明治維新はなぜ起きたのか? 思想的源流を探る

 明治維新は誰が起こしたのか? そう問われて一人だけ名前を挙げるのは難しい。あえて言うなら吉田松陰でしょう。松陰を境に、その前を思想家の時代、その後を行動家の時代に分けることができるからです。松陰が登場する前は、欧米列強によるアジアの侵略に警鐘を鳴らす思想家や学者が無数に出た。吉田松陰もその一人である。

 しかし、松陰は、学問を修めて警鐘を鳴らすにとどまらず、その思想を行動に転化した。諸国を歩き、人々に決起を促した。促すだけでなく、自ら黒船に乗り込んで、国を動かし、時代を変えようとした。その結果、海外渡航の企てにより罪を問われ、やがて処刑されることになる。しかし、その熱血火の如き情熱が人々を動かしていったのです。松下村塾の塾生だった高杉晋作や久坂玄瑞、山県有朋、伊藤博文といった錚々たる維新の志士たちはその象徴である。彼ら吉田松陰の弟子たちは、まるで松陰の魂が乗り移ったかのように、凄まじいまでの情熱と行動力を発揮する。そして、藩を動かし、薩摩や土佐の志士にも影響を与え、やがて倒幕のエネルギーとして全国の志士たちを集結させ、明治維新を起こしていったのです。

 

天才・佐久間象山が吉田松陰を動かした?

 この吉田松陰に大きな影響を与えたのが佐久間象山である。吉田松陰や勝海舟らを弟子とした幕末の思想的巨人である。元々は佐藤一斎の下で朱子学を学んだが、洋学を学んでからは開国して海防強化を図ることを訴えた。

 発明家としても知られ、大砲の鋳造、ガラスの製造、日本初の電信実験などもしており、文系・理系の枠を超えた天才であった。松陰が海外渡航を企てた時には、「吉田松陰を唆した」罪で捕まっている。

 この佐久間・吉田の師弟コンビが明治維新の起爆剤となった。霊的に見ると、二人のコンビの果たした仕事はもっと大きい。

 幸福の科学大川隆法総裁は、1980年代から、あの世の霊存在の言葉を語り下ろす「霊言」の収録を積み重ねている。この中に、佐久間象山と吉田松陰も入っている(『佐久間象山 弱腰日本に檄を飛ばす』『一喝! 吉田松陰の霊言』)。これらの霊査では、二人は中世ヨーロッパに生まれたことが判明している。

 

佐久間・吉田のコンビには世界史を変える力がある

 佐久間象山は、14世紀のイギリスにジョン・ウィクリフという聖職者として生まれ、ルターに先駆けて宗教改革を起こしている。ラテン語の聖書をはじめて英語に訳したことでも有名である。当時、ローマ・カトリックを激しく批判したことで、死後、異端認定を受けて迫害された。

 一方、吉田松陰は、ウィクリフに50年ほど遅れてボヘミア(現在のチェコ)に ヤン・フス として生まれ、ウィクリフの宗教改革を引き継いだ。しかし、異端とされ火あぶりになっている。

 この二人の宗教改革運動が、後のルターの宗教改革につながっていく。世界史上の一大事件と言える宗教改革は、二人のコンビが源流になったと言えるのです。

明治維新も世界史上特筆すべき革命であったことを考えると、二人が揃うと世界を変える力があることがわかる。

 

明治維新の絵を描いたのは 鬼才・横井小楠

 維新の原動力となった人物で言えば、もう一人外せないのが横井小楠です。

 勝海舟が「天下で恐ろしいものを二人見た」と、西郷隆盛とともに挙げたことで有名です。川路聖謨や藤田東湖、松平春嶽、橋本佐内、勝海舟、坂本龍馬、岩倉具視らに影響を与えたことでも知られる。『国是三論』で説かれた富国強兵論は、日本が目指すべき近代国家の理念をいち早く訴えたものである。

 この横井小楠の霊言が、『横井小楠 日本と世界の「正義」を語る』という書籍にまとめられた。その内容を見ると、他の偉人たちの霊言と比べてもひときわ認識力が高いことがわかる。霊言では、次のような驚くべき指摘をしている。

 明治維新が単なる下級武士たちの革命になれば、日本がフランス革命型の皆殺し革命になる可能性が見えた。そこで、下級武士に加えて、天皇と公家をも巻き込み、「王政復古」型のサンドイッチ革命にした。明治維新を奇跡の「無血革命」に導いたのは、横井小楠の構想であったというわけである。

 ほかにも、国際的視野、歴史的視点で鋭い論評を様々に加えており、思想家としてのレベルが偉人の中でも図抜けていることがわかった。大川隆法総裁も、「人類史全体を鳥瞰するような立場にある」可能性があると指摘している。

