日本の神話

『古事記』と『日本書紀』

 日本の神話とは、一般的に8世紀初頭に成立した『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)(まとめて記紀という)に書かれている神代の時代の物語をいいます。『古事記』と『日本書紀』は、ともに天武天皇の命によって編纂がはじまりました。そこに描かれている日本の国の成り立ちは、実にいきいきと活躍する神々の歴史から始まります。

 『古事記』は大和言葉を重んじた国民向けの文学的な書物です。語り部である稗田阿礼が誦習したものをベースに、太安万侶がこれを編纂したといわれています。『古事記』は日本の神々の霊示をうけて語り降ろしていた「霊言」であった。ただし、当時の人たちが理解できる範囲で語られているので、天地創造や宇宙の根本神の記述などは必ずしも正確とはいえないようです。阿礼を通して語らせた神々のお考えは、真実の信仰の姿を人々に学ばせ、「日本の国において、神の愛される人間像とは何か」を示そうとしたのです。

 一方、『日本書紀』は本格的な漢文で書かれております。海外にも通用する国内初の「正史」です。

 記紀は戦前まで国史教育に用いられていました。

 古事記の神話は、そこで語られているやまと言葉の真意をもとに読み解くと、古代の人はすでに宇宙の仕組みや物理の法則をある程度解明していたことがわかります。

 古事記の出だしは次のようです。

 「天地が創られたとき、高天原(たかあめのはら)に、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)がお出ましになった。次に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と神御産巣日神(かむみむすひのかみ)がおみえになった」

 この真訳は次のようです。

 『宇宙は、宇宙の神様の命により、物質をつくる神様と想念の神様が協力し合って瞬時につくられた』

 古事記に登場する神様たちの名前には、それぞれに意味があるのです。最初に登場する天之御中主大神についてですが、(あめ)は宇宙全体を表します。は尊重すべき、または平和に治めるという意味があります。は中央、はあるじです。つまり、この神様は宇宙の中心にいる宇宙のあるじで、もっとも偉大な大神様というわけです。古伝によれば、この大神様は天御祖神(あめみおやかみ)です。この神様はギリシャ神話のゼウスやローマ神話のジュピター、仏教の大日如来のように、すべてを創り出し、そのすべてを治める最高神を言うのです。

 次に登場する高御産巣日神と神御産巣日神は、宇宙の大神様を補佐する二柱の神様です。古伝によれば、高御産巣日神は天並神(あなみかみ)です。並は、二つのものが合わさって目に見える物質をつくる、という意味です。高は敬意を表す言葉です。つまりこの神様は、尊敬すべき物質の神様という意味なのです。神御産巣日神は古伝によれば、天元神(あもとかみ)です。元は大きな力のもとという意味です。古代の人は大きな力のもとは想念である、としていました。つまりこの神様は目に見えない想念の神様という意味なのです。

 今から数千年以上も前から、日本には、宇宙は物質と想念が掛け合わさって瞬時につくられたという言い伝えがありました。『古事記』はこの言い伝えを参考にして語られたと思われます。

 天が付く神様は、皆宇宙起源の天空神なのです。

古事記、日本初期の神々

天地のはじまりと神の誕生  

 日本に伝わる「天地開闢(てんちかいびゃく)」の物語は、はるか昔、天と地の区別がない闇の世界からはじまる。そして、それまで一体だった世界がふたつに分かれ、地上には大地が、天上界には高天原が誕生。高天原には、宇宙の根源の神「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」がお生まれになり、続いて「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」と「神産巣日神(かみむすひのかみ)」がお生まれになって世界の創造に取りかかった。3柱を「造化三神(ぞうかさんしん)」と呼びます。

 一方、天と分かれたばかりのまだやわらかい地上には、生命の活力を司る「宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)」がお生まれになる。最後に、高天原の守護神「天之常立神(あめのとこたちのかみ)」がお生まれになり、高天原を固定し、恒久的に神々が住む場所としたという。

 これらの5柱の神々(別天神五柱)には男女の区別はなく、自然と現れては すぐに身を隠してしまったといわれている。

 

次々に誕生した神々  

 別天神五柱の誕生ののち、国土の永久を守る「国之常立神(くにのとこたちのかみ)」と、大自然に生命を吹き込む「豊雲野神(とよくものかみ)」がお生まれになる。そののち、記念すべき男神と女神のペア5組が次々に誕生する。 まず、生命をはぐくむ土壌を整える「宇比地邇神(うひぢにのかみ)」と「須比智邇神(すひぢにのかみ)」が誕生。そして、土壌に芽生えた生命に形をあたえる男神「角杙神(つぬぐいのかみ)」と女神「活杙神(いくぐいのかみ)」が誕生。続いて、その形に男女の性別を与える男神「意富斗能地神(おおとのぢのかみ)」と女神「大斗乃弁神(おおとのぢのかみ)」が誕生。さらに、国土を豊かにし、人間の姿を整え、繁栄と増殖を促す男神「於母陀流神(おもだるのかみ)」と女神「阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)」がお生まれになり、最後に日本国土や自然神などの万物を生み出した男神「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」と女神「伊邪那美命(いざなみのみこと)」がお生まれになった。国之常立神から伊邪那美命までの神々を「神世七代」と呼びます。

