「思い」「想い」「念い」

心の作用・働き  

 心の作用とは、仏が人間に与えた創造作用である。

その心の作用には、「思い」「想い」「念い」の段階があって、「念い」には、物理的な力がある。

人間の正体というのは「思い」なのです

念いが実現する

 人間は、仏によって創られた意識体であり、魂であり霊なのです。  「想い」は、よく人に通じるといいます。心の中で、ある人を好きだなと思っていると、その「想い」がいつの間にか相手に伝わり、相手もこちらに対して好意を持ってくれるようになる。そういうことが実際にあります。また、反対に、心の中で、ある人を嫌っていると、その嫌いな「想い」がいつの間にか相手にも伝わって、妙によそよそしくなってきたりします。こうした以心伝心ともいえるようなことが現実におきたりします。  それはなぜかというと、心の作用とは、実は、仏が人間に与えた創造作用だからなのです。  

 仏は念いによって、各次元構造をつくりました。三次元宇宙を創り、人間の魂を創り、人間の肉体をも創ったのです。人間そのものが、仏の意識体の一部であり、ひとつの完結した小宇宙もあるわけです。従って、人間の心の作用は、即ちこれ、仏の創造作用と同種同根のものだといえます。つまりは、心のなかで考えること、思うことの一つひとつが、この三次元宇宙空間と、多次元空間のどこかに、何かを創造しているのです。そして、各人の“おもい”の総合体が、実在界をつくりあげている力となるのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「心の作用とは、実は、仏が人間に与えた創造作用なのです。仏はおもいによって、各次元構造をつくりました。三次元宇宙をつくり、人間の魂をつくり、人間の肉体をもつくったのです。人間そのものが、仏の意識体の一部であり、ひとつの完結した小宇宙もあるわけです。したがって、人間の心の作用は、すなわちこれ、仏の創造作用と同種同根のものだといえます。つまりは、心のなかで考えること、思うことのひとつひとつが、この三次元宇宙空間と、多次元空間のどこかに、なにかを創造しているのです。そして、各人のおもいの総合体が、実在界をつくりあげている力となるのです。  

 ところで、おもいとひとくちにいっても、おもいにも、やはりいくつかの段階、程度の差があります。まず、「思い」は、日常生活のさまざまな瞬間に、心のなかに去来するおもいであり、各人の通常の精神活動の一環だといってよいでしょう。つぎに、「想い」は、ある程度具体性のある考えです。「思い」が、海岸に一日中寄せては引いてゆく波のようなものだとすれば、この「想い」とは、ある程度、継続性があり、具体性のあるビジョンであり、それを視覚化し、映像化することができるものだということができます。「想い」は、ストーリー性をもっており、たとえば、流れてゆく川の水のように、継続性と方向性があるものなのです。 さらには、「念い」という段階があります。ここまでくると、おもいも、はっきりとした創造性をもっています。また、それだけでなく、ひとつの物理的な力をもっています。いわゆる念力の「念」です。四次元以降の多次元世界では、この「念い」が仏に似た創造作用をもって、いろいろなものをつくり出していますが、三次元世界においても、かなり物理的な力をもった精神作用だということができます。たとえば、ある人をよい方向に導きたいという「念い」が集中してくると、その人の心境が一転したり、その人の環境が急転回して、好転したりすることが現実に起きてきます。これは、個人の場合ですが、集団でも同じことがいえます。この地上を仏国土ユートピアにしたいと願う人が、何十万、何百万と出てきて、その「念い」が集中、増幅されてくると、地上世界の一角から光が出てくる。そして、人々の心にその光が浸透して、どんどん幸福な世界がひろがってきます。そのため、この地上界が、「菩薩界」にとかわってゆくのです。もちろん、この反対のケースもあります。この地上界が、人々の悪い念い、すなわち、憎悪、怒り、利己主義などの念いで満ちてくると、どうなるのか。霊眼で見ると、まるで雷雲を思わせるような、黒雲のごとき想念エネルギーが地上世界のいろんなところにポッカリと浮かび、この想念体が、さらに大きな混乱を地上に起こすための物理的な力にかわっていっているようです。  このように、人間の心の作用とは、すばらしいものであり、反面、こわいものでもあります。そのためにこそ、私たちは、自分自身をよくふりかえり、心の作用を確かめる必要があるのです。」

