空

 『空』とは、仏教における中道論です。

 その中道論には、大きく分けて「実践論としての中道」と「ものの見方考え方」の2つがあります。そのなかで、後者のものの見方考え方のなかで、人間存在―存在論についての中道論で、それが「有無の中道」というものです。これは、例えば物は有るか無いか、人間は存在するか存在しないかということについての議論です。人間は、様々な物事についてすぐにどちらか一方で片付けようとする傾向がありますが、釈迦仏教ではこれとは一線を画した考え方を持っています。「私たちが、目で見ているものは、確固として存在するように見えるという事実は否定できないが、そこに有るということが本当に実体である、本当に実在であるということにはならない」と釈尊は教えていたわけです。であるならば、物は存在するのか、存在しないのか。人間は存在するのか、しないのか。有るのか無いのか。これが結局、仏教で言うところの「空」の思想につながっていくのです。 この『空』の思想は、中道論であって、その有でも無でもない中なる道が『空』なのです。 『空』とは、中道と同じ意味であって、「空即中道」「中道即空」「一切皆空」なのです。この『一切皆空』の執われのない境地が「阿羅漢」と呼ばれるものなのです。執われのない流動性の中に流れる縁起の理法、その空性なるものが永遠の生命を内包する実相の世界であるということを仏教では『八不中道』という言葉で説いています。その『八不中道』 八つの中道とは、「不生不滅」「不滅不生」「不常不断」「不断不常」「不一不異」「不異不一」「不来不行」「不行不来」。この八つの中なる道を「八不中道(はっぷちゅうどう)」といい、「空」の真髄を表わしているのです。生じるものでなく、滅するものでもない。永遠の生命があるということです。常なるものでなく、断ぜられるものでもない。永遠にそのままの姿でもなく、死ぬことで全てが無に帰するものでもない。つまり、霊的生命が実相であるということです。一つでもなく、複数の姿でもない。一なるものでもなく、多なるものでもない。一人であって一人でない。潜在意識の中に魂があり、本体一分身五の六人が一つになって、魂の兄弟が地上に生まれたり守護霊をしたり、共に成長しながら転生輪廻している。こういう、生命の神秘があるのです。

 来るものでもなく、去るものでもない。霊界とは、遠い遥か彼方にある世界ではなく心の中にあるものなのです。心は菩薩や如来界または地獄・餓鬼、畜生界にも通じ、来ることもなく、去ることのない三千世界に通じているものなのです。つまり、天台智顗が説いた「一念三千(いちねんさんぜん)」とはこのことをいうのです。

 これが、大乗仏教の祖とも言われる龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』に記されている、真実の人間の存在を的確に表した『空』という言葉の説明なのです。そして、私たち人間はこの空なる存在として生かされ、また無限の愛を与えられている存在なのです。それは、こういうことです。私たち人間には、自由が与えられています。しかし、その自由には責任が伴っているのです。この責任は、「各人が自分の心をコントールせよ」 「幸福になるというのは、権利ではなく、義務である」ということであるのです。これが、自由に伴うところの代償なのです。自由の代償は、心をコントロールすることによって幸福になる「義務」なのです。では、心のコントロールにおいて一番大切なものは何でしょうか。それは、自分の思いと行いを反省することなのです。間違った思いを持ったなら、それを即座に修正し、良き思いに変えていくことです。間違った行いをしたならば、迷惑を掛けた人びとに詫び、仏神に詫びることです。そして、それより後、素晴らしい人生を築いていくことです。仏神は、各人の心に最大限の自由を与えられました。自由が与えられた反面、その自由に行使の結果、間違いがあれば、それを修正することが許されているのです。そして、各人が幸福を享受できるようにされているのです。これが、仏神が人間に与えてくれている最大の愛、無限界の愛、無限の愛なのです。人間に自由を与え、その自由の結果、間違ったなら反省することをも許されている。反省することによって、幸福になる義務を実践することができる。これは無限の愛なのです。私たちは、一人ひとりが、その素晴らしい無限の愛に気がつかなければけいけないのです。『仏の愛 無我なる愛』が、私たち人間を生かしめている。それを知ってください。その『無我なる愛』とは、このようなものでしょうか。漆黒の闇のなかにポカンと浮かんでいる地球の存在と言うものを感じたことはあるでしょうか。日常の忙しさに紛れていれば、そんなことを考えることもないでしょう。しかし、そんな人間の愚かしさをも微塵も感じさせずに地球は廻っているのです。無我なる愛のうえに無我なる存在が浮かんでいるのです。また、この地球はどのように誕生したのでしょうか。そして、この地球を含めた宇宙はどこに向かおうとしているのでしょうか。そんなことを考えたことはないでしょうか。 度、静かな時間をとって、宇宙の静寂(しじま)に心を向けてみませんか。この世の喧騒を忘れ、あの世の静寂に身を委ねてみませんか。きっと、そこに忘れていた何かを思い出す方もいらっしゃるかも知れません。この地球も月も、太陽も、宇宙の星星も、生命あるすべての存在は、この『無我なる愛』のエネルギーによって生かされているということを知ってください。この『無我なる愛』とは、この大宇宙を創造した『仏の慈悲』そのものなのです。夜空に散りばめられた数限りない星々も仏の慈悲の現れなのです。夜の空に煌めく星々に思いを巡らしてみてください。そこに無我なる愛が実感できるでしょうか。『空』の悟りを深めていくことによって『無我なる愛―仏の存在』を実感できるようになることでしょう。