 

伊邪那岐命と伊邪那美命の国生み

 伊邪那岐命と伊邪那美命は、天御中主神を中心とする神々から国造りを命じられ、神力をやどした「天沼矛(おめのぬぼこ)」を神から授かった。2柱の神は、さっそく天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛を刺し下ろして下界をかき混ぜると、矛から垂れた潮が積み重なって固まり、淤能碁呂島(おのごろじま)ができあがった。

 伊邪那岐命と伊邪那美命は、その島に降り立って婚儀を行う。はじめ、女神の伊邪那美命から声をかけ、2柱が交わると、健全な形ではない「水蛭子(ひるこ)」が誕生。そこで、改めて伊邪那岐命から声をかけて交わると、伊邪那美命は、淡路島四国陰岐島九州対馬佐渡島本州を次々にお生みになった。

 その後、伊邪那美命は、山川草木などの自然神をお生みになったが、火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んだときに大ヤケドを負って命を落とし、死者の国である黄泉国(よみのくに)に隠れてしまう。伊邪那岐命は伊邪那美命を迎えに黄泉国へ向かったが、そこで目にしたのは、腐乱死体のように変わり果てた伊邪那美命の姿だった。おどろいて逃げ出した伊邪那岐命だったが、姿を見られて激怒した伊邪那美命が鬼の姿をした女たちとともに追いかけてくる。

 伊邪那美命は「私は死の女神となり人間を1日1000人殺しましょう」と宣戦布告。それに対し、伊邪那岐命は「ならば1日に1500人の命を生み出しましょう」と応戦。こうして、生と死の世界が断絶されたのです。

 伊邪那美命は、実際には産褥熱(さんじょくねつ)で亡くなったようです。『古事記』によれば、その後黄泉の国に旅立たれたとあります。黄泉の国とは あの世の世界のことですが、その記述を読む限り、その様相は地獄界に近い。幸福の科学の霊査でも地獄界におり、日本の神々によって封印されているとか。夫であった伊邪那岐命は霊能者だったので、体外離脱をして妻の死後の様子を霊的に見たというのがその真相のようです。

 なんとか生還した伊邪那岐命は、身を清めようと禊を行った。すると、水の中に入って体を洗うたびに神々が生まれ、左目から「天照大神(あまてらすおおみかみ」)、右目から「月読命(つくよみのみこと)」が、そして鼻から「須佐之男命(すさのおのみこと)」という3柱の神々「三貴子」が誕生しました。

 

天照大神の「天の岩戸隠れ」

 天照大神は、伊邪那岐命から高天原を治めることを命じられた。弟の須佐之男命は海を統治するように命じられたが、その任務を放棄し、母の伊邪那美命に会いたいと言って周囲を困らせる。 

 須佐之男命は、黄泉国に行く前に姉に挨拶をしようと高天原に向かったが、天照大神は反逆されるのではないかと勘違いし、武装して待ち構えていた。須佐之男命は事情を説明するが、一向に信じてもらえない。そこで、身の潔白を示すため、神に誓いを立て「子生み」対決をすることになった。そして、須佐之男命の持ち物から清らかな女神が生まれたため、身の潔白が証明されたのだった。

 しかし、姉に勝ったことで得意になった須佐之男命は、高天原の田んぼや神殿を穢すなど、暴挙をくり返す。激怒した天照大神は、ついに天岩戸を開いて中にお隠れになってしまいました。

天の岩戸隠れで世界が闇に包まれた本当の意味

 天照大神の岩戸隠れによって、高天原から光が消えたと『古事記』では伝えられています。「日食」の比喩ではないかという説もありますが、天照様が姿を隠してしまったことにより、「火が消えたように人々の気持ちが暗く沈んだ」ということでしょう。天照様はそれだけ徳高く、神々しいご存在として、多くの人々に敬われていたわけです。

 太陽神である天照大神が隠れてしまったことで、光を失った高天原は一大事。天照大神に戻っていただくため、知恵の神である思金神(おもいかねのかみ)を中心に神々が知恵を絞って作戦を考え、岩戸の前に鏡と勾玉を飾り付けた榊を立て、天宇受売命(あめのうずめのみこと)を踊らせた。女神の魅力的なダンスに高天原の神々は歓声をあげて大喜び。外の騒がしさを不思議に思った天照大神は、少しだけ戸を開け、何事かと聞くと、天照大神よりも立派な女神が現れ、みんなが喜んでいると答えた。天照大神が様子を見ようとしたところを横に控えていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が戸を引き、天照大神を引き出すことに成功。無事に高天原に光が戻りました。

