仏教的幸福論 「施論・戒論・生天論」

あの世を前提とした幸福論

 仏教は、「この世の生は苦しみや悲しみに満ちている」と見ていたのであり、幸福論を説いたわけではないと見る向きもある。だが、幸福の科学大川隆法総裁は、仏教が栄えたインドや日本において、これまで人口が増え続けてきた事実を踏まえれば、この世に生まれてくることには、何らかのニーズがあるはずだと指摘されました。

 総裁は、仏陀自身が高弟に対し、「自分も功徳を積んで幸福になりたい」と語ったエピソードを紹介し、「この幸福の意味は、最終的には『生天』にあります。『この世を去って、あの世に生まれる』ということです」と語った。「苦しみの多いこの世で、どれだけ功徳を積んだかによって、来世に行くべき世界が変わる」という霊的人生観が、仏教的幸福論の根底にあることを明らかにした。

 総裁は、仏陀が得意としていた説法である「次第説法」を挙げて、人々を幸福に導く「施論・戒論・生天論」を解説されました。

 施論が筆頭に来る意義や、戒論が「仏法は王法を超える」という故事の根拠になった理由などを詳述。さらに、仏教、キリスト教、イスラム教の戒律が時代に合わなくなっている現状や、比較衡量の視点で解釈を変えていく必要性を強調した。

 施論と戒論を守れば、天国に還ることができ、これが最大の幸福であるという教えは、あの世も含めて、「善因善果・悪因悪果」の法則が完結することを意味している。

 そして、学問の世界において、霊魂と実学を分けたとされるカント自身も、「善因善果は来世がなければつじつまが合わない」という主旨のことを語っていたと指摘。善良な人が非業の死を遂げることがあるように、この世は一見不合理に見えるが、来世があるからこそ、神仏の正しさは実現するのである。

 

仏教は唯物論などではない

 現代の仏教学では、中村元氏などが、次第説法を「子供騙し」や「方便」のように捉え、その流れから仏教の「無霊魂説」や「唯物論説」が出てきている。

 しかし、仏陀が「不妄語」の教えを説いていたのは厳然とした事実である。

 総裁は、「『最初から、仏陀が方便のために、初見の民衆に対して嘘を説いた』というのは、仏教に対する大いなる侮辱だと思います」と、仏教学者たちの間違いを厳しく指摘した。

 形骸化して考古学、文献学になってしまった仏教学から、仏陀の本心に到達するのは困難である。宗教の原点に立ち返った、仏教的幸福論の研究が望まれる。

 

この世には苦しみしかないのか?

 仏教には、「幸福学」といったものには馴染まないイメージがある。「四苦八苦」という用語があるように、「この世は、苦しみや悲しみに満ちた世界」という教えがあるからです。もし、生まれてきたこと自体が単なる苦しみなら、「幸福」という言葉が出てくる余地はない。

 しかし、総裁は、「仏教は幸福について説いていない」という考え方に対して、「釈迦の真意にまで迫れていない」と指摘する。

「人間に宿る魂が天上界にいて、この世に生まれてくる」ということを前提とすれば、なぜ彼らは、わざわざ苦しみの世界に生まれて来るのか。それは、この世に生まれてくることに何らかのニーズ、意味があるからです。そうでなければ、世界の人口が増えていくのはおかしい。

 総裁は、「この世の人生にも何らかの魂修行としての面があって、人はこの世に生まれ変わってくる」と、この世の意義を述べた。

 また、総裁は、仏陀自身が幸福を求めていた、という逸話を紹介した。

 阿那律という盲目の弟子が、袈裟衣のほころびを繕おうと、針の穴に糸を通そうとしていた。しかし、目が見えないのでうまくいかない。そこで「誰か功徳を積みたい人はいないか」と念じたところ、誰かがサッと来て針に糸を通してくれた。それがほかの修行者ではなく、仏陀その人だった。

 驚いていた阿那律に対し仏陀は、「私ほど『功徳を積んで幸福になりたい』と思っている人間はいないのだよ」と語ったという。その言葉には、恐縮する阿那律への心配りの面もあったであろう。しかし、少なくとも仏教が「幸福」を否定するような教えではないことがわかる。

 

仏教的幸福論の三段階

 では、仏陀はどのような「幸福論」を説いたのか。総裁は代表的なものとして、「次第説法」を挙げる。仏陀は「遊行」といって、いろいろなところを巡回しながら説法をしていた。そのなかで、初めて仏陀の教えを学ぶ人が多い場合によく行った、代表的な説法があった。これが「次第説法」である。

