『旧約聖書』創世記第2章 アダムの創造とエデンの園物語

 創世記第2章では、第1章との違いがはっきりして参ります。第1章では世界を創造し、最後に人が置かれたのですが、創世記第2章ではまず人間が創造され、その人間に対して、まわりの環境が整えられていくのです。

1節

 こうして天と地と、その万象とが完成した。

 

2節

 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

 第七日目は、主は休まれました。私たち人間が休む時は、疲れているから休むのですが、神は疲れることはありません。ここの「休まれた」というのは、天地創造の働きが完成したので、それ以上、付け足すことはないからです。ご自分が完成された業を見て、それでそれを祝福しました。

 この「安息」の日を記念して、主はイスラエルの民に、安息日を守りなさいという命令をモーセを通して与えられました。

3節

 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

4節

 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、

5節

 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。

6節

 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。

 

7節

 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

 人間がどのように造られたかについて書かれています。人の肉体は「土地の塵」によって神が造られました。実際に、人間の肉体の要素の17成分は、土の中にある17成分と同じであると言われます。

 そして、「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」とあります。これが人間と動物を決定的に区別する神の働きです。ここの「息」はヘブル語で「ルアク」であり、これは、「霊」とも「風」とも訳すことのできる言葉です。つまり神は人間に、ご自分の霊を吹き込まれたのです。

 それゆえ人間は「生きもの」となったとあります。霊をもった人となりました。

 アダムが最初の肉ある者であるということは、モーセの書3章7節に「・・・地上における最初の肉なるもの、また最初の人となった・・・」と書かれています。創世記によると、アダムは地球の方の備えができるまではこの地上へは来ていませんでしたが、動物たちは既にいて、植物もありました。神はアダムを荒れた大地に置くことを良しとしなかったので、それでまず他の動物を置いています。地上はアダムを迎えるために、準備が整えつつあり、そして、アダムが来たのは、すべてが彼のために整ったときに地上へ来たと考えられます。「最初の肉ある者」とは、あらゆる地上の造られたものの中で最初に堕落して「死すべき者」となった存在のことです。つまり、アダム以前には他に死すべき存在はなく、この世の死も、アダムが初めて持ち込んだものであり、聖典がそれを証明しています。

 ここで、人間は、単に創られたのではなく「形造られた」と記されています。これはヘブル語のヤーツァルという動詞ですが、特にはっきりとした目的をもってデザインを考えて作る時に使われる言葉です。英語の聖書ではformとかfashionという言葉が使われます。

 他の動物は土地のちりで形作られて生きるものとなりましたが、人間だけは違いました。7節を見ると、神様は人間を土地のちりで形造った後に、人間の鼻に「いのちの息」を吹き込まれました。その時はじめて、人は生きものとなりました。

 人間は、本来、神様とともに親しく交わるように、神様と同じ息を持つ者として造られました。ヘブル語では「息」を表す言葉には「霊、spirit」という意味も持っています。人間は神様と同じ霊が与えられて初めて本当に生きる存在なのです。

8節

 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。

 エデンの園のあった場所は、いろいろな見解があって様々な場所が言われていますが、アメリカ大陸に「あった」という説が今の所信頼できる説のようです。地球は大洪水とその後の地殻大変動によって、地形は著しく変わっています。その後、ノアの子孫が、川や他の目印となる地形に、大洪水以前つけられていた地名にちなんだ名前をつけたと見ています。このように考えると、メソポタミア地方にある河川に、何故もともとアメリカ大陸にあった河川の名前が使われているのかが、分ってきます。これにより、現在の河川系は大洪水以前に存在していた巨大な大陸上の河川の名残りということになります。 

9節

 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

 神様は作られた人間を、東の方エデンに園を設け、そこに置かれました。東の方とは、どこから見て東なのかということですが、これを書いたモーセから見て東です。現在のイスラエル、あるいはエジプトのシナイ半島から見て東ですので、現在のイラクあたりの地域だと思われます。エデンそのものが庭であったのではなく、エデンという場所に、神様が、人間が快適に過ごせるような庭園を作ってくださいました。そこから4つの川が流れ出ていたことが記されています。第三のヒデケルはアッシリア時代の遺跡からチグリス川であることが分かっています。また第4の川のユーフラテスはチグリス川と共にペルシャ湾に流れ込む川であることは知られています。しかし、第一の川ピションと第二の川ギホンがどこを流れていた川なのか、今も分かりません。

 エデンの園の正確な場所は分かりませんが、いずれにせよ、現在のイラクのあたりであったと思われます。神様は、その場所に、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせてくださったので、素晴らしい楽園であったことは確かです。

エデンの園は神様にとってもアダムとエバにとっても喜びに満ちた場所であったことは確かです。だからこそ、神様は6日目にすべてのものを創られた後に、すべてのものを見て非常に良かったと満足されたのです。この世界は神の目に非常に良い世界であったのですが、その中でも神様は最初の人間アダムとエバをエデンの園という喜びに満ちた美しい楽園に置かれました。エデンの園には人間が必要とするすべてのものがありました。彼らは何一つ不自由なく、神様との交わりを喜びつつ毎日を過ごしていたのです。