心を無限遠点において視てください。

遠い遠い世界からこの地球を視てください。

そこ、かしこに、小さなものが、点にように動いているのが視えてくるでしょうか。

それが人間なのです。

あの点も、この点も、みんな、幸福を求めて動いているのです。

そして、地球も、小さく、くるくると廻っています。

遥かなる眼が、それをやさしく眺めています。

 昨日の自分は、今日の自分と同じではく、今日の自分は明日の自分と同じではないのです。 そのように不変の存在ではない「色」 それはすなわち『空』であるということなのです。 そこで、『空』には三つの説明ができるのです。 一つ目は、この世とあの世の循環を説明した言葉です。 二つ目は、仏神の光と物質化現象を表す言葉です。 三つ目は、縁起の理法を説明した言葉です。

 

この世とあの世の循環を説明

 人間は、あの世とこの世を転生輪廻している存在でありますが、次のようにも言えるのです。  

 人間は、肉体のなかに宿って一生懸命、悩んだり、苦しんだり、喜んだりしながら一生を送るわけですが、一生という劇が終わって、舞台裏に帰ると、実はそれが学芸会のようなものだったということが分かるのです。王様の役をやったり、お姫様の役をやったり、兵士や殺される役や乞食の役をやったり、それぞれを演じているわけなのです。しかし、舞台が終わって楽屋に還ってきて「やれやれ」と言っている状態があの世なのです。そのように、劇や映画を上映しているように見えるのですが、それが本当に実在するものかと言えばそうではなく、仮のものなのです。しかし、現時点では、守護霊なるものがいて、あの世からそれを見ているのです。あの世に残された皆様自身の一部である守護霊が、この世というスクリーンに投影された皆様を応援している。これが真実の姿なのです。色即是空の「色」というのは、物質あるいは、肉体、草や木や犬や猫、人間など、この世的な存在のことです。この地上的な存在というのは、実は劇の一幕であって、舞台裏に引っ込めば、俳優の姿に戻る、これが「色即是空」です。しかし、素顔に戻って普通の生活をしているかと思うと、劇の時間が来たらきちんと舞台に立って、その役割を演じる。これが「空即是色」です。このように、肉体は、死後霊体になってあの世に還り、そして、またあの世(天上界)からこの世に肉体を持って生まれてくる。転生輪廻、これも『空』と言えるでしょう。

 

物質化現象を表す

 アインシュタインの有名な言葉、「E=mc²」を一言で言うなら『空』になるわけです。 「E=mc²」は、エネルルギー(E)は、物質の質量(m)×光速(c)の二乗と等価であるということです。これは、逆もまた真なりということです。

