重重無尽

 この世は、霊的な観点から見ると、本当にこの世というものは移ろいゆくものであり、何一つ確かなものはないという観点が諸行無常ということです。この世のありとしあらゆるものは、生成発展枯死を繰り返し、まさに「諸行無常」なのです。これには、人間が生きていく上では、「肉体を中心とする煩悩に執われた生き方をしていては、人間としての悟りは得られない。本当の意味の幸福も得られない。だから流れ去るものに執着してはいけない」 これが過去釈尊が説かれた諸行無常の教えなのです。それから、諸法無我という教えがあります。「一切皆空と同じ教えであり、すべてのこの世的存在は、一切が『空』であり、本来霊的な存在のみが実在であって、それ以外のものは実体がないのである」「目に見えるもの、触れるもの、そんなものに執着してはならない」 これが諸法無我の教えです。 簡単に言えば、霊的存在が、あの世とこの世の循環していることであって、この世的ものに執着するなかれと言っているのです。私たち人間はこのような、「諸行無常」「諸法無我」なる存在ではあるのですが、では何ゆえにこの世にいきているのでしょうか。いったい何のためにいきているのでしょうか。それを考えてみたいと思います。私たちの肉体面をとって考えてみると、両親によってこの世に生まれ,ミルクを飲み、様々な動植物の栄養を取り入れ、身体は成りたっています。骨にしても皮にしても、肉にしても髪の毛にしても野菜や肉やその他の栄養を取り込んでその外見をつくっているのです。それを考えると人間とは不思議なものであります。自分の仕事も自分だけのためではなく、会社で働いていることも、回りまわって多くの人に影響を与えています。そして、自分もまた、両親と同じように子供を残し、後の世に分身を残して、親から子、子から孫へと受け継いで生きます。  

 このように人間は、縦の流れとして、先祖から両親、そして自分、自分から子供、子供から孫へというように、長い生命の連鎖を持っています。これが「時間縁起」といわれるものです。こういう連鎖があります。それから、現時点で生きている自分というものは、他の多くの人々の影響を受けて生きているのです。人間のみならず、動植物、太陽の光、水、空気など様々な恩恵を受けて現にいきています。このように横の影響を受けて生きている存在である。―これが「空間縁起」といわれるものです。こうしてみると、人間というものは、何と多くのものの支えがあって生きているものでしょうか。そうです、まさに生かされているということなんです。 「真実の自己」なるものを探求し、自分なるものを求めようとしてきたが、本当に真実の自己というものがあるのだろうか。そう考える方もいらっしゃるかもしれません。そこで、「重重無尽」という教えについて考えていただきたいのです。「重重無尽」とは、ある意味では、ちょうどこの大宇宙に大きな網のようなものがあって、人間というものは、その網と網の結び目、縦と横の結び合わさった結び目そのものに他ならないという教えです。仏神が、この地球のみならず、全宇宙に大きな投網を投げられた。その投網の結び目の一つひとつが、一人ひとりの個性ある人間なのかもしれないのです。おそらく、人間の存在とはこうして、お互いに依って立つ存在、お互いに助けあってはじめて存在するものなのでしょう。こういう考え方を、仏教では重重無尽といいます。華厳経によれば、鏡を十個つくり、中央にローソクを置くと、その光が何重にも複雑に映し合って際限がない様をいいます。「重重無尽帝網」「帝網重重」ともいう場合があります。この世という空間は、時間縁起によって個人が選択してきたカルマ「業」と、様々なグループや人類全体が選択するカルマ「共業(ぐうごう)」が複雑に絡み合って形成されてきたものなのです。これを仏教では「縁起の法」と呼んでいます。このように人間を含む森羅万象は、個別にばらばらに存在しているものではなく、全体で『宇宙樹』というものを形成している『霊的生命体』なのです。大宇宙の創造主である根本仏は、その「宇宙樹」そのものであり、全てを内包する巨大な霊存在であるといえるのです。この宇宙樹を構成している、重重無尽の結び目としての人間が真に幸福であるためにも、宇宙樹自体が見事に調和していなければならないのです。これが、仏神が、この宇宙も人間も存在あらしめている目的とでも言えばよいのでしょうか。 この仏神の目的なるものを探求していうことが『悟りへの道』であり、その先に『涅槃寂静』という幸福の境地が現れてくるのです。

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