なぜ仏がいても救われない人がいるのか

 仏は、この世に再誕され、貴重な救世の法を説いておられても、首根っこを押さえつけて強制的にすべての人に教え込む、というようなことはされない。

 そんなことをしたら、人間に自由意思がなくなって、ロボットのような存在になってしまうから。

 であるから、仏は、いくら手間がかかっても、いくらまだるっこしくても、「満月を指し示す」だけで、それを見るか否かを各人の意思にまかせておられる。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『悟りの極致とは何か』で以下のように説かれました。

「私は、すでにさまざまな話をしてきたが、それらの話は、あなた方自身が自分のものとし、それを他の人びとにもお教えし、その人が自分のものとしないかぎり、救いにはならない。 私のこの説法は、私の説いている法は、私の書物に書き記されているところの思想は、ちょうどあの満月を私の指がさし示しているのと同じであって、その月を見るのは各人であるのだ。

 いまだかつて、私はあなた方に月を見せることはできなかった。 さし示すことはしたが、月を見せることはできなかった。 満月の美しさを見せることはできなかった。 それを見た者があれば、それは己れの目で、己れの心で見たのである。 それが、この私の法を学ぶときに大事な要点でもあるのだ。 私は法を示すが、私は真理をさし示すが、その真理を魂の理解とし、そして己が人生を照らすのは、あなた方一人ひとりなのである。」

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