 これら一連の霊言によって、明治維新の思想的原動力となった 佐久間象山、吉田松陰、横井小楠 の3人が世界史級の人物であったことが明らかになり、明治維新の世界史的意義が明らかになった。

 

明治維新の原動力は頼山陽か

 初代総理大臣の伊藤博文をして、最大級の評価を言わしめた頼山陽は、江戸時代後期(1780年~1832年)の儒学者。山陽の死後に出版された『日本外史』は、幕末から明治にかけて大ベストセラーになり、明治維新の志士のバイブルとして愛読されました。

 かの有名な伊藤博文や近藤勇、坂本龍馬、西郷隆盛、井上馨などが、山陽の書物を熟読しており、まさに「頼山陽を知らずして尊皇攘夷を語るなかれ」と言っても過言ではありません。山陽の息子である三樹三郎も、父の影響を受けて尊皇攘夷運動に奔走し、吉田松陰とともに安政の大獄で刑死。松陰の墓の隣に葬られています。

 第二次世界大戦後はGHQの占領政策の影響か、彼の業績や著作を知る人は少なくなりました。一体、どのような人物だったのでしょうか。

 

「歴史に名を刻みたい」

 山陽の父・春水は広島藩の儒学者に登用されており、山陽は幼少期から家庭で漢文に触れて育ちます。その成長は目を見張るもので、次の漢詩からも志の高さかが分かります。

 「十有三(じゅうゆうさん)春秋、逝く者已(すで)に水の如し。天地に始終無く、人生に生死有り。安(いづく)んぞ古人に類するを得て、千載(せんざい)青史(せいし)に列せん」

 (自分が生まれてから、すでに13回の春と秋を過ごしてきた。水の流れと同様、時の流れは元へは戻らない。天地には始めも終わりもないが、人間は生まれたら必ず死ぬ時が来る。なんとしてでも昔の偉人のように、千年後の歴史に名をつらねたいものだ)

 この漢詩を詠んだのは、山陽がわずか14歳(数え年)の時というから驚きです。体の強くなかった山陽でしたが、勉学に励んだ結果、漢詩の通りに歴史に名を残し、夢を叶えたのです。

 

『日本外史』とは

 その山陽の名声を一気に高めたのが、『日本外史』です。同書は全22巻の著作で、万世一系の天皇から見た歴史観(名分論)により、神武天皇から江戸幕府にかけての歴史を概観しました。

 例えば、皇室が南北2つに分裂した南北朝の時代、南朝・北朝どちらの天皇が正統か否かで対立しました。これについて、江戸時代に「三種の神器の有無で判断すべき」との議論も起こりました。しかし、その論理では、天皇が代々引き継ぐ三種の神器を盗んだ盗賊ですら、天皇として認められてしまいます。山陽は、三種の神器という形式ではなく、「徳がある天皇にこそ正統が伝わる」のだと主張しました。

 また、山陽は、南朝の後醍醐天皇側について敗れた新田義貞や楠木正成は、最後まで正統な天皇につき従った「忠臣」とし、北朝側について勝った足利尊氏を「逆賊」として一刀両断しています。とはいえ、「新田義貞は戦が下手であった」ことを批判するなど、客観的な評価も行っており、名分論を教条主義的に適用することはありませんでした。

 「幕府の上に天皇がいる」ことを明確にした日本外史ですが、これは幕府への批判とも受け取られかねません。しかし、山陽は幕府を褒めるべき部分を評価していたため、流罪にはなりませんでした。山陽には、政治的嗅覚もあったと言えます。

 

頼山陽と司馬遼太郎の共通点

 さらに、『日本外史』は人物が中心に書かれており、その周りの情景も鮮やかに描写されています。ゆえに読者は、歴史の事象だけではなく、人物の勇ましさや情景の美しさが目に浮かび、歴史上の人物に思いを馳せることができたのです。

 その点、『龍馬がゆく』『坂の上の雲』などの著作を持つ司馬遼太郎氏は、山陽と似ていると言えるでしょう。

 司馬氏は戦後、日本を卑下する左翼史観に対して、「歴史上、立派な日本人がいた」という英雄史観に基づく作品で戦い、今も多くの日本人を勇気づけています。山陽も、中国かぶれする知識層が多い風潮の中、「万世一系の天皇を戴く日本は偉い国」という独自の思想を打ち立てました。この思想が、明治維新の志士を感動させたのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『核か、反核か』の中で、山陽の評価に触れ「頼山陽がいなかったら、明治維新はなかったかもしれない」と述べています。日本独自の歴史観を述べた日本外史は、尊皇攘夷を掲げた志士の心をつかんで離さず、明治維新の原動力になったのです。

 こうした歴史の流れを踏まえると、現代では、山陽への注目度はあまりにも低いと言えます。日本人は、もっと山陽に注目してもよいのではないでしょうか。

 