「人間は、自分の考えているとおりのものになる」

「自分の考えているところのものが、自分自身である」

 心の力、心の偉大さは、過去の偉人も様々な言葉で語ってきています。 釈尊、ソクラテス、近代ではエマソン、ウィリアム・ジェームスなども言っているのです。

 人間は考えたとおりになるのです。

 人間の「念い」「心の作用」には、力があります。

 心構え、考え方、思考には、人間を変える偉大な力を秘めているのです。

 その力は、自分も未来も変えられることができるのです。

 人生を発展させるには、成功した姿、自己像を描くことです。

 明るい未来を引き寄せるには明る未来を描くことです。

 未来は、未来を描くことから始まるのです。

 現在の世の中を見渡してみると、あちこちで犯罪が増えています。世に言う「犯罪」という言葉は、思いより行為を対象としており、他の人の権利を侵す行為が犯罪と呼ばれています。しかし、これは、ほんとうの心の秘密を知らない人の考えであると言っても過言ではないでしょう。ほんとうに犯罪が起きているのは、心のなかにおいてなのです。行為として、この世に現れた犯罪は、心のなかに現れた犯罪の十分の一にしかすぎないのです。この地上から、他人を害する行為をなくすには、まず、人の心のなかから、他人を害する思いをなくさなければなりません。他人を害する思いを人のこころからなくすことができて初めて、他人を害し、他人の権利を侵す行為が地上から消えてなくなるのです。  思いが原因であり、行為は結果です。結果をなくすためには、原因を探求し、原因の根を取り除くことが肝心です。それでは「思いにおいて犯罪を犯さない」とは、どういうことでしょうか?  それは「他人の権利を侵害しない」という消極的な考えが中心であってよいわけではなく、積極的に、「他の人々を幸福にしていこう」という思いをもつことから始まるのです。よく言われるように、人間の心は同時に二つのことを思うことができません。心のなかに悪いことを思い描かないためには、悪いことを取り除くことに専念するよりも、むしろ、よいことを思おうとするほうが大事です。良いことを常に心に描くようにすれば、必ず、悪い思いは一掃されることになります。 よい思いを心に描きつづける行為こそが「心に悪を抱かず、悪を行なわない」ということを戒律として自分に課すことにもなるのです。いや、結果は、それ以上に素晴らしいものとなるでしょう。なぜなら、自分の心のなかが、他の人々への善意と愛に満ちているならば、その善意や愛を受けた人々も、必ずや喜びを胸に抱くはずだからです。彼らは、その喜びを心のなかに隠していることができるでしょうか。それを単に隠しているだけでは、「自分が人間である」という事実すら確認できないことになるでしょう。人間であるならば、他の人から優しい思いや行為、思いやりを受けた喜びは、必ず感謝となって表れてくるはずです。その感謝が愛を与えてくれた人への感謝になるか、それ以外の人々への愛の行為になるかは、時と場合によるでしょう。しかし、いずれにせよ、「悩みの渦中にあった人が、他人から愛を受けることによって、マイナスの発想をやめ、プラスの発想へと心を切り替える」という瞬間が生まれます。 これは実に大切なことだと思います。

(『限りなく優しきあれ』 より)

 

「心をコントロールする」ということの大切さ

 昨今の揺れ動く社会情勢のなか、自分自身の心をコントロールできなくて苦しんでいる方は多いことと思います。しかし、他人の心は自由になりませんが、自分の心だけは自由になる「心の王国」というものがあります。この心について、幸福の科学では、「正しき心の探求」というものを掲げています。 「正しき心の探求」とは、幸福になる心のあり方を求めていくことです。 「正しき心の探求」こそ、本当の幸福に至る道なのです。 そして、その幸福は、心のコントロール、心の中の“おもい”こそ、すべての出発点なのです。  この“おもい”が私たち一人ひとりの人生を変え、社会を変え、国家を変え、未来を創造していくのです。  “おもい”とひとくちに言っても、“おもい”にもいくつかの段階があります。まず、「思い」という、日常生活の様々な瞬間に、心のなかに去来する“おもい”があります。次に、「想い」という、ある程度具体性のある考え、継続性のあるビジョンであり、ストーリー性があり、視覚化し映像化できるような方向性をもった“おもい”があります。  そして、「念い」という段階があります。この「念い」は、はっきりとした創造性を持ち、ひとつの創造性を持っています。いわゆる念力の「念」です。  あの世と呼ばれる四次元以降の多次元世界では、この「念い」によってさまざまなものを創造しているのですが、この世、三次元世界においても、物理的な力を持った精神作用なのです。例えば、ある人を良い方向に導きたいという「念い」が集中してくると、その人の心境や、環境が一転し、好転してくるというようなことが現実に起きてきます。  これは祈りであったり、強い願いであったりすることもあります。  逆に、ある人を「憎い」という「念い」が集中してくると、その対象になった人が病気になったり、運命が悪化したりすることもありますが、このような念いは、地獄への道ですので、くれぐれもこのような念いを出さないようにしていかねばなりません。このような“おもい”は、集団においてもおなじようなことが起こり得るのです。この地上世界をユートピアにしたいと願う人が、何万、何十万、何百万と現われ、その「念い」が集中、増幅されると、地上世界の一角から光が出て、その光が人々の心に浸透して、どんどんと幸福な世界が広がっていき、この世界が天国的な世界、菩薩界、ユートピア世界へと変わっていくのです。もちろん、この反対もあります。この地上が、人々の悪い念い、憎悪、怒り、恨み、つらみ、愚痴不平不満、嫉妬、利己主義などの悪想念に満ちてくると、まるで雷雲のごとくの想念エネルギーが地上世界の色んなところに現われ、この想念体が、さらに地上に大きな混乱を引き起こすための物理的な力に変わっていくのです。

