日本の本当の歴史

 約1万5千年前に沈没したムー大陸から、日本に数百人がやってきました。これが、後に天孫降臨の神話の土台となった。そして、2千8百年前に、高級霊(八次元霊)が集中的に降臨して、日本の土台を作りました。

 まず、日本神道で根本神のように考えられている天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が、紀元前830年頃に、南九州に高千穂の国を作り、神権政治を行なったこと。その二代目の国王が、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)であり、三代目の国王が、神産巣日神(かむむすひのかみ)であった。

 また、紀元前765年には、今の大分県あたりに伊那那岐命(いざなぎのみこと)が生まれ、伊那那美命(いざなみのみこと)と夫婦になって、天照大神(あまてらすおおみかみ)を生みました。

 この天照大神が高千穂の国の女王となったのは、天上界に還って指導していた天御中主神の神示によったことが説かれています。実際にこの時代に生まれ、国を指導した人々が、日本神道の神々となっている。

日本の神話

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『黄金の法』の中で以下のように説かれました。

「日本列島の歴史自体はけっこう古く、現在の形がほぼできあがったのは、今からおよそ3万年ぐらい前のことでした。日本の文化程度が急速に高まってきたのは、約1万5千年ほど前に、ムー大陸が沈下し、ムーの住民のなかの約数百人が、海路、現在の九州地方に上陸したとき以来です。日本の先住民族の人たちから見ると、近代的な科学の原理に通じていたムーの人々は、まさしく神の降臨に近かったと言えます。そして、この頃の伝承が、後の日本の神話の土台となったのです。さて、現在に至る日本文化の最初の土台をつくったのは、今からほぼ2千8百年ほど前に地上に降りた高級霊たちでした。紀元前830年頃、まず、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)が、現在の九州は高千穂峰に出生。八次元最上段階の如来が、日本の国づくりのために肉体を持ったのです。これは、釈迦出誕の二百年前、孔子生誕の三百年前、ソクラテス降下の三百数十年前のことでした。天御中主命を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ともいい、宇宙神とか、根本神というように考える人も多いようです。しかし、人類の実際の歴史が、歴史学の射程距離をはるかに超える四億年もの歩みであることを考えると、約三千年もの昔に生まれた方だからといって、宇宙神や根本神だというわけではありません。天御中主命は、やはり人格神、すなわち、高級霊であって、日本の基礎づくりに励んだ方なのです。この日本古代の「神」という言葉は、「上」に等しく、傑出したカリスマ性のある人物に対してよく使われました。天御中主命は、現在の宮崎県を中心とした南九州に、一大勢力圏を築いた政治家であり、しかも、宗教家でもありました。もちろん、彼以前にも、国王的な方たちはおりましたし、それは、連綿と続いてはいたのですが、神の言葉を伝える者が国を治めるという姿勢をはっきりと打ち出したのは、天御中主命からなのです。その意味において、天御中主命は、日本の宗教的中心であり政治的にも中心であることが多かった天皇の草分け的存在だったと言えるでしょう。(中略)御中主がつくった南九州政府は、高千穂国(たかちほのくに)と呼ばれました。ここの第二代の国王に選ばれたのが、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)です。(中略)そして、次に出て来た三代目の国王が、神産巣日神(かむむすひのかみ)です。(中略)ここに挙げた三人とも、八次元如来界の方であり、日本神道の格を高めた方です。紀元前七六五年、現在の大分県のあたりに伊那那岐命(いざなぎのみこと)が生まれました。彼は、二十四歳のときに、伊那那美命(いざなみのみこと)と知り合い、結婚をします。そして、この二人の正常な夫婦の営みの結果生まれたのが、後に天照大神(あまてらすおおみかみ)と呼ばれる女性です。(中略)天照大神は、日本神道系では、最高神、あるいは、主宰神のように言われております。というのは、天照大神は、女性でありながらも、初めての女帝の地位、すなわち、高千穂国の女王となったことに起因しているのです。天御中主命から数えて五代目ぐらいの国王にあたります。」

 

日本のルーツについて

 沖縄の海底(与那国島沖海底)で、1万年ほど前に築かれた古代都市の廃墟と思われるような遺跡が見つかったことはまぎれもない事実である。この場所は太平洋の西部にあり、10万年前以降のウルム氷期中には西太平洋古大陸(マー大陸)を形成していた地である。そして、この地域からポリネシア方面へ数千年前以降、人も文化も拡散していった。その中心ともいうべき場所に、大陥没を伴った琉球古陸が存在し、太平洋に伝わる古代大陸伝説のルーツがそこにあったとみてよいような現象(異物や巨石構築物も含む)が数多く存在している。そこが実在の ムー大陸 であったとされております。

 詳しく調査したのは、地質学を専門とする琉球大学理学部の木村政昭教授です。1997年3月「琉球弧地殻変動の研究―追跡様海底地形について―」のタイトルで琉球大学海底調査団を結成。スキューバダイビングで繰り返し潜り、写真を撮ったり大きさを測ったりした。その結果、東西400メートル、南北300メートルの範囲にピラミッド状構造物4つを含む5つの岩の構造物があることが分かった。最も大きい岩盤は高さ26メートル、長さ290メートル、幅120メートル。ピラミッド状で、平らなテラス廊下、城門や城壁に見える部分を備えていた。ここから、「×」と刻まれた石器や、牛をかたどったようなレリーフ像もみつかった。さらに、500メートル離れた地点では、直径80メートルほどの平らな海底や、観客席のような岩に囲まれた「スタジアム」もみつかったという。

 木村教授は、①岩の切断面が人手によるクサビ状の穴がある。②長さ100メートルの城壁のような「石垣」は一般的な組石工法で造られたとみられる。③周囲に道路や排水口のような部分があるなどの理由で、人工的な建造物だと結論づけた。  現場で集めた石を放射性同位元素によって年代を測定し、構造物は1万年ほど前に形成され、海水面の常勝で水没したとみている。