地獄

 地獄というのは、天国と同じような大きさであるように思われているが、実際はそうではない。天国(天上界)は、四次元の幽界からはるかなる高次元にまでおよぶが、地獄界は、四次元のなかの光のあたらないかげの部分にすぎない。太陽の光で解けない氷がないように、地獄もいつかは必ずなくなることになっている。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「こうしてみると、この三次元はもちろんのこと、四次元以降の多次元世界、高次元世界をもつらぬいて流れる愛とは、一体なんでしょうか。それは、ひとつの生命の奔流であり、滔々と流れ出してつきない、生命の水であるともいえます。実際に、霊的な目で、霊眼でもって、九次元から三次元までを眺めると、はるかなる高次元に源を発した愛の大河が、巨大なるエネルギーの河となって、九次元→八次元→七次元→六次元→五次元→四次元→三次元へと流れくるさまは、まさしく壮大な景観、一大パノラマです。  

 愛というのは、すなわち、このようにひとつの光線なのだといえます。それは、上流から下流へと流れ出して、とどまることを知らないひとつの力であり、あらがいがたい生命の勢いなのです。愛に敵なし。実際に、この霊的な愛の大河のパノラマを見てしまうと、愛に敵するいかなるものもありえないことが、はっきりとわかります。みなさんは、地獄というのは、天国つまり、神(仏)の世界と拮抗するだけの勢力だとお考えでしょうか。また、天国・地獄と大別されるような、一大世界だとお思いでしょうか。そうではないのです。神(仏)から発した愛という名の大河は、はるかなる上流に端を発して、強烈なる勢いですべてを押し流しているのです。地獄がある四次元世界というのは、はるかなる下流、河口のほうであり、物質万能とか、欲望とか、迷いとか、悪という名の塩の入った海水が、いかに河の水を塩化させようとしても、滔々と流れきたり、押し寄せてくる愛の大河の力には、あらがいがたいのです。愛は光です。光に勝てる闇がないように、愛に勝てる悪も、愛の大河を最後までふせぎきれる地獄もないのです。地獄は、天国に抵抗できるような勢力ではありません。それは、神(仏)のつくられた世界の一部に巣くうガン細胞であり、真水の河のなかに忍び込もうとする海水にしかほかならないのです。むかしから、地獄というのは、天国と同じような大きさで、天使と悪魔が対立しているように思われてきておりますが、実際はそんなものではないのです。天国──天上界というのは、四次元の幽界をスタートとして、はるかなる高次元にまでおよぶものです。それにひきくらべ、地獄界というのは、四次元のなかのよどみ、光のあたらないかげの部分にしかすぎません。もちろん、そのよどみも相当大きく、何十億人もの地獄界人口を擁していることは確かです。太陽の光が照射されて、解けない氷がないように、いつかは必ずなくなることになっているのです。地獄界の影響力が、過大評価されているのは、その基盤となっている霊域が、非常に地上界に近く、相互に容易に波動を受けやすくなっているからです。」

 大川隆法総裁は、『神秘の法』で以下のように説かれました。

「いまは、天国と地獄は、かなりはっきり分かれているのですが、以前は、まだ、そうでもありませんでした。地獄の人口が増えてきたので、地獄の人々をしっかりと隔離しなくてはいけなくなって、はっきり分かれてきたのですが、以前は、天国と地獄がまだ分かれていなくて、精霊界のような所で共存していた時代もあるのです。そういう時代には、やや天国的な霊は、いわば高台の上のほうで生活していました。住宅を買うときには、見晴らしのよい所は値段が高いわけですが、そのような小高い所で、やや天国的な意識の霊たちは生活していたのです。そして、いまで言えば、地獄的な人たち、低霊界、低位霊界の人たちは、同じ空間、同じ地域のなかではあっても、丘の麓のほうの、池や沼のあたりとか洞窟とかに住んでいました。「じめじめした沼地の地下に住んでいる」とか、「洞窟のなかに住んでいる」とか、だいたい、そのような感じで住んでいたのです。長らく、そういう状態でした。しかし、地域が同じなので、両者がお互いに接触する場面があります。両者が接触すると、やはり、不愉快なことが多いのです。お互いに不愉快な気分を昧わい、「あんなやつと一緒にいるのは嫌だな」という思いが、だんだん出てきます。それで、しだいに両者の距離が開いてきたのです。  「もっと、違う所へ行ってくれないか」ということで、悪い人たちがグーッと地下に押し込められたため、しだいに地下も大きくなって、地下帝国ができ上がってきましたし、天国のほうも、「一緒は嫌だから、少し、それらしくしてほしい」というようなかたちになり、霊界も、だんだん、住み分けがはっきりしてきたのです。あの世は思いの世界なので、その町の住民が、みんなで話し合って、「このような町並みにしよう」「このような生活空間にしよう」などと決め、思いを合わせると、そういう天国的な町並みになってきます。池や沼のあたりとか洞窟とかで、うろうろしていた連中は、いわば浮浪者のようなものでしょうか。公園などには怪しげな浮浪者がいたりしますが、あのような感じだったのです。そこで、「彼らを隔離しないと、町の値打ちが下がる。ちょっと嫌だから、彼らを押し込めようではないか」ということになり、大勢の人が、念力を合わせて、彼らをダーンと下に落とし、バシッと空間を仕切ったのです。そうすると、下のほうの空間ができます。そして、だんだん、それが大きくなってきたわけです。  そういう理由で天国と地獄が分かれはじめ、地獄が大きくなってきたのです。」