 宗教では、物質化現象というのは、よくある話で、例えば金粉現象などもそうです。何もないところから金粉が降ってきて、顔に付いたり、手に付いたりするようなことがよくあります。これは先程の原子爆弾とは逆の現象でしょうか。それから、癌などの病気などもこの『空』に該当する現象とも言えるでしょう。例えば体内にガンができるということなども霊的エネルギー作用として、そういう異物が体内にできるということです。ところが、宗教などでは、癌が消えるという現象がよく起こります。病院で癌だと言われて病巣があったのだけれども、再度レントゲンを撮ったらガンが消えいていたという奇跡がよく報告されていたりします。このようなことから、『空』が説明できるのですが、目に見える存在というのは、実は目に見えないものから現れてくることがありえるし、現に目に見えるものであっても、目に見えない世界へと消えてしまうことがあるということがありえるのです。  最先端の物理学では、このようなことは幾らでもあるようで、例えば素粒子の世界では、消えたり出たり、まるで幽霊のような素粒子、クオークなるものがあって、物理学者もこれについては、よく分からないようです。光のようでもあるし、波のようでもあるし、粒子のようである、そういう性質を持っているようなのです。もっと物理学が進んでくれば解明されるのかもしれませんが、簡単に説明するとするなら、物質化と霊的エネルギーの還元と言えば分かるでしょうか。これは最後は、信仰の世界に突入しなければ説明できない。その意味で幸福の科学の仏法真理は物理学の世界を超えていると言っても過言ではないでしょう。  

 以上の二つは、三法印でいう『諸法無我』の悟りなのです。

 

空と縁起の関係を説明

 従来の仏教でもよく使われる説明なのですが、「縁起」の関連で「空」を説明しています。 実在するもの、実体があるものは、変わらないものである、そこに確個としてあるもの、変化しないもの、現にあり続けるものという考えがあります。 しかし、この世のものを眺めてみると、何一つ実体があるというものは無いのです。

 最初に理念というか思いがあって、その後人間的な労力や部品や材料が集まり積み重なって、はじめてPCなるものが存在しているわけなのです。  これが、『縁起』と呼ばれるものです。原因結果の連鎖、と言えば分かるでしょうか。古い言葉で言えば「因縁」と言います。「因」とは、原因、元ということです。「縁」は、条件です。原因と条件があって、結果があるということです。これを『空』と言っているのです。 これが、『諸行無常』の悟りなのです。これは、『縁起』『空』で説明できます。例えば、「水」(H2O)。水素(H)と酸素(O)(因)があっただけでは水になりません。水素と酸素を混ぜて火をつける(条件)と燃えて水が発生します(結果)。  植物などでも同じです。種かがすぐに花になるわけではなく、土や水や太陽の光や栄養などが揃ってはじめて花がさきます。人間には「仏性」(仏の性質)は確かに宿ってはいるのですが、この条件にあたるのが修行なのです。

 仏になる種(仏性)は皆持っているのですが、その種子を咲かせるには、それだけの条件が必要なのです。花を咲かせるには花に適した条件が必要なように、人間にも努力精進という条件が必要なのです。そのために、今世という修行が与えられているのです。この修行は、幸福の科学で説かれている「愛と悟りと信仰」に収斂されるでしょうか。人間の本質である「心を磨く修行」が必要であるということです。そうして修行を重ねてはじめて仏や神という存在に近づいていくことが可能になってくる訳なのです 

 努力という「播いた種」によって、人間は確実に変わっていけることを肯定するのが、「縁起の理法」なのであって、これは大宇宙を貫く偉大な法則なのだっていうことなのです。 だからこそ、私たちには、自分が良い方向に変わるよう、日々地道な努力を重ね、心を良きものにしていくことが望まれている。

 心の作用とは、仏が人間に与えた偉大な創造作用なのです。その心の作用には、「思い」「想い」「念い」の段階があって、「念い」には、物理的な力があるのです。  この仏から与えられた「心の力」の凄さ、素晴らしさを知ったとき、私たちは、自らの心をよく振り返って調和し、自らも幸福になり、また他の人も幸福にしていく、そしてユートピア世界を創ろうとして修行している存在なのです。こういう『涅槃寂静』の悟り境地を目指しているのが幸福の科学なるものなのです。

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