「霊」「魂」「心」

 「霊」とは、もともとは形なきエネルギー体。それが人体に宿って人体状の想念体をつくったとき「魂」と呼ばれる。その中心部分が「心」なのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『太陽の法』の中で以下のように説かれました。

「心とは、魂のなかの中核部分だといえます。人間の身体の中心に心臓があるように、魂という人体に相当する霊のなかには、心という中心部分があるのです。心は、頭のなかにあるのでもなければ、大脳のヒダや脳細胞のなかにあるわけでもありません。その証拠に、人間が死んで、あの世に還っても、生きていたときの記憶は、少しも失われません。肉体が滅失したら、大脳の組織も当然この地上から姿を消し、焼かれて、大気中の二酸化炭素かなにかになってしまうはずです。しかし、大脳が失われても、魂は考えることができるし、感じることも、記憶することもできるのです。つまり、脳というところは、さまざまの情報をファイルしてある整理棚であり、情報コントロール室だということができます。ですから、情報コントロール室である脳が損傷を受けると、人間は合理的な判断、行動ができなくなります。なぜならば、肉体組織の指揮命令系統が混乱におちいるからです。たとえば、脳の外傷によって精神病になった方がいるとしましょう。その方の身内は、もう本人にはなにをいってもわからないと考えているかもしれません。しかし、実は、ちがうのです。精神を病んだとはいえ、その方には、家人がいっていることがわかるのです。つまり、心によって、魂の中心部分を通して、すべて理解しているのです。ただ、理解しているということを表現できなくて、暴れているにすぎません。ですから、生きていたときに、身体的な不全によって精神病者となっていても、死んであの世に還れば、健全な人間同様の思考活動をしております。心が脳にないとして、では、心は心臓にあるのでしょうか。魂が心を認識するとき、心臓は、確かに位置的感覚としては心に近い部位にあります。しかし本来、心臓とは、体内の血液の循環をつかさどる器官であり、心そのものではありません。ただ、昔からよくいわれているように、心が動揺すると心臓が早鐘のように打ちはじめたり、悲嘆にくれると心臓が圧迫され、胸が苦しくなったり、あるいは、あまりの恐怖に心臓が凍りつくようになったりすることがあります。また、うれしいときに体が熱くなったり、悲しいときに、涙がこみあげてくるのも、心臓のあたりからです。こうしてみると、心臓は、心そのものではありませんが、心と密接な関係にある、霊的に影響を受けやすい身体の器官だということができます。ですから、もし、魂を人体様の形状をとっているものだと想像するならば、心の部位は、やはり胸のあたりに中心があり、ここで主として、意志、感情、本能の各領域をつかさどっています。そして、心の出先機関である脳の部位にある魂のもうひとつの中枢を通して主として知性・理性が、魂全体に指揮命令をくだしているのです。さらに悟性が、下腹部、心臓、脳を貫いて、霊天上界の魂の兄弟と直結しています。  霊とは、もともとは、形なきエネルギー体なのですが、人体に宿ることによって、魂という人体状の想念体をつくり、その中心に「心」をすえて、人生修行を行なっているのです。」

 

 現実に、霊というのが実在していて、それが肉体に宿ることで人間はこの世で生きているのです。

 大川隆法総裁は、著書『太陽の法』の中で以下のように説かれました。

「この世のものは、すべて時々刻々に変化をしており、まったく同じ状態であることは不可能だということです。たとえば、私たちの肉体細胞をとってみても、昨日の自分と、今日の自分とを比較するならば、まったく同じ状態ではないのです。しかし、日々変化する肉体細胞によって構成されているわけですが、その人の姓名で称されている実体があるのです。その肉体細胞を統一している実在があるということです。すなわち、時間の流れのなかで流転する存在の背後には、永遠に変化しないなにかがあるのです。人間にして然り、動物にして然り、植物にして然りです。たとえば、植物を一本の花たらしめているものは、まったく偶然に集合した植物細胞ではありません。もし偶然に集積した植物細胞が、今日という日の一本の花を形づくっているならば、日々流転し、変転するという法則のもとでは、その花は、やがて花以外のなにか別のものにかわってゆくのがほんとうです。しかし、やはり花は、花にしかすぎません。昨日も花、今日も花、明日も花。花としてのあり方が変化するだけで、花が花以外のもの、たとえば、動物とか、人間とかにはなりえないのです。また、菊の花が途中でチューリップになることもなければ、チューリップが突然コスモスになることもありません。チューリップは、あくまでチューリップの花としてその一生をおえていくのです。  そこには、変化のなかにあって変化しないなにか、流転のなかにあって流転しないなにかがあるのです。そして、このなにかこそが、あるときは実在といわれ、あるときは理念といわれ、また、あるときはイデアといわれるものなのです。  

