慈悲

「存在の愛」は人類の光となるような偉人の愛

 『太陽の法』には、「許す愛」の上の境地として、「存在の愛」というものがあると書いてあります。これは、「許す愛」よりも、もう一段高い、慈悲の塊のような存在です。 「その人が、その時代に生まれて、駆け抜けていった」ということ自体が、多くの人々にとっての福音であり、光であり、喜びであるような人が、やはり、歴史的には存在します。 例えば、イエス・キリストという人が生まれて、33年間、この世を駆け抜けただけで、その後、2000年間、世界に大きな影響を与えています。 そのように、その人がいたということ自体が、ものすごく大きな光になることがあるのです。  インドには、インド独立の父といわれるガンジーという人が出ましたが、彼の存在自体が人類全体に対する大きなメッセージになっています。   

 「非暴力・不服従によって、インドを植民地化していたイギリスと戦う」という、普通の人間には考えられないようなことをやってのける人には、やはり、大きな影響力が生まれてくるのです。歴史上、そういう偉人たちが数多く出てきています。こうした人たちは、ある意味で、「選ばれた人」ではあるのでしょうが、この世においては、大きな試練を経験したり、必ずしも幸福ではないような現象が起きたりします。  リンカンもそうでしょう。リンカンは、この世的には、そうとう苦労をしました。丸太小屋に生まれ、聖書と法律書しかないようなところから、鉛筆一本で弁護士になり、 何回も落選を重ねながら、とうとう最後には大統領に当選しました。そして、南北戦争を遂行してアメリカの分裂を防ぎ、奴隷解放宣言をし、国を一つにまとめましたが、最後は凶弾に倒れて暗殺されたわけです。こういう人もいますが、これは、もう、使命というか、天命としか言いようがありません。

「もう一つ上の「存在の愛」は如来の愛です。これは大きな大きな境地です。ただ、この愛については、まだあまり考えなくてもよいでしょう。まず、愛する愛、生かす愛、許す愛の実践に、一生懸命に取り組んでいけばよいと思います。「家族で仲よくする」「友人と仲よくする」というような愛は、確かに小さなものかもしれません。最初に述べた、「身近な人たちを愛していく」というのは、小さなことかもしれません。しかし、その一歩から始まって、大きな大きな慈悲に成長していかなくてはならないのです。このように、愛には発展段階があります。もちろん、それぞれの愛の段階には、共通したものが当然あります。愛する愛のなかにも、生かす愛は一部入っていますし、生かす愛のなかにも、愛する愛がありますし、許す愛もあるでしょう。また、小さな存在の愛には誰もがなっているでしょう。まずは、家庭のなかで存在の愛にならなくてはいけません。父親は父親として光り輝き、母親は母親として光り輝き、子供は子供として光り輝くことです。そして、学校で照らし、あるいは地域で照らすことです。そういう小さな存在の愛は誰にでも可能性があるでしょう。各段階の愛は、それぞれ別のものでありながら、同じものでもあるということです。それは、「愛の現れ方に、どういう段階の差、発現の差があるか」という見方であって、それぞれ、どの面も、あることはあるのです。「どの面がいちばん強いか」というだけのことなのです。」
 

慈悲

 最初の「身近な人たちを愛していく」というのは、小さな一歩だが、そこから始まって、大きな慈悲へと成長していかなくてはならない。

 このように、愛には発展段階があるが、各段階の愛は、それぞれ別のものでありながら、同じものでもあって、どの面もあることはあるが、どの面がいちばん強いかということである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『説法自由自在③ 真理の発見』で以下のように説かれました。

