心をなくした医学には問題がある

 幸福の科学大川隆法総裁は、病気の7割くらいは心に関係があると述べています。たとえば、暴飲暴食、お酒やタバコなどによって病気になることがあります。

 医学的には「生活習慣病」などと呼ばれますが、そうした不摂生な生活がやめられない原因は、ハードな仕事によるストレス、人間関係における悩みなど、心にもあるといえます。悪しき生活習慣の根本原因となっている、仕事での焦りや人間関係の悩み解決には、宗教的アプローチが有効です。さらに、「難病」といわれる原因不明の病気、医者が見離したような重病の場合には、まさに心が原因であることが多いのです。人間の本質は「魂」「心」であって、そこを改めることによって、肉体にも影響が出てくるからです。

 大川隆法総裁は、『奇跡のガン克服法』で以下のように説かれました。

本人が気づいていないことが原因で、病気になっている場合が多いため、『本人が病気の原因に気づくことによって、その病気が治る』という傾向が非常に強いのです。

 心のなかには、自分には見えない部分があります。それが病気をつくっている場合には、真理に照らされることによって、そこを自覚すると、病気の崩壊が起きはじめ、治ってしまうのです。

 結局、霊的なものが人間の本質であり、その霊的なものが肉体に宿って、肉体に影響を与えています。実は、霊体のほうが『主』であり、肉体は『従』なのです

 原因となる「心」には、親やパートナーに対する葛藤、他人への恨み、幼少時の心の傷などがあります。

 そうした心の歪みを発見し、修正する努力を応援するために、幸福の科学では精舎研修や祈願などを行っているのです。

 

医学の進歩は尊重すべきものだが、心をなくした医学には問題がある

 しかし、病の原因が心にあるからといって、幸福の科学では医学の進歩を否定しているわけではありません。

 大川隆法総裁は、『はじめての信仰生活』で当会の教えは、科学と対立したり、科学を否定したりするものではありません。科学技術や医療等の進歩も認め、受け入れていますと述べています。

 また、『復活の法』でも、「私が基本的な立場として言っておかなければならないと思うことは、『新しい宗教としては、これからも日進月歩であろう科学技術文明そのものを否定するかたちの宗教にはしたくない。世の中が便利になるのは結構なことである』ということです」と説いています。

 逆に、「本来、病なし」といった教えは、薬がなかった時代には”安上がり”でよかったかもしれないが、極端であるとも指摘しています。

 総裁は、医学や科学の進歩は、人々を便利にしたり楽にしたりしようとする神仏の慈悲の流れであり、尊いものだと繰り返し述べているのです。例えば、過去の歴史においては、強力な伝染病が流行ったときに、医学はなすすべがありませんでした。今は薬学が進歩して、伝染病による死者を減らすことができています。また、検査技術の進歩で、病が早期発見できるようになったり、麻酔によって痛みなく手術や治療ができるようになったりしています。こうした医学の進歩によって恩恵を受けている人たちは数多くいます。ただし、医学の進歩に伴って、魂や心の存在が否定されていくことには問題があります。なぜなら、それは真実であって、「迷信」とされていいものではないからです。

 総裁は、『奇跡の法』にて次のように説かれています。

科学技術思想が、霊界や宗教的神秘性を完全に否定するところまで踏み込んだ場合には、それに対して、やはりノーと言う思想を持っていなければいけません。一定の線を越えてはいけないということです

 例えば、脳死者からの臓器移植は、「医学の進歩」とされていますが、幸福の科学では否定的です。なぜなら、脳死状態では肉体と魂は分離しておらず、宗教的には「死」とはいえないからです。

 実際、脳死者は家族からの呼びかけに反応して涙を流したり、出産したりしたケースが報告されています。そうした事実を無視して、「脳の機能が停止したのだから、この人は死んでいます」と断言する医学を、進歩した医学と言えるでしょうか。

 幸福の科学には、医師や薬剤師、看護師など医療に携わっている信者も数多く集っています。

 医学の進歩と競合する宗教であるならば、医療関係者が信者になることはないでしょう。

 彼らは、肉体と心には深い関係があると実感し、患者をよりよく導きたいと願うからこそ、幸福の科学の教えを学んでいるのです。

 

霊肉両面からの治療で奇跡が起きる

 心がすべてで「病などない」という考え方がひとつの極端な考え方だとしたら、「肉体しかない。心などあるはずがない」というのも極端です。

 仏教では「色心不二」という言葉があります。「色」とは物質や肉体を、「心」とは心、精神作用のことを指します。幸福の科学でも、肉体と心は一体であり、人間はどちらか片方だけの存在ではないと教えています。肉体と心、両方の働きかけによって奇跡は起きるのです。

 心ある医療関係者は、心と肉体の両面から、病気をどう治すかについて研究を深めています。

 科学技術の進歩を求めつつ、それに釣り合う高いレベルで心について探究を行う幸福の科学は、最先端の「科学」といえるでしょう。

 

医者や薬をどう考えるのか

 医学の世界も、光の天使・菩薩の系統が指導しており、宗教の系列の一つであるから、宗教と対立するものではない。現在の病院のシステムで、実際に多くの人々の生命を救っているのは評価されるべきである。医者も薬も大事ではある。

 また、幸福の科学も宗教として病気治しをしないわけではなく、「病気平癒祈願祭」で祈願による病気治しも行なっている。

 人間はいつかは必ず死ぬものであり、この世は修行の場なのだから、肉体を治すことをあまりに重視しすぎると、魂の修行を忘れて、この世への執着を増大させてしまうので、好ましくない。

 総裁は、『フランクリー・スピーキング』で以下のように説かれました。

「今は医学が発達していますから、医者と競争しようとは思っていません。あの病院の数と施設、医者と看護婦の数、宗教であれをやろうといっても、とても無理です。残念ながら、宗教ではどうしても量産システムはできないですからね。でも、私たちは神の光線の分類をしているんですが、医学の光線も、白色光線のなかの一つとして分類しています。天上界にそういう光の天使の系統がちゃんとあって、そういう看護婦さんやお医者さん専門の菩薩団みたいなのがあるんです。だから、それはそれで別に否定すべきものではない、宗教と対立するものではなくて、一つの系列だといぅふうに見ているんです。生長の家なんかだと、医者も薬もいらないというふうにすぐしてしまうのですが、私はそうは思っていません。ただやっぱり、実際に日本人の寿命がこれだけ延びたところを見たら、医学は役に立っているわけですね。数字としてはっきり出ていますから。これを上回ることを宗教が病気治しでやろうとしたら、たとえば私一人でやると、計算したって、一日五人やったとしても、一年でできるのは何人か数えたら、大病院には絶対追いつきませんね。もう一つは、人間はいつかは必ず死ぬものですから、肉体のほうを治すことをあまり重視しすぎると、魂のほうの修行というのを忘れてしまうんですね。宗教というのは、方便的に現世利益をやると人が集まってくるので、病気治しをしたらやりやすいのですが、でもそれで「治してもらいたい」という人ばかりが来ると、逆に執着を増大させているかたちになります。私たちは、あの世の世界を、もうはっきり説明しています。あの世には、いずれ必ず行かなければいけないので、そのときに困らないように、残りの何年か何十年かを、魂修行して生きなくてはいけないということを教えているんです。ですから、なかにはあの世を信じていないような宗教もあって困るのですけれど、幸福の科学は、もうちょっと先のことを言っているので、病気治しはそう重視していないと言ってもいいかもしれません(ただし、現在、幸福の科学では年に一回、病気平癒祈願祭は行なっている)。」

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