分の一ぐらいは、農業や商業などの家業を運営していくために使い、残りの四分の一ぐらいを、将来に備えて蓄えなさい」

 こういう教えが仏典のなかに遺っています。

 本多静六は、この仏教の「四分の一天引き法」を、自分なりに焼き直して、「収入の四分の一を貯める」ということを言ったのだろうと思うのです。

 彼は、ボーナスや原稿の印税、株の配当など、予定していないのに入ってくる、予想外の収入については、これを全額貯め、給料の四分の一は天引きをして、残りの四分の三で生活しました。それで月末に生活が苦しくなっても、何とか我慢して乗り切っていったところ、お金がだんだん貯まっていき、最後は非常に楽になったということです。

 彼は、東大教授にしては大金持ちになり、税務署から何回も表彰されるぐらいになりました。また、戦前にもかかわらず、自費で十九回も海外渡航をしましたし、晩年には、いろいろな寄付もしています。

 そういう貯蓄法があるということを本多静六は述べています。しかし、彼は語っていませんが、その元は仏教です。仏教に、そういう「四分の一天引き法」があって、「将来のために、四分の一ぐらいを蓄えよ」と、要するに「植福せよ」というような言い方を、ちょっとしています。

 それは、在家の人の「事業繁栄の法則」というか、「成功するための法則」として、釈尊が説いた教えなのです。

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