 この次第説法は「施論・戒論・生天論」という三段階の内容で組み立てられている。「施し」を行って功徳を積み、「戒」を守って生き方を正す。それによって、「生天」する、つまり「この世を去って、天界に生まれたときに、幸福な生活が送れる」という教えである。

 総裁は、最初の「施論」について説明した。

 人々はさまざまな罪を犯す。それらをつぐない、天界に還ったときに幸福に生きるためにも、生きているうちに「善行」を行うことが大切である。

 この世とあの世を貫く真理に、「善因善果、悪因悪果」―「縁起の理法」があります。 これは不昧因果といってくらますことはできない法則なのです。 この世においても善いことをすれば、時間の遅い早いはありますが、善いが結果が現れます。

 逆に、悪いことをすれば必ず報いが来ます。

 今の時代では、悪いことをしても法律に触れなければよい、世間に知られなければ何をしてもよいと考える人も多く、他の人を踏みにじったり、地位や権利を利用して自分の利益のために悪事を働くということはかなり行われているようです。  しかし、縁起の理法からいけば、善因を積めば、善き結果がき、悪しき原因を行えば悪しき結果が必ずやって来るのです。この世で報いを受けない場合は、あの世でその報いを受けることになります。それが地獄・餓鬼・畜生といわれる地獄世界なのです。ですから、「まず施しを行い、善き原因をつくりなさい」と教えた訳です。施論とは、施しをすること、布施をすること。これは幸福の科学では与える愛のことです。そして、その布施は、三輪清浄でないと布施は成り立たないのです。布施とは、対価関係ではなく、「喜捨」といって執着を断つための尊い修行の一つなのです。 布施には、物施、財施、顔施、無畏施、法施などがあります。その布施の精神としての心掛けは、正しい仕事(正業)をし、しっかりと富を築き、それを仏法真理の為に使うことです。少なくとも自分の時間を仏神の為に使うことです。あるいは、自分の肉体、手足を少しでも仏神のお役に立てようとすることです。また、そのようなものが無い場合には、言葉を与えるということもあります。優しさを与えるという行為もそうです。感謝をするということもあります。仏神の心に適ったものであれば、心の富を与えることも布施の精神なのです。

 次の「戒論」は、「戒」を守って正しく生きていくという教えである。

 釈尊当時の仏教では、在家信者に対しては「五戒」というものを守ることを勧められました。 戒論とは、戒律を守ることです。仏教的には―不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の

 五戒を守ることですが、現代では、お酒を呑むのは日常的に行われているので、これを戒とするのは一般の人にとっては厳しいことではあるのですが、現代でも適用することは可能なことであると思います。  残りの4つに関しても、現代人でこれを全部守れている人はどれくらいいるでしょうか。心もとないところがあります。 一番目の「不殺生」とは、「汝、殺すなかれ」という不殺生の戒めです。「人を殺してはならない」ということです。不偸盗とは、「盗んではならない」という不偸盗、不盗の戒めです。他人のものを盗んではいけないことなのですが、仏教においては、「盗むなかれ」という戒は、ものを盗むだけではありません。「与えられざるものを取るなかれ」という意味なのです。三番目は、「不邪淫」です。「邪な異性関係を持ってはいけない。身を破滅に追い込むもとになる」という戒めです。これは現代においては、結婚を介さない不倫などの邪淫を戒めることです。現代では不倫というものもかなり幅広く行われているようで、そこには真理を知らないための倫理観の欠如があるのです。異性関係を正していくということは、家庭を調和させユートピア世界を創るうえで大切なことなのです。夫婦は、霊的に一体となって、共に協力し合い、ユートピアを創るという使命を持っているのです。ですので、不倫というのは、ユートピアの基地となる家庭を破壊する行為なのです。  四番目に不妄語、「嘘偽りを言うな」「人を騙すな」ということです。 これは嘘をつかないことですが、今の日本では政治家が嘘を使うのは当たり前のようになっています。その他言葉に関しては、不悪口―悪口を言わない、不両舌―二枚舌を使わない、不綺語―すぎたお世辞、おべんちゃらを言わない、などがあります。人間は言葉によって悪や苦をつくり出しているようなところがありますので、言葉を正すということはとても大切なことです。 それからキリスト教、イエス様の言葉によれば、「たとえ言葉として出さなくても、心の中の思い、心で悪いことを思っていたら、それも罪である」という教えもあります。これを現代人はどう捉えるでしょうか。五番目は不飲酒、「酒に酩酊したのでは、人生を破滅させる」ということです。 これは現代でもそうです。酒にのめり込み、“アル中”になってしまったら、借金をつくったり、暴力が絶えなかったりして、人間関係がうまくいかなくなります。家庭は崩壊し、仕事もうまくいかなくなります。「そこまで酒に溺れるようなことはするな」ということです。

