ムー文明

 今から約37万年前、太平洋上に一つの大陸が姿を現しました。その大陸は、以後様々に姿を変え、今から2万7千年頃には現在のインドネシアあたりを中心にしてオーストラリアの2倍くらいの面積の大陸になっていました。その名を「ムー大陸」と呼びます。当時は「モア大陸」と呼ばれていました。そして、今から約2万年の昔、この地にゾロアスターの前身 エスカレントが出て、太陽の科学的なエネルギーを重視し、太陽の光パワーに2種類の意味付けをしたのです。第一は、「神の光を現すもの」として光を「聖なるもの」としました。第二は、光を「有用なるもの」としました。ムー大陸では、そのエスカレントの指導の下、太陽の光エネルギーを利用する技術が進歩し、科学的技術の幕開けが始まりました。

 その後、ムー大陸が全盛期を迎えるのは、その3千年後 エル・カンターレ の生命体の一部であるラ・ムーが地上に降臨してからのことでした。 ラ・ムーは、地上に神の国を打ち建てる時であると、中心となる三点の教えを説きました。

①「すべてのムー人は、神を太陽の如き存在だと悟らねばならない」 神は太陽の如く光に満ちており、地位の人間に光を与えてくれている、そのことを知らねばならない。

②「全てのムー人は、太陽の如き愛と慈悲に生きねばならない」 愛と慈悲の本質とは、他の人間の心をいかに光明に満たしたかということである。

③「全てのムー人は、向上を人生の目標としなければならない」 向上とは、学芸、武道にだけ適用されるのではなく、いかしにして「霊性」を高めたかということがポイントとなる。  

 この三点がラ・ムーの教えの中心であり、それはまさしく本格的宗教の始まりを告げるものであり、政治と宗教の一体でもあったのです。ラ・ムーは毎夜、神殿に膝まずき天上界の高級諸霊と対話しておりました。これはまさしく政治の原点でもありました。何故なら、政治とは国民を治める技術であり、為政者の誤りは国民すべての生死を左右し、国民すべての魂の下落を意味するからです。人間心でそうした判断をするということは、見方を変えれば大変傲慢であり、非常に増上慢であると言えるのです。そして、ラ・ムーは、繁栄のなかにあって「真実なる心」を取り戻すため、物質的波動を断ち切り自らの心の迷いを排除するために、「反省」が大事であると教えたのです。  

 そのラ・ムーが教えた「ラ・ムーの三正道」として、三つの正しい道を示しました。

①「愛の反省」 人間は、人を愛して生きるべき存在である。愛を与えたかどうか日々必ず振り返れ。

②「今日一日、神あるいは守護指導霊と心を通わすことができたかどうか、これを振り返れ」 

 直接的にであれ、間接的にであれ、守護霊の声が聞こえない状況は、自らの心の曇りがもたらしているのである。であるなら、自分の心の針が天上界に通わないのであれば、その原因行為は、一日のうちの自分がつくった想念と行いにあるはずである。それを反省せよ。

③「汝、今日いったい何を学びしか。これを反省せよ」 日を無駄にしていないか。人生は僅か数十年である。今の環境下、この地上に生まれてくるということは並大抵のことではない。さすれば、この一生を無駄に使うな。この一年を無駄に使うな。この一日を無駄に使うな。全てを学びの材料とせよ。学ばずして一日を終わるな。そして、この地に神の国を打ち建てようではないか。そう教えたのでした。  

 このラ・ムーの教えは『太陽の法』と呼ばれ、この教えによってムー文明は最盛期を迎えたのでした。しかし、偉大なラ・ムーが没し、偉大なる「太陽の法」が形骸化し、ムーの全盛にも翳りが出てきました。悟りの力を否定する怪しげな動物霊信仰の邪教が流行り始めたのです。悪しき霊能力信仰が「愛と慈悲」の教えを否定し、ムー大陸全体に大きな想念の曇りが覆いました。そして、ラ・ムーが教えを説いてから約1700年後、今からおよそ1万5300年前、三段階にわたる大陸の沈下によって太平洋に没したのでした。  

 しかし、一部のムー人たちは、舟で北上し、ベトナム人、中国人、日本人などの源流となったのです。また、太平洋を東へ渡った人々は南米アンデスに住み着き、更には大西洋へと逃れ、アトランティス大陸へと新天地を求めて行きました。これが、ムー大陸の真相です。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『幸福の原理』の中で以下のように説かれました。