須佐之男命が高天原を追放された真相

 須佐之男命は荒々しい方だったらしく、戦神・軍神的役割を持たれた神でした。また、神話になっている高天原から追放された話は、地上で生きていたときのことです。数々の騒動を起こし、高天原を追放された須佐之男命は、出雲の地に降り立ち、多くの子孫をもうけて国を治めた。

天照様が女王として国(九州王朝・高千穂国)を治め、須佐之男命は、九州地方から中国地方を戦によって平定。さらに朝鮮半島にまで遠征し、最後はそこで没した。

 

天孫降臨

 そして、須佐之男命の6代目の孫として「大国主命(おおくにぬしのみこと)」が誕生しました。大国主命は出雲の地で国造りを始めました。

 一方、高天原では天照大神が「地上はわが子、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治める国である」と、地上の平定計画を立てていた。しかし、天浮橋まで行った天忍穂耳命は、「ひどく騒がしくて降りられない」と言って戻ってきてしまう。

 そこで、天穂日命(あめのほひのみこと)を遣わせるが、一向に返事がない。続いて、天若日子(あめのわかひこ)を降ろすが、大国主の娘と結婚していたため、連絡をよこさなかった。そこで、様子を探るためキジを遣わすが、天若日子に矢で殺されてしまう。そして、天若日子は高天原から高御産業日神が投げ返した矢によって命を落としてしまう。

 3度目の使者として、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」が副遣の「天鳥船(あめのとりふね)」とともに送られた。建御雷之男神は、大国主命に対し、地上世界を天の神々に譲るように交渉。しかし、大国主命の有力なふたりの跡継ぎのうちのひとり「建御名方神(たけみなかたのかみ)」が国譲りを拒否したため、力くらべをすることになった。その結果、建御雷之男神が勝ち、大国主命も出雲に大社を建てることを条件に国譲りを承諾する。

 建御雷之男神の報告を受け、高天原では、どの神がおもむくか協議がなされ、天忍穂耳命の子である邇邇芸命(ににぎのみこと)が任命された。ところが、いざ地上に降りようとすると、天上界と地上界を結ぶ道筋に見知らぬ光輝く神が仁王立ちしている。天宇受売命が事情を尋ねると、それは天の神々の先導役を志願し、待っていた猿田毘古神(さるたひこのかみ)であった。

 ようやく体制を整えた邇邇芸命は、八尺の勾玉草なぎの剣「三種の神器」を与えられ、天照大神から「この鏡を私の霊魂そのものとして、私に仕えるように心身を清めて祀りなさい」と託された。

 こうして、邇邇芸命は、天児屋命(あめのこやねのみこと)など五神の従者とともに高天原を後にし、高千穂の嶺に降り立った。邇邇芸命は天照大神の孫にあたることから、「天孫降臨」と呼ばれるようになりました。

邇邇芸命は、その土地を賛美し、地底深くに太い宮柱を打ち立てて氷木を高々とそびえさせ、壮大な宮殿を造った。

 そして、邇邇芸命の子孫の「神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」が、九州から東征し、奈良の樫原の地で即位。初代天皇である神武天皇となり、現代まで続く皇室の始祖となったのです。

参考

神武天皇や建国の歴史を知らない人へ

なぜ天の子でなく、孫なのか?

 このとき、邇邇芸命が降臨した地は日向(宮崎県)の高千穂とされます。大国主命が国を譲った場所が出雲であるにもかかわらず、邇邇芸命はなぜ日向に降りたのでしょうか。さらに、最初は天忍穂耳命が天降る予定であったのが、直前になって子の邇邇芸命(天照大神の孫)に代わったのはなぜか。そこも見逃せない謎ですが、この点については、7世紀後半に即位した持統天皇とのかかわりが指摘されています。

 持統天皇は、夫の天武天皇が崩御したのち、皇后の立場で政治を執ったものの、皇子の草壁皇子(くさかべのみこ)が亡くなったため、自らが天皇に即位しました。その後、草壁皇子の子、すなわち持統天皇の孫にあたる文武天皇に譲位したのです。ここには、祖母から孫への継承という関係が読み取られ、「天照大神 → 邇邇芸命」の天孫降臨神話と同じパターンを見ることができます。

 持統天皇にとって、我が子の草壁皇子が亡くなったあと、自分と天武天皇の血統を受けつぐ文武天皇を即位させることは最大の願いでした。持統から文武への皇位継承を正統化し、保証するための大きな拠り所として形成されたのが、邇邇芸命を天孫降臨の司令神とし、孫の邇邇芸命がその命を受けて天降るという「天孫降臨神話」に他なりません。天孫降臨神話の歴史的背景をこのように読み取るならば、この神話の成立も持統天皇の時代と考えることができます。天孫降臨神話が形づくられたのは7世紀後半の段階ということになります。

参考

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