許す愛

 幸福の科学大川隆法総裁は、『幸福の法』で以下のように説かれました。

「愛の教えには幾つかの段階があることを、私は『太陽の法』などの著書で説いています。「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」「存在の愛」という段階です。これは、難しい哲学的な議論のように見えるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。最初の「愛する愛」は、自分の隣人への愛、隣人愛です。家族や友人など、日々、接する人への愛です。これは、低級な愛のようであって、低級ではありません。この段階を超えられたら、みんな天国に入れるのですから、非常に大きな法門です。まず、愛する愛を実践しなくてはいけないのです。次に、天国に入れる心境であることを前提に、「生かす愛」という、一段高い愛の教えが出てきます。これは、ちょっと厳しい面もある愛であり、智慧を使わなくてはいけない愛です。指導者、導く者としての愛です。たとえば、教師の愛、学校の先生の愛は、子供を甘やかすことだけではないでしょう。もちろん、子供としては、ほめてもらえればうれしいし、優しくしてもらえればうれしいでしょうが、人を教育する際には、それだけではいけません。やはり、叱るべきところは叱り、直させるべきところは直させることが必要です。本人にとっては苦しくても、「いま努力しなければ、あなたには道が開けない」ということを教えてあげなくてはいけないところもあります。そのような、智慧を使い、優しさと厳しさを兼ね合わせた愛が、生かす愛です。この段階まで行けば、この世的には、けっこう立派な指導者になれると思います。その上に、「許す愛」という宗教的境地があります。さらに、もっともっと深い愛が出てくるのです。自分の自我、自我のなかの自分、人とは別の独立した自分というものを考えているうちは、生かす愛ぐらいまでが限度だと思います。ところが、もう一段、宗教的境地が高まると、自分が自分であって自分ではないような感じがしてくるのです。「仏の大きな手のひらの上に生かされている。その手の上に乗っている」という感じがしてきて、さらには、「その仏の指の一本として、この世で生きている。その指の一本として、この世で活動しているのだ」という感じが分かってきます。「自分は自分であって自分ではない。仏の使命を果たすために選ばれ、その一部として、この世で生きているのだ」という深い人生観が出てくるのです。こういう深い人生観が出てくると、非常に慈悲に溢れた、ものの見方ができるようになります。すべての生きとし生けるものがこの世で魂修行をしている姿に、感動するようになります。そのため、どのような悪人のなかにも、善なる光、仏性の光が見えるようになります。「この人の心のなかにも仏性はあるのに、いまは、こういう間違った考え方や間違った心により、間違った行為をして苦しんでいる」ということが分かるようになるのです。こういう心になると、罪人に対しても、愛の心、慈悲の心が起きてきます。「何とかして、この人の仏性を光らせることはできないだろうか。たとえ、他の人はこの人を愛することができなくても、自分は、この人のなかの仏性、仏の光を愛してあげよう」という気持ちになるのです。」

 草花たちの生きている姿、動物たちが一生懸命に生きている姿にも魂修行があり、仏の生命があることが分かってきて、この世の生きとし生けるものの姿に感動できる悟りの段階が、許す愛の世界である。

 大川隆法総裁は、『幸福の法』で以下のように説かれました。

「それから、この世の生きとし生けるものの姿に感動します。草花たちの生きている姿にも感動し、動物たちが一生懸命に生きている姿にも仏の光を感じるようになります。そして、動物たちにも魂の修行があるということが分かってきます。  動物たちも一生懸命に修行をしています。食糧を求めて知恵を巡らしたり、敵から身を護るために必死になったり、子育てに努力したり、冬の雪の日には、凍え死にしそうになりながら、なけなしの草を探したり、一生懸命に努力をし、生きていくために苦労しています。彼らも、もう一段の魂の進化を求めて、苦労しながら努力をしているのです。「人間への道のりは長いけれども、根本的には同じようなものが動物のなかにも宿っているのだ。彼らのなかにも、人間と同じ喜怒哀楽の心は宿っている。『これから、長い転生の過程のなかで、やがて人間になっていきたい』と、みんな願っているのだろうな」  動物たちの姿が、そのような目で見えるようになってきます。生きとし生けるもののなかにある、仏の生命が見えてくる」という、この悟りの段階が、許す愛の世界なのです。この段階に来ると、生かす愛までの段階では、まだ充分に見えていなかったものが見えてきて、許す愛の気持ちになってくるのです。」