「今から1万5千年あまりの昔です。現在の日本を真南に下ったところにジャカルタという島がありますが、このジャカルタという島は、実は今から1万5千年ほど昔に大きな大陸があった、その中心点であったのです。この大陸のことを「ムー大陸」と言います。そして、この大陸に栄えていた国のことを「ムー帝国」と言います。今から1万5千数百年前でしょうか、この大きな大陸が没していったわけであります。それは本書以外においても、神智学のような書物など、さまざまな文献を通して、そうした大陸があったということを、お聞きになった方がいらっしゃるはずです。この大陸に今から1万6千数百年前にラ・ムーという偉大な帝王が生まれました。その後、このラ・ムーの生命体は、今から1万2千数百年前、アトランティス帝国に生まれ変わりました。現在の大西洋、ヨーロッパと北米を結ぶ中間点にバミューダ海域というところがありますが、ここに、その当時偉大な帝国がありました。アトランティスというところはひじょうに科学文明の発達した国でありました。ある意味では、このアトランティス帝国の科学技術というのは現代の文明水準をも超えている部分があったのです。遅れている部分もありますが、超えている部分もあったのです。この当時、すでに飛行船が発明され空を飛んでおりました。『太陽の法』のなかにもサラッと書いてありますけれども、この飛行船は、長さが20メートルから30メートルぐらいの鯨型のものでありましたけれども、この飛行船の上に背ビレのように小型ピラミッドをつけていて、太陽エネルギーを変換して、それを動力として使い、後尾にプロペラを付けて、これをまわして飛んでいたのであります。」

 総裁は、著書『太陽の法』の中で以下のように説かれました。

「ムーは、太平洋上に浮かぶ大陸でした。その出現自体は、ラムディア大陸よりも古く、いまから三十七万年前ごろ、海上に姿をあらわしました。それ以後、大陸の形は、さまぎまにかわりましたが、ラムディアの末期ごろには、現在のインドネシアあたりを中心にして、オーストラリアの二倍ぐらいの面積をもつ大陸でした。ラムディアの人々は、大きな帆船の大軍団を組み、いまから二万八千年ぐらい前から、ムー大陸の諸都市を植民地化しはじめました。植民都市ではあったとはいうものの、ムー大陸にも、ラムディアの文化は浸透してきておりました。そして、ラムディア文明が滅失したあと、静かにではありましたが、ムー大陸にも、文明のきざしが見えてきました。  いまから約二万年のむかし、このムーの地に、ゾロアスターの前身が出ました。この方のそのときの名を、エスカレントといいます。この大聖エスカレントは、太陽の科学的なエネルギーを重視しました。都市の中心には、一辺の長さが三十メートルの正三角でできたピラミッドがあり、それが銀色に輝いています。ここで吸収、増幅された太陽エネルギーが、各町の中心にある山辺の長さ十メートルのピラミッドに放射され、そこからさらに各家庭の屋上にある一辺の長さ十メートルの小ピラミッドに供給されていたのです。このピラミッド・パワーは、のちのアトランティスにもひきつがれます。この太陽エネルギーの巨大増幅装置は、現在ピラミッド・パワーなどといわれているしくみにとてもよく似ています。ムー大陸が、その最盛期を迎えるのは、ラ・ムーの時代でした。すなわち、いまからおよそ一万七千年近く前のことです。そのころ、ムーは、太陽信仰と太陽科学万能の時代を迎えておりました。この時期に、ラ・ムーが、肉体をもって生まれたのです。ラ・ムーとは、何代か前の釈迦の過去世です。また、ラ・ムーとは、「ムーの光大王」という意味をもっています。ラ・ムーの時代に、ムー大陸は、巨大な大帝国となったのです。 しかし、やがてラ・ムーが没し、その偉大なる教えが形骸化してくると、ムーの全盛にもかげりが出てきました。しかも、悟りの力を否定し、あやしげな動物霊信仰の邪教がはびこりはじめました。悪しき霊能力信仰が、「愛と慈悲」の教えを嘲笑し、大陸全体に大きな想念のくもりがかかってきたのです。こうして、このムー大陸は、いまからおよそ一万五千三百年前、三段階にわたる大陸の沈下によって、海中に没しました。ラ・ムーの名前からとった巨大な近代都市ラムーも、この大陸の沈下によって、当然のことながら、太平洋中に沈没してしまいます。しかし、ムー人たちの一部は、なんとか逃げることができました。そのなかのある人々は、船で北上して、ベトナム人、日本人、中国人の源流になりました。また、ある人々は、東へと進み、太平洋をわたって、南米アンデスの山に住みつきました。さらには、大西洋へと逃れ、大西洋上のアトランティス大陸へと、新天地を求めて行った人々もおります。」

 