維新前史

歴史の見直し運動

 であるならば、明治維新の背景にはさらに深いものがある。

 ルターの宗教改革を、ウィクリフやフスがその百数十年も前から下ごしらえをして準備してきたように、明治維新でも、長い下ごしらえの期間があったと推測される。無数の志士たちが偶然同じ時代に大量に生まれて、一代か二代で革命を起こしたという単純なものではない。

 実際に、それは数多くの霊言で明らかになりつつある。まず注目したいのが頼山陽。山陽は江戸後期の歴史家・著述家で、維新の志士たちの一世代前の人である。『日本外史』や『日本楽府』などの歴史書を書いて、当時のベストセラーを連発した。維新の志士たちは、頼山陽の著作を好んで読んだという。

 頼山陽の歴史観の魅力は、「天皇中心の皇国史観」にある。日本は中国の儒教文明の影響で進歩してきたという歴史観を脱し、独自の日本史の素晴らしさを雄々しく描いた。それが志士たちの尊皇攘夷の気運を盛り上げた。

 その前には、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の国学の盛り上がりがあり、それが水戸学として結実した流れがあった。そのような時代的な気分の中で、頼山陽が歴史の見直し運動を主導することで、当時の武士たちの愛国心を掻き立てたのです。

 公開霊言の中で、この頼山陽が意外な霊存在であったことが明らかになった。頼山陽は、かつて南北朝時代に北畠親房として生まれ、さらには、現代に清水幾太郎として生まれたという(『核か、反核か 社会学者・清水幾太郎の霊言』)。

 北畠親房は「大日本は神国なり」の文句で有名な『神皇正統記』の著者であり、清水幾太郎は、戦前左翼学者として知られながら戦後に転向し、『愛国心』や『日本よ国家たれ』など、保守的な思想に満ちた著作を書いた人物です。生まれるたびに歴史を見直し、愛国心の発揚に尽力している魂なのです。

 

陽明学が起こした思想革命

 さらに、明治維新には、国学による愛国心の醸成のほかに もう一つ重要な流れがある。陽明学と朱子学の流れです。

 陽明学とは、中国の明の時代の儒学者・王陽明の説いた思想で知行合一を旨とする儒教の学派です。知行合一とは、「知っている」ことと「行う」ことは一つだという思想で、行動の学、革命の学になりやすい面がある。

 この陽明学を日本に導入したのが、江戸初期に近江聖人として知られた中江藤樹であり、その弟子の熊沢蕃山である。吉田松陰が熊沢蕃山に傾倒していたのは有名な話です。

 この中江藤樹は、日本神道系の神々の長である天御中主神の魂の兄弟の一人であることがわかった(『中江藤樹の霊言』)。さらに、桓武天皇、明治天皇として転生したという(『地球を守る「宇宙連合」とは何か』)。桓武天皇は、京都に平安京を開いて千年の都を創った天皇であり、明治天皇は言うまでもなく近代国家・日本の象徴である。常に物事の始まりをつかさどる魂として転生しているように見える。

 中江藤樹も、日本に初めて陽明学を定着させることで、その思想が200年にわたって伏流水のように流れ続け、吉田松陰によって再発見された。明治維新のはじまりは中江藤樹にあったという見方もできる。

 一方、朱子学の流れも興味深い。朱子は中国・南宋の儒学者で、儒教を体系化して中興の祖となった人物です。『黄金の法』によれば、キケロ → 朱子 → 福沢諭吉 と転生している。福沢諭吉も明治の近代国家建設に活躍した人物であるから、維新とは無関係ではない。

 幕末における朱子学で有名なのは『言志四録』を著した佐藤一斎で、その弟子が先述した佐久間象山である。朱子学も明治維新に思想的な影響を与えたことになる。

 さらに、朱子学を批判した江戸中期の儒学者・荻生徂徠が、孟子の転生であることも明らかになった(『幸福実現党に申しあげる 谷沢永一の霊言』)。

 

明治維新をもたらした三つの学問

 陽明学、朱子学、国学の三つの学問の流れが幕末に行きついて、ある種の思想的なエネルギーを生み出したことがわかる。その流れは、数百年かけて偉人たちがリレーをしながらつないできたものである。

 しかも、こうした維新に影響を与えた人物たちの霊言によると、吉田松陰、佐久間象山、中江藤樹、熊沢蕃山らは、すでに現代日本に生まれているという。

 現代もまた、大きな思想的な革命を経て、明治維新に匹敵する大きな変革が起きてくる可能性が高いということになる。

 偉人たちが いつの時代に、どこに生まれ変わり、何をするか。それを知ることで、神の計画の一端を垣間見ることができる。それは、過去の歴史を新しく解釈することであり、未来を予測する縁ともなる。つまり、膨大な霊人たちの証言録である霊言の世界を探訪することは、次の学問の芽を吹かせ、新たなルネッサンスを創造することへとつながっていくのです。

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