 

天国と地獄を分けるもの

 最も簡単な考え方は、「戒律に反した生き方をしなかったか」という観点であり、そのなかにも確かに真実が光っているが、しかし、天国・地獄をほんとうに分けるものは、戒律ではない。

 人生を通して、仏の子としての本質に気がついた人は天国に行き、その本質を発揮すればするほど高い天上界へ昇っていっている。

 一方、仏の子としての本質に気づかず、その芽を出さないままにこの世を去った人は、地獄界で厳しい試練を受けているのが、ほんとうの姿である。

 大川隆法総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「どのような生き方をすれば天国へ行き、どのような生き方をすれば地獄へ行くのか。この問題に関して明確に教えてくれるところは、現在、ほとんどありません。また、あの世の存在を信じている人であっても、自分の生き方を霊的な目で見たとき、天国にふさわしい生き方なのか、地獄にふさわしい生き方なのかが分からないのです。最も簡単な考え方では、いわゆる戒律に照らして、「罪」と「罪でないもの」とを分け、「罪の多い者は地獄に堕ち、罪の少ない者は天国に行くのだ」としています。これは昔から流行っていた考え方です。ここ何千年かの人類の歴史のなかでは、洋の東西や民族を問わず、こうした考え方がありました。有名なものとしてはモーセの十戒があります。モーセ以前にも、メソポタミア地方においては『ハムラビ法典』がありました。現代では法律というものがありますが、法律の淵源は何かというと、結局、光の指導霊たちが説いた法なのです。しかし、その法を人々に分かりやすく説明することが不可能なために、ときおり、それが戒律のかたちで教えられました。つまり、「これはしてもよいが、これはしてはならない」という戒律として与えられたのです。したがって、霊的な世界を知っている人間も含めて、大部分の人間にとっては、「自分は戒律に反した生き方をしなかったか」という観点を持てば、天国・地獄というものを考えやすいと思います。確かに、物事の善悪を容易に分けるという意味において、戒律には分かりやすい面があると言えます。最も典型的な戒律は、「人を殺すなかれ」というものでしょう。「人を殺せば地獄に堕ち、人を殺さなければ天国に行ける」というものです。あるいは、「物を盗むなかれ」という戒律もあります。「物を盗めば地獄へ、物を盗まなければ天国へ」という、こうした二分法的な考え方があります。これも一概には幼稚と決めつけることはできないのであって、そうしたもののなかにも確かに真実が光っていると言えます。しかし、天国・地獄をほんとうに分けるものは、そうした戒律ではないのです。結局、六十年、七十年の人生を通して、仏の子としての本質に気がついた人は天国に行っています。しかも、その本質を発揮すればするほど、高い天上界へ昇っていっているのです。一方、仏の子としての本質に気づかず、その芽を出さないままにこの世を去った人は、地獄界で厳しい試練を受けています。これがほんとうの姿なのです。」