ジェームズ・チャーチワードが伝えるムー大陸伝説

 ジェームズ・チャーチワードが伝えるムー大陸伝説を要約すると、次のようになる。

 太平洋の真ん中にあったムー大陸で初めて人類が誕生した。そのため、クイの国とも呼ばれた。蓮の花が咲き乱れ、美しい蝶々や蜂雀が乱舞し、陽光燦々と照り輝くエデンの園そのものであった。白人種が中心であるとはいえ、黄色、褐色、黒色の人種が、子どものように安心してくらしていた。人口は6400万、十の種族にわかれていたが、天地創造主神(象徴として太陽神)に仕える最高の神官、法王のラ・ムーを中心に一つの政府で統轄されていた。学問文化の中心であった七つの聖都を中心に高度な文明を発達させ、宗教はただ一つの天地創造神をあがめ尊び、町々の神殿では明るい陽光の中、祈願する人々の姿がいつもみられた。7万年前ごろより「母なる国」ムーの人口が増えてゆくにしたがい、東へ西へと全世界へ植民活動をはじめた。この植民達はマヤと呼ばれた。植民地帝国の王は、ムー帝国から選ばれ、ムー太陽帝国の流れをくむものということで、「太陽神の子」の称号をもちいた。エジプトのファラオ(王)、インカ帝国のインカ(皇帝)は「太陽神の子」の意味を持つが、日本もまた日の神の直系の子孫、天皇を戴き、ムー帝国の伝統を最も強く現在に伝えている。 これらの植民地は全部で十七あった。

 古代ウイグル帝国は最大のものであり、中央アジアのカラコルム付近に首都を置き、東アジアから東ヨーロッパに至る地域を支配していたが、大洪水で東半分を失い、西半分は造山活動で崩壊した。この帝国の民の生き残りが自ら「高貴なるもの」と称するアーリア人(インド=ヨーロッパ語族)である。  ナガ帝国はビルマからインドを中心 にインドシナ半島一帯に亘る大帝国であったが、これもまた大洪水で失われてしまった。この国の民であるナガ・マヤ人たちは、七頭の蛇(ナラヤナ)をシンボルとして用いていた。これら西方へ向かった植民団の国に対して、東方へ向かった大帝国として、造山活動で崩壊してしまった古代マヤ帝国(アンデス)や、ムー帝国とともに大洋に沈んでしまったアトランティス帝国がある。東方植民団の人々(カラ・マヤ)たちは、創造主のシンボルとして鳥をもちいていた。ムー帝国とこれらの植民地帝国が、火山の噴火、大洪水、大地震で地上から消え失せた後、失われた文明の記憶を頼りに建設されたのが、世界の四大文明と古代アメリカ文明の発祥であり、あらゆる諸文明である。植民団が派遣されたのと同時に、「母なる国」ムーの宗教と学問も専門の教育を受けた「ナーカル」の伝えた聖典「聖なる霊感の書」は、宗教観、宇宙観、霊的なもの、科学の渾然一体化したものであり、教養であり、至上命令であった。全世界にいきわたったこの教えも、ムー帝国とその他の植民地帝国の崩壊をもたらした大天変地異で失われてしまったが、その断片は変形されながら、世界の古典の中に多く残されて、世界の各民族の民話。神話の中に共通点が多いのはこのためである。人類最初のこの教えは、自分たちをつくりたもうた創造主神(象徴として太陽神)を「天なる父」として、人種・民族の差別なく等しく崇拝し敬慕することにあった。 創造神は混沌の中から世界の創造を計画し、「四大源動力」によって宇宙に法則と秩序をつくり、七つの命令を下して、天地万物を創造した。その第七の命令が人類創造であり、神の姿に似せて、地を支配さるためにつくられた。

 最初の人類は、男女一体であったが、男と女に分けられ、子孫が増えて行くことなった。つまり、「一」が「二」となり「三」として万華したのである。また、人類は千年の寿命をもち、再生転生すべく定められていた。全世界の言葉も文字もムー帝国から伝えられ元一つであった。 ムー帝国では16弁の蓮の花。スワスチカ(卍)、カゴメのマークなどがシンボルとして重視されていた。言霊も数霊も非常に重視されていて、それぞれ宗教的な意味が込められていた。特に三(ムーは三つの島からなっていた)四(四大源力と創造主)、七(創造主の七つの命令)、十(創造主そのものの表象)、十二(十二の修めるべき徳目)、八・十六(万華の数)は重視されていた。

 ジェームズ・チャーチワード(James Churchward、1852年~1936年)は、アメリカ合衆国在住のイギリス人でムー大陸についての「失われたムー大陸」(1931年)を初めとする一連の著作を書いた作家である。その著作の中で、さまざまな証拠とされているものを挙げているが、主なものは、インドの古寺院で老僧より見せてもらったとされているナーカル文書と、メキシコ市郊外で鉱物学者ウイリアム=ニーベン氏が発掘した石版碑文2600余点である。 ナーカル文書の存在は確認されていないが、ニーベン氏の石版の方は存在が確認されている。チャーチワードの墓には、ムー帝国の紋章が刻まれているとのことである。太平洋に巨大な大陸があったということは、現在の地質学者からは否定的な意見をだされているが、インダス文明の印象文字とイースター島の謎の文字ロンゴロンゴ及び中国の甲骨文字の三者の偶然ではありえない類似性や、インド・エジプトや古代ユダヤのソロモン王の神殿でも蓮が神聖な花とされていることなど、どこかに四大文明や古代アメリカ文明の母なる国があったのではないか思わざるを得ない。

