発展の原理

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 「発展」とは、「幸福の科学」の現代性、未来性の原理であり、幸福の科学の一つの大きな特徴とも言えるでしょう。しかも、単に未来原理とするのみではなく、ギリシャ的精神から逆照射して、人間の生きるべきユートピア建設への道を説いているのが、この発展の原理なのです。

 発展とは、個人の幸福から端を発したものが、社会や世界の幸福へと発展していくということです。自らが幸福になったならば、その幸福を独り占めしないで、その幸福を周りの人びとに拡げていきましょうということです。自分の幸福を家庭へ、職場へ、地域へ、社会へ、国家へ、世界へと拡げていくならば、世界は幸福で満ち溢れていくことになるのです。  幸福の科学は、この「発展の原理」によって、「いま行き詰まり感のある仏教やキリスト教、イスラム教などの未来が、どのようにあるべきか」ということさえ、指し示してさえいるのです。

 幸福の科学では、単に経済的に成功したり、会社を大きくしたり、お金もちになったり、有名人になったりすることを発展とは呼んでいません。 それも発展ではあるのですが、幸福の科学の『発展』とは「愛の拡大する姿」であるということです。ユートピア世界が拡がって、発展・繁栄していくことと言い換えてもよいかもしれません。私たちは、自分の魂修行いう目的だけでなく、生まれてくる前に人生計画を立てて「地上にユートピアを建設する」という尊い使命を持って生まれて来ているという真実があるのです。「発展とは」、自分も他の人々も、ともに幸福になっていこうという考え方であり、自分の幸福が社会や人類の幸福に繋がるような生き方をいうのです。 発展とは、愛の拡大ですから、そのために必要なのは「愛」と「知」と「反省」が必要になるのです。

 「愛」でまず「与える愛」という方向性を定め、「知」で善悪の判断をし、「反省」で間違いを修正していく、これで仏に向かった正しい発展が可能となってくるのです。「愛」「知」「反省」は「発展」するための方法となってくるのです。発展とは、愛を拡げる行為、伝道、植福などの行為でもあるのです。仏法真理を学び、実践することによって自分が幸福になったら、それを自分一人だけの幸福で終わらせるのではなく、周りの人々に拡げていくことです。多くの人々と喜びを共有することで、魂の幸福感はいっそう強くなります。家庭から職場へ、地域社会へ国家へ、そして世界へ――仏法真理を伝え、愛を発展し続けて行くならば、地上は幸福な人々に満ちた世界、限りなくユートピア世界へと近づいて行くのです。愛から始まった四正道は、発展からまた愛へと循環しながら、愛を拡大していくのです。これがユートピア世界への道なのです。
 

「愛」「知」「反省」「発展」の現代的四正道の真理を全ての人が実践するとき人々は幸福になり、まさに世界は救われることになるのです。 この四本柱、「愛・知・反省・発展」の四つの原理をマスターして生ききることができれば、 あなたがたの未来は、今世においても、来世においても、充分、光り輝いたものになるであろう。 (『幸福の法』あとがき)

 中道

中道からの発展

 「自らの向上を他の人々のために使う」という考え方は、幸福の科学では、「一人ひとりの人格の向上」と「社会の発展・繁栄」をともに目指していくという考え方であり、この考え方は幸福の科学のオリジナルの教えとして『中道からの発展』と呼んでいます。『自分を害さず、他人も害さず、自他共に生かす道』という中道の生き方です。この延長線上に自分が得られる幸福を、他の人々にも拡げていくという考え方、つまり『利自即利他』の考え方が幸福の科学の基本にあるのです。王道と覇道という言葉もありますが、『中道からの発展』、『利自即利他』とは、まさに『王道』なのです。  ゆえに、この『進歩と調和』の原理は、思想面、行動面においては「利自即利他」であり、突き詰めていくと幸福の科学でオリジナルで説かれている『中道からの発展』の教えとなるでしょう。真の発展・繁栄は「中道からの発展」にあるのです。進歩と調和の中の中道、自らも害さず他も害さない中道の道であり、その先に大調和の世界、ユートピアがあるのです。  この中道を全ての人が歩まんとするとき、大調和の発展・繁栄が可能となり、素晴らしいユートピア世界がそこに現出するのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『仏陀再誕』で以下のように説かれました。

