先の大戦は悪魔の指導ではない

 急速に勢力を拡張している者同士は、必ずぶつかるものです。アメリカとソ連の冷戦もそうであった。一位と二位はナンバーワンを巡って激突するものであって、それが覇権戦争である。歴史の大きな流れから公平に見ると、太平洋戦争は日米の覇権戦争であったのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『奇跡の法』で次のように説かれました。

「先の戦争を考えるにあたっては、「明治以降の日本の歴史は暗黒史であり、犯罪と侵略の歴史であったのかどうか」という問題が関係すると思います。そこで、開国から第二次世界大戦までの日本の歩みを簡単に振り返ってみましょう。1853年、ペリーが四隻の黒船を率いて浦賀沖に現れ、日本に開国を迫りました。日本では「ペリーは貿易などを要求した」とよく言われていますが、ペリーは日本が開国しなければ戦争をする覚悟で来ていたようで、宣戦布告文のようなものを日本に渡したそうです。ペリーに大砲で脅されて開国した日本は、諸外国と不平等条約を結ぶはめになりました。その不平等条約を、平等なもの、互恵的なものに変えるために、明治以降の日本人は努力してきたのです。当時、清国(中国)はアヘン戦争(1840~1842)等に敗れ、ヨーロッパ列強の植民地と化しつつありました。アヘン戦争に負けた清国がイギリスに割譲した香港は、1997年に中国へ返還されるまで、150年以上もイギリスに支配されたのです。明治の日本人は「このままだと日本も占領されるだろう」と非常に焦り、富国強兵・殖産興業に励みました。その努力自体は、どう見ても、間違ったものであるとは思えません。よく努力したのではないかと思います。清国がヨーロッパ列強にかなり侵略されたあと、日本と清国とのあいだで日清戦争(1894~1895)が起きます。この戦争に日本が勝ったため、日本と欧米の不平等条約の改正は一気に促進されました。明治維新以来の悲願である、日本の地位の向上がなされていったのです。日清戦争に勝った日本は、清国から割譲された台湾を植民地化しましたが、このあたりに、のちの悲劇の種があったと思います。日清戦争後の1898年、アメリカはハワイを併合し、また、スペインとの米西戦争に勝って、フィリピンやグアム島などを植民地にしました。  実は、アメリカによるフィリピンの植民地化が、のちの日米の戦争を必然化するものだったと私は推定しています。台湾とフィリピンとのあいだは、当時、蒸気船だと一日で行ける距離でした。そのため、アメリカはフィリピンの権益を日本に奪われる恐れを感じ、日本を仮想敵国として認識しはじめたのです。さらに、アメリカは植民地政策においてヨーロッパにかなり後れをとっていたため、中国に関する権益をねらっていました。その意味でも、日本がどんどん拡張していくことに対して非常に警戒感を持っていたのです。先の日米の戦争について、右翼系の学者は「日本の完全な自衛戦争だった」と言っていますが、そう言いきれるかどうかは少し疑問です。歴史の大きな流れから見ると、「日米の覇権戦争だった」というのが公平な見方ではないかと思います。」(『奇跡の法』72~75ページ)

 日露戦争における日本の勝利は、客観的にみても、欧米列強による植民地化の流れにおいて大きなターニングポイントとなる歴史的事件でした。

「日本は日清戦争に勝って、清国から台湾や遼東半島などを割譲されましたが、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉によって、遼東半島を清国に返還させられました。ロシアは、不凍港を持つことが昔からの夢であり、歴史的に南下政策をとっていたため、日本が得た遼東半島を、フランスやドイツと組んで強引に返還させたのです。日本は明治以降、「諸外国と対等の立場に立ちたい」という国民的願いの下に努力してきていたのですが、三国干渉によって屈辱を味わい、「次はロシアとぶつかるだろう」という想定の下に準備を進めました。そして、日清戦争の十年後、日露戦争(1904~1905)が始まったのです。当時、ロシアは日本の十倍の国力と軍事力を持っていました。そういう国と戦えば普通は負けるでしょうから、「日本に勝ち目がある」と思っている人はほとんどいませんでした。それが世界の一般的な見方であり、日本人自身も、「たぶん負けるだろう」と思っていたのです。そのときに、やや神がかり的ですが、坂本龍馬の霊が明治天皇の皇后の夢枕に立ち、「この戦いには勝てます。心配は要りません」と告げたことが記録に遺っています。この点について、私が龍馬の霊に訊いてみたところ、確かに言ったと彼は述べていました。そのようなことを龍馬の霊が告げに来なければならないほど、日本の国民は、「日本はもう終わりなのではないか」という終末論に支配されていたようです。ところが、日本はロシアの拠点である旅順を落とし、東郷平八郎や名参謀・秋山真之などの努力によってバルチック艦隊を破り、奇跡的な逆転劇でロシアに勝ちました。ただ、実際には日本の国力はすでに底をついており、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが仲裁に入ってくれて判定勝ちをしたようなものだったので、日本にそれほど勝利感はありませんでした。しかし、これが一つのきっかけになり、欧米列強の植民地政策そのものがぐらつきはじめたのです。そのころのロシアの騎兵は、ドイツもフランスもかなわないぐらい、非常に強いものでした。そのロシアに日本が勝ったため、「黄色い日本人が白人に勝った」ということで、いわゆる有色人種、黒人や黄色い人たちはびっくりしました。なぜなら、当時は、「白人は優秀な人種である」という白人優位説が強く、「有色人種が白人に支配されるのは、しかたのないことだ」というような思想や、それを根拠にした植民地主義、帝国主義が世界中を覆っていたからです。したがって、「日露戦争での日本の勝利が欧米列強の植民地政策をぐらつかせた」という考え方自体は、決して右翼的なものではありません。世界史的に見ても、「日露戦争は、欧米列強による植民地化の流れにおいて、大きなターニングポイントとなる歴史的事件だった」と言ってよいのです。」(『奇跡の法』76~79ページ)