 神様は人間にこのように素晴らしい場所を備えてくださいましたが、同時に人間に対して守るべき規則をお与えになりました。9節に書かれているように、園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木が2本並んで生えていました。神様はアダムに命令を与えることによって人間の果たすべき責任を作られました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」エデンの園には見るのに好ましく食べるのに美味しい木や植物が無数に生えており、神様は、それらの木から心ゆくまで自由に食べて良いと言われました。エデンの園には美しい花々と美味しそうな野菜果物が限りなく生えていて、いつでも食べたい時に自由にとって食べることができました。

 ところが、神様は一つだけ守るべき規則を作られました。それは園の中央に生えている善悪の知識の木からはとって食べてはいかないという規則でした。それを食べると必ず死ぬと神様は言われました。エデンの園には、数限りなく美しい花が咲き、美味しいものが実っていました。アダムとエバはそれらを自由に食べることができました。その中でただ一本だけ食べることが禁じられました。

 神様は人間を神のかたちに創られましたが、それは神様と同じように、たくさんの能力が与えられていることを意味します。その一つが自分で考えて決断する。二つのものを選ぶ時に、自分で考えて自分で選ぶことができる能力が与えられているのです。神様は人間と本当に心の通った交わりをするために、人間が自分の力で考えて神様と交わることができるように創られたのです。その選ぶという能力を実際に使うためには、してはいけないことも無ければなりません。間違ったものを選ぶ可能性がなければ、するかしないかを決める、選択するということができないからです。神様はエデンの園の中央にいのちの木と善悪を知る木の2本のとても大切な木を植えられました。いのちの木は人々にいのちを与える木です。いのちの木は完全な場所にしか生えていません。聖書では創世記のエデンの園の中と、ヨハネの黙示録22章2節に記されているだけです。

 「都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」 一方の善悪の知識の木は、神様から「それを食べると必ず死ぬ」と言われていた木です。この2本の木が園の中央のよく見える場所に2本並んで生えていました。アダムとエバは、毎日、この2本の木を見て、自分の行動を決めなければなりませんでした。この時に、二人は神様から与えられて自由意思で自分の行動を決定する能力を使う機会が与えられていました。ふたりは、いのちを選ぶか死を選ぶか、神の言葉に従って生きるか、神の言葉に逆らって生きるか、善を取るか悪を取るか。神様は、私たち人間が強制的に神を愛し神に従うのではなく、人間が自分の自由意思で神を愛し神に従うことを求められたからです。  神様が与えた禁止事項は、一つだけです。それ以外はすべて許されていました。神様がアダムとエバに願ったことは、神様の言葉をよく聞いて、それに従おうとする心です。それが私たちの神様に対する愛だからです。誰かを愛する時に、人はその人の言う通りに生きようとしますから。神様はアダムとエバに自分で考え自分で選んで神を愛する、このような本当の愛に基づく関係を持ちたかったのです。

10節

 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。

11節

 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、

12節

 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。

13節

 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。

14節

 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。

 「東の方」とありましたが、創世記を書いたのは約束の地のそばまで来ていたモーセによるものです。したがって、イスラエルから東の方です。川がエデンから出ていて、それが四つの川となって流れていますが、11節の川が「ハビラ」の全土を巡って流れた、とあります。ハビラはアラビア半島の北部の部分です。そして、第二の川は「クシュ」に流れているとありますが、クシュはエチオピヤのことです。そして、第三の川は「アシュル」を流れているとありますが、これはアッシリヤのことで、イラクの北部です。そして「ユーフラテス」ですが、これはシリヤの北部を上流とし、イラクの南部のバビロン、そしてペルシヤ湾に流れ込みます。

 当時はまだ、ノアの時代の洪水による大地殻変動の前の状態です。ですから、今の地形とはかなり異なっているでしょうが、それでもおそらくイラクとシリアの北部の辺りであると考えられます。 

 4本の川の事が記されます。ピション、ギホン、チグリス、ユーフラテス。最初の二つの川については、正確にどこそこの川であるとは言えません。二つめのギホンがナイル川の支流ではないかと言えるくらいです。しかしチグリス、ユーフラテスの二つの川については明らかです。ひとつの世界観なのです。世界的な大河、4つの大きな川、4という数字はまた世界全体をあらわすとも言われます。

 ここで大事なのは、地理的位置ではありません。その豊かさです。実をいつもむすばせている危機があり、園の中央から水が流れています。それによってその木々は潤っています。そして川が流れ、そこには金もあります。これが、神が初めに造られた人が住む所でした。

15節

 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

16節

 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

17節

 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 ここは神と人との大事な境界線になっている部分です。神と人とは一体になり深い交わりを持っていましたが、「善悪の知識の木」に関しては、神のみに属している、触れてはならない領域なのです。人は神に似せて造られましたが、決して神自身ではありません。究極的に善と悪を判断するその裁きは、神のものであり、人はただ神との霊にある交わりの中で、生きるように造られているのです。

