業(ごう・カルマ)

 業とは、過去世で罪を犯したから現世でその罪の償いをしなければならないというような、信賞必罰的な捉え方をする考え方もあります。

 過去世の原因の集積が、今世におして結果として現れるという「カルマの法則」というものはあります。この法則は、イエス・キリストは、「撒いた種は刈り取らねばならぬ」という言葉を述べていて、法則から見れば、良い面も悪い面も両方あるのですが、現代的には悪い、否定的な面で捉えられることが多いようです。ですが、仏法真理的には、業、カルマとは「魂の傾向性」のことを言います。人間は永遠の魂修行をしている存在であるのですが、その転生の過程で様々な人生を送ってきて一定の好みというものができてくるのです。その傾向性のことをカルマというのです。 

 

(『心の挑戦』より)

 「業」という言葉は、仏教的に捉えるならば、「行為」という言葉とほとんど同義です。すなわち、行為から業が生まれるのです。 この行為が起きるためには意志が働いています。人間の「こうしたい」という主体的意志、自分の考えが働いて、それが身体的動作として明確化します。そして、その人の思いと行いというのは、人生の記録として、もはや抜きがたいものとして残るわけです、この意志と行為によってかたちづくられるものを「業」といいます。 したがって、業には、「善業」も「悪業」もありうるはずです。善い行為もあれば悪い行為もあるはずですから、業には善業、悪業ともに存在する余地があります。 ただ、通常では、業といいますと、たいてい悪い意味合いに捉えられることが多いと言ってよいでしょう。その理由は、業そのものが、生まれ変わりのシステムと非常に関係あることに起因している、と言えるでしょう。人間が生まれ変わってくるためには、生まれてくる前の人生計画というものがあります。その結果として生まれてくると、この三次元世界では、人間は様々な苦労をすることになります。天変地異がよく起きる現今では、土砂崩れのなかで生き埋めになったりして、20年も30年経っても、その時の悪夢から逃れることができないで、人生が不幸の刻印のなかに置かれるということだってあるでしょう。しかし、すべては心にどのような印象が残ったかということに関係があるわけです。いずれにしても、「過去・現在・未来という三世を貫く業なるものはあるか」ということですが、「一定の範囲内で、ある」と言ってよいと思います。結局、生まれ変わるときには、それぞれの肉体は持っていけないし、持ってこないものなのですけれども、持っていくものとして、魂のなかにある「心」という中枢部分があります。三次元で生きていたときに、その心のなかに、どういうものを刻印したか、印象として持ったか、ということが大きく影響するのです。その人が不幸に惹かれるメンタリティー(精神性)を持っていますと、不幸が起きるような状況がよく出てきます。あるいは幸福的感覚、幸福に敏感な心を持っていますと、幸福な出来事が数多く起きるようになってきます。それは、一定の“趣味”と言ってもよいかもしれません。なぜそれが好きか、あるいはそれが嫌いかと言われても、そういう好みを現実に自分が持っていると言うしかありません。  魂においてもそういう“好み”があるのです。永年の転生輪廻のあいだに、一定の味覚にも似たような魂の感覚ができあがっていて、自分が選択するものの傾向性があり、好みのものというのがあるのです。そのとき不思議なことに、不幸を好んでいく方も数多いのです。しかし、なぜそういう選択行動を起こしていくか、ということを考えてみますと、これは現実には「無明(むみょう」ということが原因となってきます。無明というのは「無知」のことです。智慧がないこと、智慧の明かりがないことです。明かりで照らせば危険は何もないのに、明かりがないために手探りで闇を進んでいくと、つまずいて転ぶことがあります。それに似たようなことが、たくさんあるわけです。たとえば子供の場合、親がついていればケガをしないですむのに、たまたま親がついていないために、転んでケガをすることがあります。「それは危険だ」ということが、子供にはわからないからです。こういう例をあげると、すぐわかるのですが、大人になっても、それぞれの人によって、知識や経験、あるいは洞察力の有無にずいぶん開きがあります。無名といっても、絶対のものというより、相対的なものであることが多いでしょう。自分の能力、あるいは人間関係、経済的な状況、生活環境、家族関係など、いろいろな要素が絡まると思いますが、その人が固有に持っている客観的条件から見ると、現在ある問題を解決するにあたって、その人にとっては非常に困難なことがあるわけです。そのときに、みすみす失敗をしていくことがよくあるということです。この無明を打ち砕き、そして智慧に変えるためには、何をする必要があるのでしょうか。 そのままであったら、その人は自分の魂の傾向性に沿った選択をしていきますから、この傾向性を断ち切る必要があるわけです。大人がついていれば子供はケガをしないわけですが、その大人に当たる部分、ものごとが見えている人の意見、考え方というものが非常に大事なわけです。霊的にいえば、これは守護霊や指導霊の導きということになります。霊的な面をはずすとするならば、この世的には、仏法真理的な知識、仏の心を教えた知識をマスターするということがそれに当たるわけです。

 幸福の科学の会員には、常々、仏法真理知識を学ぶようにとお勧めしていますが、その理由の一つには、結局、「転ばぬ先の杖」であることが多いわけです。知らないということにより、みすみす陥穽に落ちていく方が数多くいるのです。

 カルマ(業)というのは、魂の中枢部分である、心に刻印された「魂の傾向性」であり、“趣味”とか“好み”と考てもらっていいと思います。そして、その好み、傾向性による思いと行いによって善業、悪業が分かれるのです。その分かれ目は、「無明」というもの、智慧がないこと、真理知識がないことに起因します。このカルマ、つまり、魂の傾向性を修正するために、反省というものが必要であり、そのためには守護霊や指導霊の導きを受け、仏法真理の知識を修得する必要があるのです。 こうした智慧を身に付けることによって悪業ではなく善業を積んでいくことができ、それが今世の幸福、そして未来の幸福につながっていくことになるのです。