 日露戦争当時の朝鮮半島は、実質的には清国の保護下にあったが、清国自体が欧米列強に食い荒らされる状況でしたから、朝鮮半島も政治的に不安定であった。日露戦争で日本が負けていたら、朝鮮半島はロシアの植民地になり、現在に至るまで朝鮮半島全体がいまの北朝鮮と同じような状態で、韓国の繁栄はなかったと推定できる。

 ところが、日本が日露戦争に勝ったため、朝鮮半島は日本の支配下に置かれることになり、さらに、日本の初代内閣総理大臣だった伊藤博文が韓国人青年に暗殺されたことで、韓国は日本に併合されることになった。日露戦争における日本の勝利が韓国併合へとつながっていったのです。

「日露戦争で勝ったことは、朝鮮半島への日本の影響力を増大させました。当時の朝鮮半島は、独立国の体裁を備えてはいても、実質的には清国の保護国でした。国として完全に独立しているという状態ではなく、保護領のようなかたちで清国の保護下にあったのです。ところが、保護するはずの清国自体が、19世紀末から欧米列強に食い荒らされているようなガタガタの状況で、政治的には非常に不安定でしたから、朝鮮半島も政治的に確固としたものではありませんでした。しっかりとした国家が朝鮮半島にあったならば、ロシアへの歯止めになったのですが、そうではなかったのです。したがって、日露戦争で日本がロシアに負けていたならば、その後の歴史はどのように展開したかを推定してみると、朝鮮半島はロシアの植民地になっていたと思います。これは99パーセント確実です。そして、日本はロシアの属国になっていたでしょう。その結果、第二次大戦に相当するものはやはり起きたと思いますが、それはおそらく、朝鮮半島のロシア勢力をアメリカが駆逐できるかどうかという、ロシア勢力対アメリカの戦争であり、日本が戦場となったでしょう。ところが、日本が日露戦争に勝ったため、朝鮮半島はロシアの植民地とはならず、日本の支配下に置かれることになったのです。日本の植民地政策は、朝鮮の人たちには非常に評判が悪いのですが、日露戦争でロシアが勝っていたならば、現在に至るまで、朝鮮半島全体が、いまの北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と同じような状態だっただろうと推定できます。おそらく、第二次大戦後の韓国(大韓民国)の繁栄はなかったと思います。日本が朝鮮半島を支配した結果、第二次大戦後、朝鮮半島が半分だけでも資本主義化したことは、結果論ではありますが、少しは痛みを軽減した面もあるのではないかと考えられます。

 日露戦争に勝った1905年以降、日本は朝鮮半島に対する実質的な支配を強めていきましたが、1909年に保つ名な事件が起きます。日本の初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文が、安重根という韓国人青年にハルビン駅頭で射殺されたのです。安重根は韓国では英雄として扱われており、切手にもなっていると聞いています。調べた範囲では、非常に誠実で立派な人だったようです。ただ、伊藤博文は近代日本の最初の内閣総理大臣であり、日本が内閣や国会をつくったときの建国の父に当たる人です。彼は天上界の菩薩界に還っており、私も何度か話をしたことがありますが、立派な人です。その彼を暗殺することで、祖国が独立できるとほんとうに思っていたのかどうか、疑問があります。安重根が伊藤博文を暗殺した翌年、韓国は日本に併合されました。当時の両国の力関係からいえば、そうなることは推定できたのではないかと思います。」(『奇跡の法』79~84ページ)