 総裁は、『心の挑戦』で以下のように説かれました。

「肉体に宿って修行をしているがゆえに、自分も、また他人も、過ち多い人生を送る。人生の途中において、さまざまな間違いを犯す。過ちの多い人生を、お互い迷いながら手探りで生きている、そういう人生であるのだ。この手探りの人生であるがゆえに、お互いにさまざまな間違いをするけれども、この真暗闇の世界のなかで、ともに、手探りで生きているというその原点をよく知って、励まし合っていこう。他人の悪は小さく見、自分の善も小さく見、そしてお互いに、ともに生きるものとして、ともに同時代の同期生として生きるものとして、手を携えて、角を引っ込めて、生きていこうではないか。

 こういう宗教的立場が、許す愛の立場なのです。般若の立場は、これにきわめて近いところがあります。許す愛においても、また般若の智慧においても、ともに、そもそもの宇宙の成り立ち、仏の心、人間の使命、転生輪廻、諸行無常、諸法無我 こういう見地を充分に知ったうえで、初めて成り立ってくる考え方なのです。」

 総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「「許す愛」の実践者は、おおいなる宗教的境地への飛躍を経験しているはずです。つまり、この許す愛とは、善悪を超えて、自己の使命に徹する者の境地だからです。というのも、この境地にある人は、三次元の物質界に生きている人たちが、霊的に盲目で手探り状態で生きていることを悟っているからです。そのためには、自らの愚かさに気づき回心したという、霊的覚醒の体験が必要です。自らの苦しみのなかに光を発見した者こそ、相手の目にかかったウロコを見抜き、その真実の仏性を愛することができるのです。ですから、これはおおいなる度量と雅量をもってはじめて、才能を超えた徳をもってはじめて、出現する境地だといえます。  人間の本質をすべて仏の子として、神の分身と見ることができる人にこそ、敵と見えし者の本質に仏性を見ることができるのです(般若の智慧)。すなわち、この許す愛の境地は、菩薩の境地なのです。ですから、この許す愛の実践者は、七次元からの使者であり、その心は実在界の菩薩界に通じているのです。しかし、右に述べた、許す愛、すなわち、菩薩の愛は、断じて悪魔の活動を許し、その活動を助長する趣旨に解してはなりません。悪魔は神の人間に対する愛を阻害する者であり、その存在自体が、愛のアンチテーゼです。菩薩は悪魔に対して、「信仰心」と「無我の怒り」、「空心の怒り」でもって戦うものです。仏(神)と敵対しても、とうてい勝てないことを悟り、はじめて「許しの門」をくぐる悪魔もいるのです。このように「許す愛」のなかにも、「能動的許し」が必要な場合があります。」
 善悪を超えて、自己の使命に徹する者の境地だから、その実践者は、おおいなる宗教的境地への飛躍を経験している。

 人間の本質をすべて仏の子として見ることができる人にこそ、敵と見えし者の本質に仏性を見ることができるから(般若の智慧)、この境地は、菩薩の境地である。

 