 チャーチワードのいうムー大陸はイースター島やハワイ諸島を含む大陸であった。

 与那国島の海底遺跡も、位置的にみて、ムー文明の残存でしょうか。海底遺跡を否定している人もいるようですが、これほどの規模の物が自然に生じることはない。

 心の目を開いてみれば、多くの日本人もこのムー大陸に転生していた記憶を思い出すことができると思います。

 今、混迷する世界を救済するために、新たなる『太陽の法』が日本に説かれています。

 『太陽の法』を多くの人が悟り、そしてその教えの光を拡げていくことで、今まさに闇に沈もうとしている世界を救うことができるのです。

 ムー大陸から伝承された技術で、共鳴作用をもちいた巨石の加工というのが行われていました  当時の日本列島は、非常に不安定で、地震や火山の噴火が頻発していましたので、列島の大地に流れるエネルギーのライン上にポイントをとって、ツボを押すように、あるいは鋲を打って固定するように、ある規則性を持って巨石を配していったのです。

 現在は、日本の古代にあった巨石文明について研究されることもなく、打ち捨てられておりますが、全国的に調べていくと、ある規則性を持って巨石が配置されていた。それは、古代において日本列島全体を俯瞰して把握し、全国的に活動していた文明があったことを意味します。

 真に調査すれば、現在は山や森としか見られない自然物とされているものも、古代において意図的に作られた人工の盛り土やピラミッドであることがわかる。  大地を流れるエネルギーのスポット(大地のツボ)に配置されたのは、災害封じだけではなく、別な役割もあります。

 大地の気の流れをコントロールし、その土地で取れる作物の収穫を増やすこともできたのです。  現在でも、イヤシロチケガレチという言葉がありますが、そうした大地の気流を動かして豊作をなすことが出来ました。現在では失われた技術としてそうした知識を持っていました。

 さらに、超古代の文明として見えてくるものに、地下都市の姿が見えます。地下を掘り起こして、地底に都市を築いていた地域が全国に何箇所かあったようです。これは、上空からの偵察や攻撃を避けるために作られたとか。古代において敵対する者からの空からの攻撃が想定されたと言うこと。当時は、他の地域でもそうした超文明の栄える地域があったものと言えます。

 日本でも、奄美・沖縄の島だけではなく、九州や四国、本州の一部にも、ムーから流れ着いた集団がいたようです。日本列島に流れ着いた者達は友好的な関係にあった。その後栄えた日本の超古代文明は、陸地の海没と、火山の噴火によってほぼ消滅していきました。僅かに残った知識によって日本に生まれてきたのが、縄文時代と呼ばれる文明なのです。

 

青く漂う巨大な神殿  

 日本最西端の沖縄与那国島お木の海底に、ピラミッドのような巨大な石の「遺跡」がある。古代の人類が巨石を使って築いた高度な文明の遺跡と唱えられている。「ムー大陸」の一部との説も呼び起こすミステリアスな海底です。

 自然が生んだ複雑な地形に過ぎないと主張する人もいるが、その主張には無理がある。

 この巨大な神殿は1985年に発見されました。詳しく調査したのは、地質学を専門とする琉球大学理学部の木村政昭教授で、1997年3月に海底調査団を結成。スキューバダイビングで繰り返し潜り、写真を撮ったり大きさを測ったりした。その結果、東西400メートル、南北300メートルの範囲にピラミッド状構造物4つを含む5つの岩の構造物があることが分かった。最も大きい岩盤は高さ26メートル、長さ290メートル、幅120メートル。ピラミッド状で、平らなテラス廊下、城門や城壁に見える部分を備えていた。ここから、「×」と刻まれた石器や、牛をかたどったようなレリーフ像もみつかった。さらに、500メートル離れた地点では、直径80メートルほどの平らな海底に観客席のような岩に囲まれた「スタジアム」も見つかったという。

 木村教授は、①岩の切断面が人手によるクサビ状の穴がある。②長さ100メートルの城壁のような「石垣」は一般的な組石工法で造られたとみられる。③周囲に道路や排水口のような部分がある、などの理由で、人工的な建造物だと結論づけた。侵食などの自然現象でできたとはどうしても考えられないとの見解です。

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