「慈悲の慈というのは恵みということです。それから悲というのは悲しみと書いてあります。なんで慈悲という言葉に悲しみという字がついているか。ほんとうに悲しいのだろうか。そういうことではないのです。それは、もちろん仏教のほうから出ていますけれども、奈良へ行けば東大寺の大仏、鎌倉に行っても大仏があります。ああいう大仏という姿でもって、神の姿、あるいは仏の姿を表わしているわけなのです。たとえば、地上から二十メートルもあるような大仏様からこの地上の人間を見たときに、その悲しみとか、優劣の気持ち、あいつが偉くなったとかならないとか、出世したとか、いい大学を出たとか、言い争っている地上の人間の姿はどう見えるかというと、ひじょうにかわいそうに見えると思うのです。ひじょうにかわいそうな気持ちになって、ああこういうことで苦しんでいるのか、と思うでしょう。ちょうど私たちが、蟻があっち行き、こっち行き、行きあたりばったりに動いているのを見て、かわいそうに思うのとおなじです。ああ、彼らはそういう試行錯誤をしないとまっすぐ進めないんだな、右にぶつかったら右曲がり、左曲がりして、どっちへ行ったらいいかわからない。私たちから見たら悲しいですね。そのように、慈悲というのは大きな、ずっとはるかに高い境地でもって人間を見たときの心なのです。愛の心であって、さらに高い愛の心、すなわち、「存在の愛」と私が呼んでいる段階に達した境地が慈悲の心であります。そういう境地になってくると、人と争う気持ちがだんだんなくなってくるのです。同じ土俵ではなくなってくるわけです。ですから、まず、みんなアラや欠点が見える段階は必ず通り越しますが、勉強したり努力したりするうちに、人の欠点がよく目につく段階を越えていったときに、人間は今度は単純になってくるのです。ひじょうに単純になってきて、人がよく見えてくるのです。ものすごく、いい人に見えてくるのですね。それは境地がだいぶ上がってきているのです。そういう境地までいかなければいけません。そうすると、あまりこだわりがなくなってくるのです。たとえば、この人、まだこんなことで夫婦げんかしているなあと思うけれども、たしかに自分もそういう経験があるし、だれそれさんのところもそうだったし、人間というのはそういうことはあるんだな。でもこの原因はこういうところにあるだろう。こういうところに原因があるけれど、まあいまの段階ではこれは解決できないだろう。一年ぐらいしたら。こういうアドバイスをしようかな。そういう人は、こんなふうに考えます。ところが、そういう経験がない人はわからないので、あっちの味方になったり、こっちの味方になったりして、やいのやいの言って相手を責めるようなことを指導したりするようなことがあるのです。」

 「神を愛する」という言い方には、「傲慢の芽」が芽生えている感じがしないではない。

 イスラム教では、「太陽」対「地球」のように、「神と人間には絶対的な差がある」という考えである。

 基本的には、神から慈悲が一方的に下されるものであり、人間からは「神を崇め奉る」というかたちになる。

 大川隆法総裁は、『ムハンマドの幸福論』で、イスラム教の開祖であるムハンマド(マホメット)の霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

「神を愛する」という言い方は、私には少し抵抗があるんですよね。まるで神が奥さんか何かのように聞こえるじゃないですか。そんなものではないんじゃないでしょうかね。神は「絶対のもの」なので、人間にとっては、「神を愛する」ということじゃなくて、やっぱり、「神からの慈悲が下りてくる」ということになるね。それくらい差がある。だから、本当のことを言えば、「太陽」対「地球」ぐらいの差だね。地球から離れているから、太陽は小さく見えているけれども、一方的に太陽の熱や光が地球に注ぎ、それで万物が生きているんでしょう? 植物が育ち、それを餌にして動物も育ち、人間も生きている。だから、太陽から恩恵は受けているよね。神と人間の関係は、この「太陽」対「地球」のような関係です。地球が太陽に何らかの影響を与えているかというと、少しは与えているかもしれませんが、地球は、「太陽の光を、多少吸い込んでいて、遮っている」というような状態です。もしかしたら、太陽と惑星は“親子”のような関係であり、「親子愛」のようなものがあるのかもしれません。太陽の周りを惑星がグルグル回っているので、太陽は、惑星に対し、子供を愛しているような気持ちでいて、惑星には、太陽に対し、子の「親に対する親しみ」のようなものがあるのかもしれません。私は、「神」対「人間」の関係について、「神と人間には絶対的な差がある」という考えなので、基本的には、「慈悲深く慈愛あまねきアッラー」であって、神から慈悲が一方的に下されるものであり、人間からは、「神を崇め奉る」というか、「神を仰ぐ」というかたちになる。キリスト教的には、「神への愛」と言うし、ギリシャでも言うけれども、そのような言い方には、もうすでに「傲慢の芽」が芽生えているような感じがしないわけではないですね。」