 「宗教とは、いったい何のためにあるのか」ということにつながっていく話をしたいと思います。みなさんは、人間としてこの世界に生きているわけですが、人間には「三つの驕り」があります。第一の驕りは「若さの驕り」です。たいていの人間は、10代、20代、あるいはそれを過ぎた年代においても、若さということを驕るのです。「自分はまだ若い。人生はこれからであり、前途は洋々であって、道は開けている。いかなる試行錯誤をしようとも、まだまだやり直しがきく」と考え、青春の花びらを散らすがごとく、さまざまな事柄や人間関係に熱中します。  そして、「自分はいま何をしているのだろうか」と気がついたときには、もはや人生の半ばを過ぎており、若さはどこかへと消えていて、人生の後半にさしかかったていたということがあります。桜も、三分咲きのときには、未来しかないわけですが、満開になれば、やがて散っていく運命にあります。若者に、「老いてのちのことを想像せよ」というのは酷かもしれません。しかし、一日一日、その日は、近づいています。

 第二は、「健康の驕り」です。  みなさんのうち、大多数の方々は健康でしょう。そして、勉強したり運動したりして歩んできた、これまでの人生を当然であるとも考えるでしょう。しかし、みなさんがいったん重い病気にかかったならば、その人生はどうなるでしょうか。「普通に学校で学べたことが、どれほど幸福であったか。普通にスポーツができたことが、どれほどの幸福であったか。貧しくとも家庭の団欒がありえたことが、どれほどの幸福であったか。健康であるということが、これほどまでに幸福を生むものであったならば、ああ、どうしてあんな小さなことにこだわって自分は苦しみをつくっていたのだろうか」と思うことでしょう。健康を失って初めて気がつくもの、それが健康の驕り、高ぶりであり、それに気づくときが、人生のどこかで、みなさんを待ち受けています。「自分の身体は頑健、頑強であって、病気ひとつしたことがない」と自慢していた人が、30代、40代になると、急に身体の不調を訴えます。暴飲暴食をし、いつまでも若い時のつもりでいた人が、大変な病気になって、「今後、家族をどうしたらいいのどるか」と悩むようになります。それは、自分の健康に奢っていたのです。「健康というものは、ただで手に入るものだ」と思い、奢っていたため、そうした場面が訪れてきて、人間のその高ぶりの気持を諭してくれることがあるのです。  

 第三は、「生命の驕り」です。これは、仏法真理を学んでいる方は別かもしれません。しかし、みなさんが、毎朝、家を出て出勤する途中で出会う人たち、会社で出会う人たち、そして会社の帰りに出会う人たちは、どうでしょうか。まるで、自分の生命が無尽蔵であって、決して終わることがないかのごとく生きているように見えませんか。今日があるように明日もあり、明後日もあり、十年後も、二十年後も、五十年後も、百年後もあるように思ってはいないでしょうか。それが、生命の驕りです。ところが、百人が百人、この地上を去っていくことになるのです。長生きをする人でも百歳、百二十歳までです。たいていの人はもう少し早く、この地上を去ります。平均寿命が八十歳であったとしても、それはあくまでも平均の話であって、自分に対するお迎えが、いったいいつ来るかはわかりません。にもかかわらず、あたかも自分の人生が無限であって、今の状態でこの世にいつまでも生きていける、そのような錯覚に陥っています。これは、自らの生命に奢っていると言わざるをえません。  

 「若さの驕り」とは、「生・老・病・死」の「生老」に当たるでしょう。さらに「健康の驕り」は、「病」に当たるでしょう。そして、「生命の驕り」は、「死」という現実を避けていることにほかなりません。  

 しかし、何度も何度も伝えているように、この地上の教育では決して教えてくれないことが、唯一の真実なのです。人間の本来の世界は、あの世の世界、「実在界」といわれる霊の世界なのです。そして人間は、魂修行をするために、その実在界の生活に別れを告げて、わずか数十年間、この地上に生まれ変わってきているのです。その世界から生まれてきて、またその世界に還っていく。それが人間なのです。地上から見れば、あの世にいくことを旅立ちと思うでしょうが、あの世から見れば、この世に来ることこそ旅立ちなのです。みなさんは全員、あの世の世界において、大人としての生活を営んでいたのです。しかし、地上に生まれてくるときに、その意識をそのまま持ち越したのでは、この世での魂修行に差し支えがあります。そこで、いったんすべてが白紙に戻され、どのような如来も、あるいは幼き悟りの魂も、もう一度ゼロから始めることになっているのです。 そして、何十年かを地上で過ごすうちに、だんだん、地上こそがほんとうの生活の場だと思うようになり、もといた世界を忘れていきます。このようにまったく価値の逆転した人生観が生まれてくるのです。悠久の昔には、人間の寿命は、現在より遥かに長いこともありました。500歳まで生きた人は数多くいましたし、一千歳まで生きた人もいました。そうした寿命が許されていたのです。ところが、地上であまりに長い間生活送っていると、肉体での生活こそがすべてだと思って、実在界の生活を忘れていく人間がつぎつぎと出てきはじめたため、人間の寿命は、どんどん短くなっていきました。それが歴史の真相なのです。みなさんは、自らが自分自身だと思っているその姿、その考え方を、その人生観を、疑ってみる必要があります。本当の自分自身が見て判断しているのか、感じているのか、考えているのかを、問うてみていただきたいのです。

 さあ、いかがでしょうか。幸福とは、この世で幸福であり、あの世でも幸福であるということです。信仰が全てを支配しているあの世の世界においては、すなわち信仰を持っているということが幸福の大前提なのです。

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