 このように、人間の心の作用とは、素晴らしいものであり、反面、怖いものでもあるのです。  だからこそ、私たち人間は、自分自身の心をよく振り返り、心をコントロールしていくことが大切なことになるのです。  天国・地獄の存在を信じている皆さんであっても、天国地獄というのは、地上を去った瞬間から始まると考えていないでしょうか。しかし、そうではないのです。天国・地獄というのは、あの世の世界にあるのではなく、実はこの世の世界のなかにあり、個人個人の心のなかにすでに存在しているのであって、あの世の天国・地獄というのは、その延長にしかすぎないということを知っていただきたいのです。今、それぞれの場所において、天国・地獄をつくりだしているのです。たとえ同じ場所にいたとしても、そこに天国をつくっている人と地獄をつくっている人というのが存在するのです。心の過ち、心の間違った人が地獄に堕ちているという姿があるのです。だからこそ、心を正し、 地獄的な心をなくし、この世に天国をつくり出していかなければならないのです。死んであの世に持って帰れるものは、お金も服も会社や名刺も地位や名誉も何も持って還ることはできません。あの世に持って還れるのは、心であり、悟りなのです。心をよくコントロールし、心を鍛えていく、これが幸福のための根本なのです。そして、この世をユートピア世界に変えていく力も、各人が正しい心を探求していくことから始まっていくのです。ですから、このような最小不幸社会という未来図ではなく、もう一度日本を発展繁栄に向けて世界のリーダー国家となって幸福な未来世界をつくっていくためにも、多くの方々が正しい信仰心を持ち、一人ひとりが自らの心を探求し、強い念いでもって幸福な未来を創造していかなければならないのです。

 

心の装い

 服でさえ、クリーニングに出し洗濯をするのに、なぜ心は洗濯をせずに、汚れたままにしておくのか。

 食器であっても毎日洗っているのに、なぜ心は洗わないのか。

 心も、もっと装いをしなければいけない。

 大川隆法総裁は、『不動心』で以下のように説かれました。

「「私はとにかく素晴らしいのだ」と考え、他人を寄せつけない性格になっていく人もいます。「私は素晴らしい。天下一品である。したがって、人から指図をされる覚えはないし、これほど偉い私を受けいれないのは間違っている」と考える人がいるわけですが、こうなると問題です。こうした人は天国には住めません。天国には調和的な人たちが集まっており、他人を寄せつけないような人、「私と合わない人は敵だ」というような考え方の人は、決して天国には住めないのです。そうしたあり方ではなく、自分も他人も生きる道を考えていかなければなりません。少なくとも、自分を変え、修正していく気持ちのない人は、ダイヤモンドの原石を磨いているとは言えないのです。「ダイヤモンドはダイヤモンドであり、泥がついていてもダイヤの指輪には変わりがない」と言って、ダイヤの指輪に泥がついたままで人前に出る人はいないはずです。きれいに磨いてから出ていくでしょう。これと同じく、自分の心というダイヤモンドの原石も、よく磨きをかけることが大事なのです。「よくそんな服を着てパーティーに出てきたな」などと、人は服装のことについてはずいぶん言いますが、心の装い、“心装”とでもいうべき事柄に対しては、なぜ何も言わないのでしょうか。心の衣装が汚れたままで、悟った人の前に出られるでしょうか。悟った人の目の前に立てば、心の汚れは一目で見えてしまいます。要するに、「心も、もっと装いをしなければいけない」と私は言いたいのです。たとえ生地が英国製の素晴らしい服であっても、クリーニングに出さなければ汚れていきます。服でさえ、クリーニングに出し、洗濯をするのに、なぜ心は洗濯をせずに、汚れたままにしておくのでしょうか。これを考えてみてください。やはり、心も美しくしていく必要があるのです。また、食器を毎日洗っているからこそ、食事がおいしく食べられるのです。洗わない汚れたままの食器では、食事がおいしくありません。いくらでも買い換えることのできる食器であっても、毎日洗っているのに、なぜ心は洗わないのでしょうか。食器でさえ毎日洗っているのですから、自分の心も毎日洗っていこうではありませんか。  それを面倒だと思っている人は、おかしいのです。なぜ、そうした恥ずかしい心でもって人に接し、偉そうに自分の意見を言えるのでしょうか。こうした点を、もっともっと反省してみる必要があります。」

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