 「色即是空  空即是色」という、仏教の有名な言葉があります。この言葉も、私が述べてきた、変化の背景にある不変なるものの実在、普遍的なる存在が投映されて、流転するこの世的存在となっていることを道破した真理の言葉なのです。私たち人間は、時々刻々に変化する、たよりない肉体細胞の集合体をもって「人間」と称しているのではありません。人間の本質は、時間の流れのなかで変転してゆくはかない存在ではなくて、永遠に不変の実在なのです。この不変の実在こそ、生命であり、魂であり、霊であります。私は、「霊」という言葉でもって、摩訶不思議な特異現象をさしているのではありません。それは、人間の本質であり、不変の実在であり、生命のイデアなのです。肉体人間を支配している個性ある知性。肉体人間を存在せしめている個性ある意識体。これらが、人間の本質なのですから、霊という言葉に対して、世人がいかなる印象を、もとうがもつまいが、真実はひとつなのです。」

 

 心とは魂の中核部分であるが、その実体は、法則あるいは作用であるり、さまざまな形容詞で語られ、定義されるものである

 大川隆法総裁は、『大悟の法』で以下のように説かれました。

「地上に生きている人間は、魂が肉体に宿った存在であって、外から目に見える部分ではなく、そのなかにある、目には見えない部分こそが、真実の自分なのです。  その真実の自分というものは、悟りの目が開けた者から見れば、外見上は、肉体と同じような等身大の形状を持った霊的存在なのですが、そういう物体的な存在であり、形を取って現れるものであると同時に、法則として存在するものでもあるという面を持っています。っまり、人間の心は、「一定の形を取ろうとすれば、そのように現れることもできるし、また、法則として、あるいは作用として働こうとすれば、そのように働くこともできる」という性質を持っているのです。  たとえば、片栗粉を水に溶かして熱を加えていくと、不思議なことに、どんどん固まっていき、固形状になります。しかし、それがほんとうの姿かというと、そうではなく、熱が冷めると、また元の液体に近い状態になります。人間の実体も、それとよく似たところがあり、肉体に宿っているあいだは、熱せられて固まった片栗粉の溶液のような姿を取っているわけですが、やがて死を迎えて肉体を去ると、元の〝液体状〟の存在に戻るのです。人間は、死んで霊体になると、最初のうちは肉体と同じような姿を取っていますが、何年かたつうちに、それが自分のほんとうの姿ではないことが分かってきて、むしろ、心としてのみ存在するようになります。心というものは必ずしも形を意味していません。心とは、人間の意識の働き、精神作用のことです。  たとえば、みなさんは、「自分はハートの温かい人間だ」「自分は非常に理性的な人間だ」「自分は熟しやすく冷めやすい人間だ。すぐカーッと熱くなったり、また冷めたりするような人間だ」「自分は非常に温和な人間だ」など、さまざまに自己認識をし、自己定義をしているでしょうが、そういう定義によく似たかたちです。そのような特徴でもって説明できるものが、みなさんの個性を判断するための、通し番号というか、背番号、バーコードのようなものなのです。  「こういう心の特徴、心の傾向性を持った存在があります。こういう特徴を持った心です」と言えば、「それは、〇〇に住んでいる××さんですね」と判明するわけです。それがその人のアイデンティティー(自己同一性)になるのです。

 形はどのようにでも変化していくものなので、形状だけでは、だれなのか判断できません。それが霊界の実態です。  しかし、本来の自分の姿とは、「私は温和で、とても寛容な人間です」「私は非常に熱心な人間です」「私は知的なものにあこがれる、非常に知性的な人間です」「私はとてものんびり屋です」といった、さまざまな形容詞で語られるものなのです。それが本来の自分であり、霊界に還ると、そのようなあり方に戻っていくので、自己認識を変えなければならないのです。」

 

心の正体

 人間は、単なる車ではなく、運転手と車が一体になって人生を生きている存在と考えてよいが、この「運転手」のことを「魂」や「霊」と言ってもよいし、「心」と言ってもよい。

 「心」を別な言葉で言うと、生命の本質、生きている力、生きていくエネルギーである。「心」は肉体を生かそうとしている力であり、肉体の主人公であり、支配者であり、人生を計画している強い意志、意欲であって、これが心なるものの正体なのである。