 大川隆法総裁は、『釈迦の本心』で以下のように説かれました。

「みなさんが病気のとき、高熱に浮かされて見る夢は、どのようなものでしょうか。それは、真っ暗で、さみしく、冷たい世界の夢でしょう。あるいは、命をねらわれて追いかけられたり、穴に落ちたり、事故にあったりという不幸な経験を、夢のなかでしたことがあるかもしれません。そうしたときは、実は地獄の世界を霊的に垣間見ていることが多いのです。すなわち、地獄とは悪夢そのものでもあると言えるわけです。  夢のありがたいところは、目覚めれば何でもないという点にあるわけですが、地獄という悪夢はなかなか覚めず、覚めるまでに何百年もかかってしまいます。地獄の住人たちは、「これは悪夢に違いない。こんなばかなことが現実に起こるはずがない」と言いつづけていますが、不思議なことに、この夢だけはなかなか覚めません。夢がリアリティー(現実感)を持っており、その世界で新たな自己をつくらないかぎり、そこから抜け出すことはできないのです。したがって、あの世の世界は覚醒時と睡眠時とが逆転したようなものだと考えてよいでしょう。「自分は天国的な人間か、それとも地獄的な人間か」「自分の心の傾向性は、天国と地獄のどちらに向いているか」ということを知りたければ、自分が夢の世界で見るものをよく考えてみればよいのです。平和な世界のなかで人びとと喜びを分かち合っているような夢を、数多く見るならば、その人は天国的な人でしょう。反対に、いつも夢のなかで暗くさみしく厳しい環境に置かれ、心が休まるときがないならば、その人は睡眠時に地獄へ行っているのです。そうした悪夢を見ている人は、それが自分の来世の姿かもしれないということを実感していただきたいと思います。夢が夢でなくなったとき、あなたはどうしますか。そのとき頼りになるのは、仏法真理を知っているということです。仏法真理を学んでいるかどうかが、まさしく分かれ目となります。  生きているときに仏法真理をしっかりと学んでいれば、悪夢のような地獄の世界からどうすれば逃れられるか、その方法が分かるのです。しかし、生前に仏法真理を学んでいなかった人は、地獄には学校があるわけではないので、どうすればそこから逃れられるのかが分かりません。「知は力なり」という言葉は真理なのです。」

 

地獄に通じる心

 心素直に、自分の心の内に問うてみたとき、他人を責める気持ちが強くないか。人を恨む心、逆に自己卑下の気持ちが、はなはだしく強くないか。

 自分が他の人を注意するのは、その人のためか、それとも自分かわいさゆえか。

 自分に「与える愛」の心があるか。

 総裁は、『ユートピア創造論』で以下のように説かれました。

「私は過去に何百何千という数の地獄霊を見てきましたが、地獄霊に共通する特徴として、最初に思い浮かぶのは、人を責める思いがきわめて強いということです。人を責める思いをさらに分解してみると、まず、恨みの念が強いということがあります。恨みに思う心、あるいは被害妄想的な感覚がきわめて強いのです。つまり、「自分がいま幸福でないのは、他人に害されたからだ」という考え方です。そして、その人が念の強いタイプの場合は、他人に害されたという思いが、積極的に他人を恨んだり攻撃したりする気持ちになり、一方、念の弱いタイプの場合は、自己卑下的な方向にいくことになります。いずれにしても、他人のせいにする傾向がきわめて強いのです。もちろん、他人のせいにする考え方のなかにも、一部には合理的で正当性がある場合があります。世の中には明確に間違ったことをする人もいるからです。そして悪い結果が現われ、それが自分に影響を与えるだけではなく、まわりの人にも迷惑をかけることになります。その場合、その人に注意を与え、改善を求めること自体は、決して悪ではありません。社会において共同生活をし、一つの目標に向かってみんなが努力しているときに、それを阻害するようなことをする人に対して、「是々非々」で臨むこと自体が悪いわけではありません。ただ、「自分かわいさの観点だけで物事の善悪を見ている場合には、その思いは悪に転化していく」ということを知らなければなりません。ここがポイントです。幸福の科学の基本的な教えのなかには、「与える愛」と「奪う愛」という考え方がありますが、自分かわいさのために人を非難する場合、これは奪う愛の方向であり、地獄的な思いになっているのです。一方、与える愛の気持ちから、他人の間違いを指摘し、その人を善き方向に導こうとする行為は、決して地獄的なる行為ではありません。天使たちのなかにも、間違いを厳しく指摘して指導する霊人がいます。それは根底に愛があるから許され、是とされるのです。

 「善悪を見る目において、与える愛の側に立っているか。それとも、奪う愛の側に立っているか」ということを、よく知らなければならないのです。自分の心のなかを見たとき、奪う愛の側に立っていて、他人を責める気持ちが非常に強かったならば、地獄に行く可能性がかなり高いと思わなければなりません。自分が地獄に行くかどうかは、他人から指摘されるまでもなく、自分自身の心に問うてみれば分かることなのです。人を責める思いが非常に強く、一日のあいだに去来する思いのなかで、そうした気持ちが占める時間がかなり長いようならば、その心は地獄に通じている可能性が高いのです。」

