神がいるなら、なぜこの世に悪や不条理、争いがあるのか

 宗教者は、神は人々を正しい道に導き、救う存在であると教えます。しかし、世の中の悪は消えることがなく、「神がいる」と信じる者同士が戦争を繰り返しています。「全知全能の神であれば、悪を放置しておくわけがない」と考え、神を信じないという人もいるでしょう。

 ただ、これは、「神が人間を不幸にするのはおかしい」という立場に立つ考えです。もし、神の目から見て、「人間が自ら不幸になる行動を選んでいる」ならばどう でしょうか。

 神は人間をつくるときに、自由意志を奪うことだってできたでしょう。しかし、それでは自ら成長する喜びも学びもありません。そのため、人間は自由意志を持ち、自らの責任で行動することができるようになっています。その代わり、自分と他人との自由と自由がぶつかることがあります。これが「悪」につながります。悪が生まれ不幸が生まれるのは、自由意志で行動することを許されているからなのです。

 また、異なる神を信じることで争いが生まれるので、人間は神から自由になるべきだという立場もあるでしょう。ただ、様々な宗教は、時代や地域に合わせて説かれているだけであり、全ての宗教の根底には、「人を愛すること」「自らの思いや行いを反省すること」などの共通した教えがあります。

 例えば、キリスト教徒は、キリスト教とは「愛と赦し」の教えであると考え、イスラム教徒は、イスラムの教えを「平和と寛容」であると言います。いずれの宗教を信じる国も戦乱に巻き込まれていますが、時代が流れる中で様々な考え方が混入し、開祖の本心が忘れられていることもあるのです。

 神を排除すべきと考える前に、人間の理解の狭さが問題で争いが起きている可能性を考慮すべきです。

 

信仰者は『神』を持ち出して、自分で考えなくなる?

 「神がそのように語られた」「神がそのように為された」と言えば、人間がそれ以上考えなくなり、議論ができなくなるという主張です。科学者で無神論の人からもよく聞かれます。一定の価値観を押し付けるために、「神」が利用されているという意見もあります。

 ただ、本当に神を持ち出すと、人間は考えられなくなるのでしょうか。神の言葉には象徴的で非合理的に聞こえるものもあります。しかし、言葉の意味を人間に考えさせることで、悟らしめる意図があると考えれば、見方が全く変わります。

 神は、大きな理想や方向性を示す存在です。また、何が善で何が悪か、そして、その理由を教える存在でもあります。ただ、理想を実現するための具体的な方法を考えたり、個別の具体的な状況の中で何が正しいかを判断したりすることは、人間の自由意志に任されています。

 神がいなければ、善悪や方向性を決めるのは誰でしょうか。「自分で考えている」と言っても、その考えの中心になる信念がなければ、誰かの意見に影響されたり、周りに流されたり、自己中心の考えに陥るかもしれません。個人が自分の意見を持ち、善悪を見極めるためには、神の考えを知る必要があります。

 もちろん、神を持ち出すことで、自分で考えることを一切やめてしまえば、それは怠慢になるでしょう。地動説を唱えたガリレオを迫害した中世の教会も、聖書に書かれている言葉を押し付けるだけに終わっています。弟子の理解の狭さにより、時代や地域の違いを超えた普遍的な神の教えが見失われてしまうことには問題があります。

 

信じても神は応えたまわない

 神を信仰していたのに、「失敗した」「病気になった」「大切な人を亡くした」「貧乏になった」ということをきっかけに、神を信じられなくなる人もいるかもしれません。

 しかし、人間があの世からこの世に生まれてくるのは魂を向上させるためです。苦しみの中にあって、神の本心に迫ることができ、その出来事が起きた意味に気付くことがあるのです。病気や大切な人の死をきっかけに、神やあの世の存在に目を開き、信仰に目覚めて人生が変わることもあります

 また、宗教には反省の教えがあります。神を信じ、神の教えに基づいて自分の心を見つめる中で、自分が考えていたこと、心に抱いていた思いの中に病気の原因や貧しさの理由を発見し、克服した信仰者が数多くいるのです。

 

神がいるなら証明してみろ とは?

 無神論者の中には、「証明されていないものは信じられない」「神がいるなら見せてみろ」と言う人もいます。神がいるなら、分かりやすくその存在を示すような現象が起こってもよいと思うかもしれません。

 ただ、無神論者の主張では、「神がいない」ことを決して証明できないことにも注意すべきです。自分には見えないもの、理解できないもの、感じられないものを全て否定するなら、それも偏った見方に入ります。たとえ高名な学者が「神はいない」と発言しても、それは仮説にすぎません。

 無神論の立場に立つ人は様々な理由を挙げますが、本当は信じたくない理由を探しているのかもしれません。ただ、「神がいない」と信じている人は、自分の目に目隠しをしているようなもので、たとえ神が姿を現したとしても、見えずに終わってしまうでしょう。

 これまで数多くの宗教家が「神がいる」ことを証明しようとしてきました。神の声を聞き、命を投げ出して信仰を守った人も、歴史上数多くいます。思い込みや偏見、誰かの否定的な言葉から自由になり、目隠しを外して「神」の存在に向き合った時に、初めてこれまで見えなかったものが見えるかもしれません。

 「神は死んだ」と主張したニーチェは牧師の子であった。子供時代の体験が過激な哲学につながったとも言われている。同映画からもうかがわれるが、積極的な無神論者は宗教や神に恨みを持っていることが多い。

 

一流の科学者が語る信仰

 一方、ニュートンやアインシュタインなど、本当に一流の科学者たちは神への信仰心を持っておりました。世界や宇宙の法則を追及するほど人知を超えた神秘を感じるのでしょう。

 アインシュタインは以下のように語られました。

 「私たちには理解できないものが存在し、それが最高の智慧と美として具現していること、人間の能力をもってしては、はっきりと知覚できないものがあると知っていること、それが真の宗教心の確信です。そういう意味では、私は非常に信仰深い人間です」

 無神論者こそ、人知を超えた宇宙の神秘を理解しようとしないまま、神の存在を断定的に否定している。「神を否定したい」という気持ちが先にあり、真理への謙虚さを失っているように見える。そう考えたとき、信仰を持っている者はもっと自信を持って「神の存在」を訴えるべきなのです。

「仏法真理」へ戻る