 総裁は、悪行を働いた人でも、その後、戒律を守って修行すれば天界へ還れる。その例として、殺人鬼として恐れられていたが、反省して仏陀に帰依し、血の滲むような修行を続けた、アングリマーラという弟子の逸話を紹介した。

 総裁は、そうした戒が生まれた背景について、宗教的観点や、当時の時代環境なども踏まえて解説。その上で、キリスト教や仏教、イスラム教では、時代が変わって戒の本来の意味が失われている部分があると指摘した。例えば、「結婚前に男女関係を持つと、石打ちなどで殺される」といった、一部のイスラム教国のような「人権侵害」とも言える考え方については、現代社会に合わせて新たな考察が必要である。

 そして、生天論。これは、施論・戒論を守って生きれば天国で安らかに生きることができるということです。  現代ではそう単純なものではないと思うかもしれませんが、真理は単純なものであって、この世で、これを守れないで生きた人は、天国へは行けないということなのです。 ですので「布施」、愛を与えるということはとても大切なことなのです。現代に生きる人はこれを忘れ去って久しいのではないでしょうか。布施したものは、来世あなたのものとなって返ってくるのです。いや、それ以上のものとなって返ってきます。この世で布施するということが大事なのは、それがはっきりと分かるあの世ではなく、この世でする布施は、一の布施が 十になって返ってくるのです。私たちが、仏法真理の為に費やした富、費やした時間、費やした労力、それら全てが十倍になって返ってくるというのが霊的真実なのです。「施論、戒論、生天論―布施(愛を与える)を行い、戒律を守って生きると霊界の天国に行ける」という簡単な真理を受け入れ、それを守って暮らすことによって、天国で幸福に暮らせるというお返しがくるということなのです。インドで釈尊は苦しみの根源は「我ある」、我見にあると喝破し、その苦しみを去るには「無我」になることが大事だと教えたのですが、後世、誤解され、ねじ曲げられて、仏教は霊魂がないとか、あの世がないとか教えているかのように、説く人びとが現われてしまって、釈尊の真意が正しく伝わっていないようです。人間は死後、必ず霊体になってあの世に行きます(勿論、あの世に行けない人もいるにはいますが)が、生きている時に、「死後、肉体はなくなっても意識は残って、霊としてあの世に旅立つことになる」ということを知らなかった霊を死後に説得するのはとても大変なのだそうです。ですから、現代人に「無我」の教えを理解するのは難しいので、死後迷わず、天国幸福に暮らすためには、最低でも「世論・戒論・生天論」という真理を知るということが何をさておいても大事なことなのです。

 このように、「施」「戒」を心がけて生きる結果、この世を去った後に、幸福な暮らしができる、つまり、「生天」できるというのが「仏教的幸福学」の入門となる。

 

あの世を含まない「幸福学」は底が浅い

 学問に、あの世や神仏を入れることに疑問を持つ人も多い。しかし、学問が霊的現象を研究対象から外し、唯物論的になるきっかけになったカント自身、「この世の善行は、あの世で報われる」ことを認めていると総裁は指摘した。

 仏教学者の中にも「仏教は無霊魂説だ」と考え、あの世での幸福を説く「次第説法」も、「布施を集めるための方便だ」と捉える人もいる。しかし、釈尊が不妄語の戒めを重視していたのは歴史的事実。釈尊があの世の存在を認めなかったという説は「仏教に対する大きな侮辱だ」と、総裁は厳しく批判した。

 一方、巷に溢れる「幸福論」にも、来世の観点がないものが多い。そのため、仕事の成功や、人間関係の改善のためのノウハウに終止している感がある。ノウハウも大事だが、本当の意味での「幸福」を掴んだものではないため、底の浅いものと言わざるを得ない。

 一方、釈迦の「次第説法」は、人生の意味や善悪も踏まえたものである。総裁は、「『神様、仏様という目に見えない存在が自分の一生を見てくれていて、公平に判定してくださるのだ』と思えばこそ、人間は善を実践することができます。それは、『善人として生きるに値する人生だ』と思うことができるようになるということ」と総括した。

 仏教など過去の世界宗教の説いた「幸福論」にもヒントを得た「幸福学」を、霊的な視点からも構築することは、「何が幸福か」に迷う現代社会に最も必要とされていることである。

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