 朝鮮半島や中国の人たちは、日本に対して戦後もあまりよい感情を持っていない。その背景には、戦後の彼らの国の独立が自力で日本に勝ってなされたものではないことがある。

 さらに、敗戦時日本は経済レベルが中国や韓国とそう変わらなかったのに、今日まで差をつけられてしまい、悪いことをした国が繁栄したのは許せないと思っている。

 中国と韓国の人々のあいだには、日本に対してすっきりしない感情が二重に存在しているのです。

「日本は朝鮮に学校やダムなどをつくり、かなりの設備投資をして頑張ったのですが、朝鮮での植民地政策は、結果的にはうまくいきませんでした。それは、台湾と違って朝鮮が一つの国家意識を持っていたからでもありますが、朝鮮の人たちが反発したいちばんの原因は、日本の国家神道にあったと思います。日本は植民地支配の道具として国家神道を使いました。神社をつくり、それに対する信仰を強制し、皇居のほうに向かってお辞儀をさせたりしました。また、創氏改名といって、日本名を名乗らせたりしました。そのため、朝鮮では非常に強い反日運動が起こり、なかなか収まりませんでした。そして、戦後の流れを見ても、朝鮮半島や中国の人たちは日本に対してあまりよい感情を持っておらず、そういうことを一貫して述べています。その背景にあるのは、戦後、彼らの国は独立したけれども、その独立は自力で日本に勝ってなされたものではないということです。そのため、何とも言えないやるせなさが残っているのだと思います。独立軍が日本軍と戦って勝ち、朝鮮半島から日本をたたき出して独立したのであれば、非常にすっきりするのですが、そうではなく、第二次大戦で日本が連合国側に降伏したあと、何年かたって独立できたのです。中国も同様です。日本軍に勝って独立したわけではありません。彼らにとって、それが何とも言えない悔しさとなって残り、解決されないでいるのです。さらに、日本は敗戦時にはガタガタで、経済的に中国や韓国とそう変わらないレベルだったのですが、戦後50年たってみると、その日本に、中国や韓国は非常に差をつけられてしまいました。最近の中国は経済が非常に発展してきたと言われてはいますが、それでも、一人当たりのGDPでいえば、日本の七十分の一ぐらいです。ごく最近の数字はつかんでいませんが、十億以上の民がいて、あれだけ広大な国土がありながら、中国のトータルのGDPは、おそらく東京都と同じぐらいだと思います。また、韓国のGDPは神奈川県ぐらいと推定してよいでしょう。彼らにしてみれば、「あれほど悪魔のようなことをしてきた日本なのに、戦後、繁栄した。悪いことをした国が没落するのならよいが、逆に繁栄したのは許せない」ということなのです。このように、中国と韓国の人々のあいだには、日本に対して非常にすっきりしない感情が二重に存在しているのです。」(『奇跡の法』84~87ページ)

 先の戦争のうち、太平洋関連の戦争については日米の覇権戦争だったが、中国関連については侵略的な面があったと認めざるをえないのでしょうか。

「日本には、中国や朝鮮半島の人たちに対して謝罪的感情を持っている国民も多くいます。また、「あの戦争では、日本人だけでも三百万人が亡くなり、アジア全域では二千万人近い人が死んでいる。日本はとうてい許されるものではない」という考えに同調して、関係諸国に謝り、日本人に罪悪感を植えつけている勢力もあります。これが全部、間違っているかといえば、そうとは思えない面もあります。確かにそうだという面もあるのです。 のへんの国家観、歴史観のところがどのように清算されるかによって、日本の国としての道筋はおそらく変わってくるでしょう。先の戦争のうち、中国関連のものについては、侵略的な面があったと認めざるをえないのではないかと私は思います。中国の内陸へ侵攻したあたりには、侵略的な面がかなりあると思います。それから、太平洋関連の戦争については、これを日本の自衛戦と言いきることには少し問題があります。前述したように、これが日米の覇権戦争だったことは間違いありません。同盟でもしないかぎり、日米がぶつかるのはほぼ確実だったと言ってよいでしょう。アメリカという国は、建国以来、ずっと領土を広げてきたという歴史を持っています。東海岸から西部へ向かい、西海岸まで来てフロンティア(辺境)がなくなると、太平洋へと進出してきました。地球をぐるりと回って、アジアまでやってきたのです。一方、明治以降に勃興した日本は、アジアに勢力を広げて、太平洋の覇者たらんとしていました。アメリカと日本は、ぶつかるべくしてぶつかったのであり、その結果、強い者が勝って弱い者が負けたと言えるでしょう。」(『奇跡の法』87~89ページ)

 日本の民族神は、戦争に反対していなかった。日本が21世紀以降に繁栄して世界をリードしていく国家になっていくためには、この日本神道が背負っている負の遺産と戦い、信仰をこの国に根付かせなくてはならない。