「成功の時においては、物事は控えめに考えてゆきなさい。 また、失敗の時においては、己の心を励ましながら生きるがよい。 共に、両極端にならず中道に入るための方法である。 愚かなる人間は成功のなかにあって、自我を拡張し、傲岸不遜となり、 人を人とも思わないような発言を繰り返すようになる。 そうして、いつか自分を取り巻く環境が悪化した時に、あっけなく失敗の底に沈み、誰も助けてくれる人がいなくなる。 また、逆に失意の底にある者が、自虐的となり愚癡(ぐち)ばかりを言っておれば、 誰もまた、この人とつきあおうとはしないであろう。 愚癡ばかり出る人とつきあっておれば、心まで暗くなってしまう。 自らの心を暗くするような人とつきあわないというのも、また、賢明な道であるからだ。 そうした賢明な道を選ぼうとする者は、失意の底にあって愚癡や不満を言っている人間を、相手にしようとはしないであろう。 したがって、たとえ失意の底にあるとも、希望の光を求めて、心を励まし、力強く生きようとすることだ。 あなたが、力強い一歩を踏み出し、そして、次なる一歩を踏み出し、さらに第三歩を踏み出す時に、次第しだいにまわりからも認められ、また、素晴らしい中道の、黄金の道へと、帰ってくることが可能となるであろう。 およそ、成功とはこのようなものだ。 人びとよ、常に中道を旨とせよ。 中道を旨とし、中道からの発展ということを旨とせよ。 政治においても、経済においても、中道を旨とし、中道からの発展を旨とせよ。 それは、万民を害せず、万民を愛し、を幸福にするための道でもあるということなのだ。」

 成功の時においては、物事は控えめに考えてゆき、失敗の時においては、己の心を励ましながら生きるがよい。

 常に中道を旨とし、中道からの発展ということを旨とせよ。

 それは、万民を害せず、万民を愛し、万民を幸福にするための道でもある。

 

適正なる発展

 大川隆法総裁は、『仏陀再誕』で以下のように説かれました。

「ここで、私は、足ることを知るという考え方を、もう一度、説いてみたいと思う。足ることを知るという考えが、どれほど大事であるかということを、知らなくてはならない。 それは、ともすれば進化のみを追い求める男性的な社会において、調和の原理を取り入れることにもなるであろう。 足ることを知るということによって、人びとは両極端の思いから去ることができる。 また、上と下というこの上下の両極端からも去ることができる。 左右の両極端、上下の両極端を去り、そして、中道に入るという道のなかに、足ることを知る生き方があるであろう。足ることを知るということは、決してブレーキをかけよということではない。 それは、適正なる発展ということなのだ。 適正なる発展ということを考えないと、すべてのものは失敗に終わってしまう。 樹木であっても、適正な発展があってよいのだ。 草や花であっても適正な発展というものがあってよい。 もし、ひまわりの花が十メートルの高さになったとしたならば、ひまわりは苦しかろう。 いかに土中から水を吸い上げるかということが、彼の急務となり、焦りとなり、苦しみとなるであろう。 ひまわりは、やはり二メートルの高さでよいのだ。 また、違った考えもあるであろう。 柿なら柿という木に、数多くの実がなれば嬉しいであろう。 しかし、この実がなりすぎたらどうなるかということを考えたらよい。 なりすぎることによって枝は曲がり、また、その実の味は落ちる。 味が落ち、そして、その木にとって無駄な仕事をしたことになってしまう。 数多く実をつけることによって、人びとに喜ばれるとは限らない。 味が落ちれば、人はそれを喜ばなくなるのだ。 やはり、適正な数で、素晴らしい味の実をつけることがよいことであって、ある時は豊作となり、ある時は凶作となって、左右に揺れ、上下に揺れることをもって正しいとは言わない。 いつもいつも人びとの期待に応えて、適正の量、適正の味で、柿の実をならせることが、正しいことであるのだ。 そのような考えを忘れてはならない。 すべて、物事の成功には、適正ということが大事である。 何事も、やりすぎてはならない。 やらなすぎてもいけない。 中道という道は、決して一時的なことではなく、無限の成功をつくってゆくための道であるということなのだ。 今、自らの仕事というものをふり返って、どこか適正を欠いているところがないかどうかを、常づねに点検せよ。 適正を欠いていないかどうかを点検するということが、中道に入るということなのだ。 この中道に入るための方法の一つとして、足ることを知るという視点もまたあるのだ。 そのことを忘れてはならない。」

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