 大川隆法総裁は、著書『奇跡のガン克服法』』の中で以下のように説かれました。

「まず知ってほしいのは、「人間は、単なる車ではなく、運転手と車が一体になって人生を生きている存在なのだ」ということです。この「運転手」のことを、「魂」や「霊」などと言うと、古めかしく、いかめしく聞こえるかもしれないので、もっと分かりやすく、「心」と言ってもよいでしょう。「人間は心と肉体で成り立っている」と聞けば、納得する人は多いと思います。その表現であれば、九割以上の人は、だいたい納得するでしょう。ところが、「人間は霊と肉体で成り立っています」と聞くと、途端に、半分ぐらいの人は、不安になり、「そんなものがあってよいのか」と言い出すのです。ただ、それは言葉の使い方の問題にすぎません。魂や霊と言われているものの正体は何かというと、この世的に感じられるものとしては、私たちが「心」と呼んでいるもののことなのです。この世で生きているかぎり、心は目には見えません。しかし、心が存在していることは、誰もが自覚しているはずです。心なるものがあるような感じがするはずなのです。自分の体を、ゼンマイ仕掛けで動いているように感じる人は、いないでしょう。自分が、ロボットのように動き、マジックハンドを伸ばして物をつかんでいるように感じたりはしないでしょう。みなさんの家にも、おもちゃはあるでしょうが、おもちゃが動くように自分も動いているとは感じないと思います。何かが違うはずです。ロボット犬なるものも発売されましたが、ロボットの犬と、家で飼っている飼い犬とでは、何かが違うことは分かるでしょう。「動く」という点では同じですし、癖も似ていますし、どちらも吠えたり言葉に反応したりしますが、ロボットの犬と本物の犬とは違います。その違いは、「命が宿っているかどうか」ということです。同じように、ロボット、あるいは単なる機械と、生きている人間との違いは、どこにあるかというと、やはり、「心の存在を感じるかどうか」ということなのです。その「心」なるものは、別な言葉で言うと、実は生命というものです。生命の本質が心です。生きている力です。さらに言葉を換えれば、生きていくエネルギーです。それが心の正体なのです。それは、肉体を生かそうとしている力です。肉体の主人公であり、支配者です。「この肉体を使って、どういう人生を生きようか」と考え、計画している、強い意志、意欲です。これが、実は、心なるものの正体なのです。」

 心とは魂の中核部分であり、それは胸を中心にした感性、頭を中心にした知性と理性、腹部を中心とする悟性などに分かれています。  愛は感性の部分を中心としたものです。  感性とは、感じる力、フィーリングといってもいいでしょうか。  知性とは、学習などを通じて理解をする力と言ってよいでしょうか。  理性とは、知性の純化したもので、物事の筋道を見極めていく力、正邪、善悪、進歩後退、繁栄衰退など対比するものを判断する力です。  最後の悟性は、これは人類の使命、魂の意味、宇宙の真理、仏神の心など精神的なものを理解する力であり、この力が強いと真理を深く学びたいという気持ちになるのです。 愛は、感性と悟性に関わっています。  そして善は、知性と理性に関係しています。(最近ではチャクラなどの関連本もたくさん出ていて、魂と心の関係など解説されていたりす  そして、この心なるものは、仏子としての親和性と排他性の両面があります。仏の光としての要素に内在されるものには親和性を示し、光の要素に反するものには排斥されるという法則があるのです。これが、親和性なるものは大きくは「愛と善」です。そして、愛と善に反するもの、貪欲、怒り、憎しみ、愚かさなどの煩悩や、悪と呼ばれるものが、光を排斥するものであり、心を曇らせるものなのです。ゆえに、光に親和性のある「愛と善」を発見していくことが心を発見するということであるのです。心あっての愛であり、心あっての善なのです。  では、あなたの心には愛はありますでしょうか。

 愛とは、何度も言っているように「与える愛」です。

 そして、この愛には「愛の発展段階」があるのです。 愛の発展段階とは、「愛する愛」、「生かす愛」、「許す愛」、「存在の愛」、「救世主の愛」、「仏神

の愛」と段々と高まっていきます。

 そして、もうひとつは「善」です。大きく分けて小善と大善に分かれます。 小善とは、自分自身を悪くしない生き方、他人から批判されないような生き方、自分自身を守る行為とすれば、大善とは、国家や地球といった個人を超えたものの危機においやるようなものに対して敢然と立ち向かっていくことです。このように、善というものは、極めて後天的な学習による部分があり、これが知性と理性に関わっていて、その能力を高めることが必要になってくるのです。その能力を高めることが大人になってくるということなのです。

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