今求められる「宗教的価値観」「あの世の悟りの世界」
私たち地球に住む「地球人」は、地上に下生した根本仏から偉大なる悟りの機縁を与えられているという人類史上ない最大・最高・最強・最勝の幸福な立場にあるのです。
「諸行無常」 「諸法無我」 「涅槃寂静」 「光明荘厳」
全世界に主エル・カンターレの教えを拡げ、この地球を幸福な人びとで満たし、この美しき青き地球を光明で満たし荘厳な輝きの星とすべき使命が与えられているのです。そのためのユートピア建設創造をしていかなければならないのです。
諸行無常
諸行無常は、時間的な流れの中で、一切のものが変化変転していくことを中心に捉える思想です。
仏教における時間論です。 すべてのものは移ろいゆくものである。 変化変転していくものとして、一切の現象を見つめなさい。 一切の現象のなかには、物質や肉体のみならず、あなた方の心のなかに生起し、去来するものも含まれている。 すべてものは流れ去っていくものである。 そのような、川のながれのようなものであるのだから、執着してはいけない。 何一つ、「自分のものだ」と思ってつかんではいけない。 「これが私だ」と思ってもならない。 「私のものだ」と思ってもならない。 そこのあるものを所有しようと思ってもならない。 すべては過ぎ去っていく。 親であったものも親でなくなり、子であったものも子でなくなる。 夫婦であっても、友人であっても同じである。 すべては変化変転のなかにある。 そのようななかにあって、ほんとうに自分自身の人生を考えるならば、執われから脱しなくては、自分自身のほんとうの姿はわからない。 人は固定化し、固形化したもののなかに、自分を求めようとするが、そうした試みが、かえって、本来の自己というものを見失わせることになっている。 しかし、そうではなく、「変化のなかにすべてあるのだ。 変化変転してくことこそが真理なのだ」と思ったときに、「さあ、そうであるならば、流れゆく川のなかを下っていく筏のように、自分は生きていかねばならないのだ。 この川の流れを止めることができないならば、いかに竿を操って川を下っていこうか」と考えていかねばならない。 これが人生の真実なのである。
このような智慧を得ることによって、無明が破られ、「悟りの境地」が得られるのです。 これを「慧解脱」といいます。 真理知識を獲得することで、自由な境地に到ることが可能となるのです。 真理の知識を知っていれば、迷わなく済むこと、犯さなくて済むこと、悩まなくて済むこと、間違いを犯さなくて済むこと、そして心に毒を生じさせたりしないで済むことをようなことを、知らないがために様々な出来事に巻き込まれて苦悩し、煩悶し、罪を犯したりして、心を曇らせてしまうのです。 真理の智慧、真理知識、深い知識を得ることで、迷いという名の束縛を断ち切って、心の自由を得るこれが「慧解脱」なのです。
諸法無我
諸法無我は、空間的観点から考えて「一切のものは実在ではない。 すべてのものは、本来の世界から見たならば、夢幻の世界なのである」という思想です。
あなた方が「本当のものだ」と思っているこの世の出来事は、ちょうど夢のなかで見ている世界と同じで、目が覚めてみれば、何一つ本当のものではない。しかし、夢を見ている最中にあっては、あなた方は、夢になかで会っている人と実際会っているような感じがするであろう。建物も実感があるであろう。食べ物も実感があるであろう。相手の笑顔や仕草までわかるであろう。握手しても、手を握っている実感がするであろう。けれども、目が覚めたときに、すべてが夢であったことがわかる。しかし、それが単なる夢でなく、現実こそが夢であり、夢こそが現実であるという、恐るべき逆説が、人生最大の逆説が、そこに現れてくるのである。あなた方がこの世において現実だと思っているものこそが、実は夢なのである。この世に生まれ、魂として肉体を被って生きているけれども、これが実は、実在界と言われる世界から見たら、あの世における死なのである。あの世において魂が死んでしまい、いったいどこに行ったのだろうと思っているあいだに、夢のような状態で、この地上で肉体に宿り、生・老・病・死を繰り返しているのである。 そして、また還ってくるのである。
