阿羅漢

 阿羅漢とは、六次元光明界の上段階の悟りを得て、この世にあって実在界の存在を感じ、実在界に生きるがごとくにこの世で生きることができるようになる最初の段階。菩薩の卵、菩薩への登竜門に至った段階。

 この阿羅漢向になるのは、仏法真理を学び、幼いころからの間違った思いと行ないを一つひとつ反省していくような修行をしていくことで、万人に可能ではある。

 しかし、それを2~3年間維持して、阿羅漢果にまで達するのは、非常に難しい。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『釈迦の本心』で以下のように説かれました。

「釈迦の教えのなかで、教育目的としていちばん重視されたのは、阿羅漢の状態となることでした。阿羅漢とは、この世にあって実在界の存在を感じ、実在界に生きるがごとくにこの世で生きることができるようになる、最初の段階なのです。阿羅漢の境地は、私の説いている段階論で言えば、六次元光明界の上段階の悟りに相当します。六次元の悟りというのは、仏法真理を知的に詰めていって悟る段階ですが、六次元の上段階は菩薩の前段階であり、ここにいるのは、菩薩の卵、菩薩への登竜門にいる人たちなのです。阿羅漢の状態にもいくつかの段階がありますが、ここでは二つに大別しておきましょう。第一は「阿羅漢向(あらかんこう)」という状態です。これは阿羅漢に向かっている状態です。第二は「阿羅漢果(あらかんか)」という状態です。「果」とは結果という意味であり、阿羅漢果とは、すでに阿羅漢に達した状態のことをいいます。  阿羅漢向と阿羅漢果の違いは、どこにあるのでしょうか。プロの修行者としての自覚を持って生きており、心が悩みや苦しみから解放された境地にあって、常に精進を怠っていなければ、阿羅漢向の状態にあると言うことができます。そして、阿羅漢果となるためには、そうした状態が少なくとも二、三年は続いているという実績が必要なのです。心が穏やかで執われがなく、少々のもめごとや波風があっても心が乱されない状態、そして、みずからをよく振り返り、精進を怠らず、ある程度、天上界からの指導も受けられる状態、こうした状態が三年続けば、阿羅漢果になったと言えます。阿羅漢向になるだけであれば、人によっては一週間ぐらいで可能です。幼いころからの記憶を取り戻して、間違った思いと行ないを一つひとつ反省し、両眼から涙がほおを伝うにまかせて、「法雨」を流したとき、守護霊の声が聞こえ、その光を浴びて、阿羅漢の状態になることがあります。しかし、この状態が長く続くかどうかが鍵となります。一週間ぐらい山にこもって反省行を行ない、阿羅漢に近い状態になったとしても、下山して日常生活に戻ると、また心に曇りをつくってしまうのが人間の常だからです。いったんは阿羅漢向に達しても、そこから転落する者が数多いのです。それはちょうど、崖道を登っている人たちが、頂上まであと少しのところで、ゴロゴロと転げ落ちていく姿にも似ています。阿羅漢向になるのは、ある意味で万人に可能ですが、阿羅漢果に達するのは非常に難しいのです。阿羅漢向に達することは、仏法真理を学び、修行をしていけば、おそらく百人が百人とも可能でしょう。しかし、阿羅漢果に達するのは、その百人のうちの四人か五人にすぎないのです。  そして、阿羅漢果に達した人たちのなかで、菩薩の境地にまで入っていけるのは、十人のうち一人にも満たないのが実情です。」

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