 「これを食べると必ず死ぬ」と主は言われますが、それは、この木から実を食べることは、自分も神のように賢くなりたいという欲求を満たすことです。自分自身が神になるということであり、神から独立して生きることに他なりません。これを行なうと、神から実際に独立します。神から引き離されます。そうすると、命の源である神の御霊から引き離されるので、人の霊はすぐに死んでしまうのです。ちょうど脳に少しの間でも血が循環しなければ、すぐに死に至るのと同じです。

 人は必ず、神に反抗します。「あなたは、なぜこのようなことを行なわれるのですか。」「こんなことを行なう神なら、私はこの神を信じない。」そして、世にある不条理についてもがきます。けれども、それは善悪の知識を得たいという欲望の表れであり、完全に神に拠り頼んで安心して生きる生活とは対照を成すものです。私たちは、神を退けて自分の中でもがくのか、それとも、すべてのことを支配している神にゆだねて、平安の中で自分に任されているものを楽しむのかの選択があります。

 そして、もう一度、なぜ神がわざわざその善悪の知識の木をエデンの園の中央に置かれたのかですが、これは、神と人とが似ているがゆえに起こっている問題です。神は自由意志を持っておられます。同じように人も自由意志が与えられました。自由意志が自由意志として成り立つためには、他の選択肢も与えなければいけません。神を愛して、神に従うということではない選択肢も与えなければならないのです。

 しかもその選択肢は、魅力のあるものでなければなりません。その魅力あるものを退けて、なお神の命令を守るところに、確かにこの人が神を愛しているのだということが証明されます。神との関わりが意味あるものになるためには、誘惑があってもなお神を選び取るという意志が必要なのです。

18節

 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

 私たちはこれまで、自然界の始まりと人の始まりを見ました。次に、結婚の始まりを見ます。

19節

 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

20節

 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

 神が人に、仕事を与えておられます。神が、ご自分が造られたものに名前を付けておられましたが、その頭脳を使う創造的働きを人に任せられます。男は、もともと このように自分で考え、果敢にその仕事を取り組むことを願望している存在として造られています。

 けれども、主は「人が、ひとりでいるのは良くない。」と言われました。神が唯一の方であるにも関わらず、父、子、聖霊の交わりの中で存在しておられます。同じように、ご自分がお造りになられた人も、自分の傍らにいて助けてくれる存在が必要だと感じられました。特に、神の仕事を行なっている時に、助けてくれる人が必要だったのです。

21節

 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。

22節

 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

23節

 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

 神は女を造ってくださいました。女がどこから出てきたかが非常に興味深いです。「あばら骨」です。脇から造られたのです。夫婦における男と女の間には秩序があります。男がかしらとして立てられています。けれども、それは決して優劣の差ではありません。女も同じように神のかたちに造られた存在です。その証拠に、男の足からでもなく、また女が男を支配するかのように頭から造られたのではありません。脇から造られたのです。夫が神に従い、神に仕えていくときに、共に生活し、そして彼を助けることが女の造られた目的なのです。

 そして男が感動して叫びました。「これは、私の骨からの骨、肉からの肉」。そして、動物だけでなく女に対しても名を付けた。ヘブル語で、男を「イシュ」と言います。そして女性形にすると「イシュア」です。「ア」という発音が加えられました。ですから、「イシュから取られたのだから、これをイシャと名づけよう」と言っているのです。

24節

 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

 ここに結婚の定義があります。一つは、神は私たちに親を与えられる前に夫婦関係を与えられた、という事実です。初めに結婚があり、それから親子の関係が始まりました。夫婦関係が親子関係に優先するということです。夫婦は神の前で誓いを交わす時に、神以外に二人の間に入りこむことがあってはなりません。それが自分の親であってもそうなのです。

 それで、「妻と結び合い」ます。この結びつきは、次に「一体となる」とあるように、切っては切り離すことのできない強力なものです。

 そして「ふたりは一体となる」とありますが、ここで使われているヘブル語が興味深いのです。「エハド」です。「神がひとりである」という時も、この言葉が使われています。これは文法用語では「単複数形」と呼ばれます。同じ「一つ」でも一本の指と、一つの手とでは意味が違いますね。指の場合は単独で1本しかありませんが、手の場合はその中に5本の指があります。ですから、「一つの中に複数のものがある」という意味で、「単複数形」と呼ばれるのです。

 つまり、夫婦は一つの体になるのですが、その体にはそれぞれの人格があります。神が唯一であられるのに父、子、聖霊がおられるように、夫婦も二人で一つになるべく神が制度として設けてくださいました。

25節

人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

 ここの意味していることは、「彼らは隠すものが何一つなかった」と言うことができるでしょう。神の前に出ても、そしてお互いが会っても、隠し立てすることがなかったのです。今の私たちはいかがでしょうか? すべてを透明にして、他の人々に自分のことを明かすことはできるでしょうか? なぜそうなってしまったかは、次の3章に書いてあります。

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