「霊的な眼で観て、「先の戦争は悪魔が指導していたのかどうか」という点をチェックする必要があると思います。これが分かるのは、いま地上では私しかいません。霊的な眼で観るかぎり、日本神道の神々の七、八割ぐらいは、先の戦争に賛成していました。地上の軍人の独走ではなかったのです。当時の日本は、「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」など、さまざまなことを言っていましたが、その思想自体は日本の民族神からストレートに出ていたものであり、地上にいる人たちはそれを受け取っていたのです。これは間違いありません。いま日本全国に、社(やしろ)、神社が、八、九万ぐらい建っています。明治時代には十数万ありました。日本神道の神々とは、そこで祀られている神々のことです。これが、「八百万(やおろず)の神々」といわれる日本の民族神です。日本神道の神々のうち、二、三割ぐらいは戦争に反対していましたが、反対といっても消極的で、「負けるのではないか」という程度の意見だったため、主戦論に押しきられてしまいました。したがって、日本神道の神々にも、当然、先の戦争に関する責任があるのです。その結果、日本が満州や朝鮮などに建てた神社等は、第二次大戦後、焼き払われてしまいました。指導している国が戦争で負けた場合、当然、その国の神々は責任を問われ、格が落ちます。なぜなら、人々の信仰心が薄れるからです。ただ、日本の神々は、明治維新で神道にもとづいた王政復古に成功し、日清戦争と日露戦争に勝ち、第一次世界大戦にも勝っているので、四つほど勝ち点があります。まだ一回負けただけなので、その勝ち点が全部消えてしまったわけではありません。あと一、二回負けると、人々の信仰心がゼロになり、勝ち点が完全に消えてしまうと思いますが、まだ四勝一敗なので、ゼロにはなっていないのです。そのかわり、当然ながら、日本人の心には非常に深い傷が残りました。これが、戦後の日本人に意識調査をして、「あなたは信仰を持っていますか」「あなたの宗教は何ですか」という質問をすると、「無宗教です」という答えが数多く返ってくる理由です。この無宗教論と戦わなければいけません。これは日本の国家神道が背負っている負の遺産なのです。」(『奇跡の法』90~92ページ)

 戦前の日本は、天皇を戴いた神道国家ではあったが、ドイツやイタリアのファシズムとは違う。

 第二次世界大戦では、チャーチルとスターリンが手を組んで、イギリスもソ連もアメリカも、「ファシズム国家」(枢軸国)に対する「民主主義国家」(連合国)だと称して、連合国側が勝利を収めたわけです。そして、その結果として生き残ったスターリンのソ連を中心とする東側と、アメリカを中心とする西側による東西冷戦が始まり、1991年にソ連が崩壊するまで続くことになった。

 なによりも、ヒトラーはゲルマンの森に巣くっている黒魔術系統の霊に そうとう支配されていた。

「欧米の歴史観のなかには、第二次世界大戦を「民主主義対ファシズムの戦い」と二元的に分ける見方がありますが、その見方は間違っています。その見方からいえば、ドイツやイタリア、日本はファシズムの国ということになり、指導者たちは地獄に堕ちなければいけないはずです。しかし、ドイツのヒトラーはいま地獄に堕ちていますが、日本の昭和天皇は、天国、高天原(たかまがはら)に還っています。これは両者に違いがあったことを示しています。ヒトラーは、黒魔術系統の霊にそうとう支配されていました。キリスト教系にも、日本でいう仙人・天狗系統のようなものがあり、そのなかで、魔術系に白魔術と黒魔術があります。自魔術は、やや明るいというか、ややよいほうです。一方、黒魔術は悪さをするほうです。黒魔術の系統はゲルマンの森にかなり巣くっていて、ヒトラーは生前、この黒魔術霊界からそうとう影響を受けていたのです。そのヒトラーのドイツと、なぜか日本やイタリアが同盟を結んだわけです。大戦の初期には、ドイツがあまりにも強かったため、イギリスのチャーチル首相は、「祖国滅亡の危機だ。フランスもやられたし、わが国も滅びそうだ」と考え、ソ連のスターリンと手を組みました。チャーチルは、「国を守るためであれば、悪魔とでも手を結ぶ」というようなことを言ったそうですから、スターリンのことを見抜いていたと言えます。彼は、「悪魔(ヒトラー)と悪魔(スターリン)を戦わせたほうがよいのではないか」と考えたようです。チャーチルの直観どおり、スターリンはいま、あの世で現実に悪魔になっています。スターリンは生前、ソ連において、六千万人とも七千万人ともいわれる人々を粛清しました。こういう人物と、チャーチルは同盟を結んだのです。チャーチルから見れば、ヒトラーとスターリンはほとんど同質、同類型の人物だったのですが、イギリスを守るためにスターリンと手を結んだわけです。その結果、ヒトラーは滅び、スターリンは生き残りました。そして、戦後、東西両陣営による冷戦が始まり、東欧は長いあいだ非常な苦しみを味わうことになったのです。」(『奇跡の法』108~110ページ)

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