なぜ許せるのか

 「愛する愛」よりも、「生かす愛」よりも高い境地である、許す愛」。

 それは、幾転生、幾百転生、幾千転生を経て、圧倒的な愛、慈悲の心が湧いてくるときに、至ることができる。

 そこに至るまでには、多くの人の苦しみや悲しみを見るだけでなく、自分自身も数多くの挫折を経験し、さまざまな苦境を通り越すことが必要になる。

 大川隆法総裁は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ』で以下のように説かれました。

「高級霊たちは明らかに「善を取れ」「正しさを取れ」「仏に向かえ」と教えています。しかし、地上を去った世界には地獄があります。そこには悪霊やサタンがいて、地上に出てきては、多くの人を惑わせ苦しめています。  彼らはいわば不合格者です。不合格者の魂は消滅することにでもなっていれば、世の中が非常にすっきりするように、みなさんは思うかもしれません。しかし、彼らは現に生きており、活動しつづけています。そこには小さな善悪を超えた大きな許しがあるのです。その許しは他人事ではありません。「自分の身になったらどうか」ということを考えてみればよいのです。  人間は生きていく過程で失敗をすることがあります。成功した者だけが救われ、失敗した者は救われないならば、人びとは人間を何度〝廃止″されているか分かりません。しかし、またチャンスが与えられています。これはありがたいことなのです。それゆえに、勇気が出てきます。「失敗しても、やり直しがきく。永遠にやり直しがきくのだ」と思うからこそ、「よし、がんばってみよう」という気が起きるのだと思います。  人を許す境地は、人を生かす境地より大きなものであることを知らなければなりません。それは仏の境地に近いものです。そこにいたるまでのあいだ、魂は、幾転生、幾百転生、幾千転生を経て、数多くの挫折を経験することでしょう。多くの人の苦しみや悲しみを見て、そうしたことに共鳴するものを、自分の心のなかに数多く持つことでしょう。さまざまな苦境を通り越して初めて、慈悲の心が湧いてくるようになるのです。人間は、修行をくり返し、精神が高まるにつれて、しだいに圧倒的な愛を持つにいたります。過去の幾転生のなかで得た魂の糧のすべてが、唯一の「愛の大河」を流していくための力になってくるのです。」

 「自他一体」「善悪不二(ふに)」という宗教的見地は、般若修行の結果、その奥深いところまで洞察できるようになった境地であって、善も悪も区別がつかないことと同じではない。

 善悪の区別がつかない者は、まず善悪の違いをきっちりと学ぶからこそ、善悪を超えることができる。

 般若の智慧は、あくまでも、限りなく「無我」を求めていく心、限りなく「空」に近い心でもって、すべてを見ていこう、統合して見ていこうという、大きな悟りの境地である。

 大川隆法総裁は、『心の挑戦』で以下のように説かれました。

「本章では、「般若(はんにゃ)と許す愛」について、いろいろと述べてきました。最後に、気をつけなければいけないことについて述べてみたいと思います。
 それは、宗教的見地というものは、「自他一体」「善悪不二(ふに)」という立場をとりますが、これはあくまでも、修行を積んできた結果、その奥深いところまで洞察できるようになった境地をいうのであって、「善も悪も区別がつかない」ということと一緒ではないということです。
 善悪が区別がつかないということと、善悪不二とは違います。善悪の区別がつかない者に対しては、善悪の違いを教えることが大事な大事な教育なのです。それを経てこそ、善悪を超えることができるのです。
 善悪を超えるためには、まず善悪を知らなくてはならないのです。善悪を知るためには、「善悪とは何か」「善とは何か、悪とは何か」ということを、きっちりと学ぶことが必要です。
 ですから、この般若の智慧というものも、単なるお人好しで終わってはなりません。単に「あれもこれも一緒」ということであってはなりません。また、自分が修行をしないことの言い訳のために使うような、般若の智慧であってはなりません。これはあくまでも、限りなく「無我」を求めていく心、限りなく「空」に近い心でもって、すべてを見ていこう、統合して見ていこうという、大きな悟りの境地であるわけです。
 それを間違えて、ものの違いを一切なくして、「すべては善も悪も一緒。正教も邪教も一緒」というようなものの考え方をしていくとするならば、これは「自分は進歩している、進化している」と思いながら、まったく逆転して、まっさかさまに谷底に落ちていくことを意味します。
 ですから、般若修行というのは、絶えざる修行の果てに生まれてくるもの、修行の努力ののちに現われてくるものであるということを、常々よくよく考えておいて、自らが天狗にならないように戒めることが大事であると思います。」
(137~139ページ)

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