こうしてみると、この世において、あなた方が実際に見ているすべてのものが仮の存在なのである。これを、諸法は無我である、すべての存在は無我である、と言っているのである。要するに、自性なるものがない、自ずからなる性質がない、すなわち、それ自体として恒常なるもの、永遠なる存在は、この世においてはないということである。そして、この「法」というものは、単に「存在」の説明にとどまることなく、もっともっと深い意味において、大宇宙に経綸をも感じさせるものがある。すべての物質、物体、存在を無我ならしめているもの、そこに流れているものは、いったい何であるか。そこに、仏のひとつの念いというものが流れている、あるいは、仏の念いというものが、すべての現象を仮に表わしてくれている、ということに気がつく。無我であるということは、本来は存在しないものであると同時に、また、ある念いによって仮に存在しているということである。そして、あなた方の魂修行の場を提供してくれている。本来、あるものではないにもかかわらず、ある偉大な力によって仮に存在せしめられていて、それが魂修行の場になっている。 これが「諸法無我」という教えなのである。だから、この世をあらしめているその力のなかには、また我なるものもない。すべてを生かしめ、育み、大調和のなかにおいている、そのような、滞ることもなく、引っかかることのない、偉大なる、目に見えぬ力というものが、そこに働いている。その本源なる力もまた、無我なる力である。 無我なる力の上に、無我なる存在が浮かんでいる。これが、大宇宙の実相なのである。
涅槃寂静
三番目に涅槃寂静の教えがあります。 涅槃とは、初期仏教においては、修行者の目的であって、非常に憧れをもって探求去れた境地であると言われました。 そして、その涅槃の境地を一番最初に味わい、自分のものとして享受したのが釈尊だったわけです。
諸行無常で、変化変転する諸存在を捉え、諸法無我で、一切は空であると観じ、時間と空間、そのすべてにおいて恒常なるものは何もないという悟りを得る。そして、そのなかで現に存在し、修行をしている私というものはいったい何であろうか。この意味を追求することこそ、涅槃寂静の悟りなのです。
すべての時間的観点から見た場合に、すべてのものは流れ去っていくものである。 そして、空間的観点から見ても、すべてのものには、本来、我なるものはない。 自性なるものはない。 永遠につづいていくもの、自分自身が生み出していく力によって続いていくようなものは、何ひとつない。 現にあるものはすべて、それ自体で成り立っているものではない。 何かによってつくられたるものであり、また、必ず亡びていくことが確定しているものである。 それが、この世の存在である。 時間において無常、また、空間において空。そのような思想のなかで生きている我とは何であるか。 「我思う、ゆえに我あり」という思想もあるであろう。しかしながら、そのような時間的・空間的観点において、何ひとつつかみどころのない、そのような縦と横の交わる交差点、 その十字架のなかに立っている我とは、いったい何であろうか。 それを深く考えなければならない。 そうしてみると、実は、本来の自己なるものは、この肉体に宿って、特定の名前を持ち、特定の両親を持っているあなた自身ではないはずである。 おそらくはそうでない。 空間的にも時間的にも、一切がつかみとることができない。 そのなかに生きている我のみを、ほんとうにつかみとることができるのだろうか。 そうではない。 その我というものも、実は、仏の永遠の時間と空間のなかで、仮に存在あらしめられ、その掌において、遥かに見えている存在である。 川にたとえるならば、その川を流れていく泡沫、その泡にしかすぎない。 そう、いつか川の中から、水の中から生まれ、そして必ず消えていくことになっている泡沫の自分。 その自分が、その泡沫のごとき自分が、「自分とはいったい何であるか」ということを考えている。 考え、考え、考えぬいて、そして永遠の実相なるものをつかみとっていく。 そこに涅槃寂静の境地が開けてくる。 すなわち、自分というものを通して、本来の姿を、その意図を、その光なるものを見ぬいていくこと。 そのためには、己というものを、限りなく空しくしていかなければならない。 涅槃寂静とは、このような悟りであり、これが「三法印」と呼ばれるものです。
永遠なる実相というものを、現在只今において知ること。その悟りの力をもって、この現象界を生き渡っていくこと。生きながらにしてその悟りの世界に入ること。これが涅槃に入るということなのです。「過去・現在・未来という三つの世界(三時業)、その時間を人間は生き渡っていく存在である。その間の因果の理法は昧ますことができない。これが仏教の中心的考えである」 人間は、過去・現在・未来と流れていく時間の流れのなかに、そして諸法無我のなかに、いま忽然としてある自分を見つめることによって、時間と空間の壁を突き破って、本来の自己に目覚めようとする、大宇宙と一体、仏の心と一体の自己に目覚めようとする、そのような悟りを求めている存在なのであります。
幸福の科学では、今世さらなる悟りの高みを目指して『光明荘厳』なる教えも説かれています。これを如来の四法印と言います。