(『地獄の方程式』より)

なぜ地獄に行くのか

 心のなかで思ったことまで人生のすべてが上映される。

 人は死ぬと身体がなくなり、「心のなかで考えていたこと」そのものになります。あなたの心をそのまま取り出したときに、それは天国にいる心でしょうか。それとも・・・

 あの世の世界は、自分の心に嘘のつけない世界です。その人の容貌も、その人を取り巻く環境も、その人の心の真実の姿を正確に反映してしまうのです。

 人は死ぬと、数十年生きた自分の人生をスクリーンで見せられます。先に亡くなった人々や陪審員のような人たちなど、多くの霊人たちが見ている前で、本人が忘れていることや、心のなかで思ったことまで、洗いざらい映されます。

 「私はどんな人生を送ったのか。自分は何者であるのか」を徹底的に見せられ、あの世での行き先を決定するのです。

 地獄とは、犯罪者だけが行く、というような場所ではありません。その人の生き様と行ったこと、心のあり方を総合的に評価され、まるで水より比重の重い物体が沈んでいくように、魂の比重が重い人が「堕ちて」いくのです。

 

 地獄の深い所までストーンと堕ちていくような人は、教えて分からせるのは無理なので、自分が間違っていたことが自分自身で分かるまで、似た者同士が集められた地獄で、徹底的に経験を積むことになる。

 たとえば、人殺しが集まった世界に堕ちれば、殺し殺されというように終わりのない戦いが続き、苦痛を味わう経験を重ねていく。

 そういう生活が嫌になってきた、ちょうどよい頃合いに、まずその人と縁のある人が天上界から助けにやってくる。

 大川隆法総裁は、『霊界散歩』で以下のように説かれました。

「地獄の深い所までストーンと堕ちていく人の場合は、もはや、「学校で教育を受ける」という段階ではありません。そういう人は、自分自身で分かるまで、まず、地獄で、いろいろな経験を積むことになります。彼らを学校に集めて教育することは無理なので、個人で嫌な思いをしたりして、「自分が間違っていた」ということを感じるところまで、徹底的に経験を積むことになるのです。これは、人によって、いろいろと道が分かれており、その人が心の傾向性として最も強く思っていたことが現象化した所に行きます。そういう所での経験なので、それは非常に強烈な経験になります。たとえば、人を殺して、改心もせず、死んで地獄へ行った人がいるとします。その人が行く世界は、どういう所かというと、人殺しがたくさん集まっている所です。そういう地獄には、自分より強い人もいるので、今度は、殺されるほうの経験もだいぶしなければいけなくなります。自分より弱い相手なら殺せますが、自分より強い相手には殺されてしまうのです。そのようにして、「人殺しというものは、いかに嫌なものであるか」ということを本人が分かるまで、毎日、徹底的に、殺し合いの経験をするわけです。殺し合いといっても、実際には肉体がないため、ほんとうの意味で殺すことはできません。しかし、肉体はなくても、その苦痛を味わいます。苦痛を感じる霊的神経の部分だけはあるのです。それで、人を殺し、相手が血を流しているので、「ああ、死んだな」と思うのですが、しばらくすると、相手はムクッと起き上がります。あるいは、自分が殺された場合も、「殺されて死んだ」と思っても、やがてムクッと起き上がります。そして、また殺し合いが続きます。このように、終わりのない戦いが続くのです。やくざ同士の抗争などを考えればよいでしょうが、徹底的に殺し合いをしているうちに、だんだん嫌になってきて、お互いに、「もう、やめたほうがよいのではないか」と思いはじめるときがあります。相手を殺して、「やった」と思っても、相手が生き返り、今度は自分がやられるのです。こんなことばかりを繰り返していると、たいていは嫌気がさすでしょう。「そういえば、生前も、こんな生活だったな」と思い、自分が恐怖心と憎しみと破壊の心で生きていたことに気づいて、そういう生活が、だんだん嫌になってくるわけです。その心境が、だいたい、菩提心の目覚め、悟りへの目覚めの段階です。本人が、「こんな世界から足を洗いたいな」と思うようにならないと、なかなか抜けられないのです。「もう足を洗いたいな」と思いはじめたころに助けがやってきます。ちょうどよい頃合いに、まず、その人と縁のある人が天上界から来ます。」

 人間が、選択の自由を行使することで得られる最大幸福のために、神仏は、人間に、魂の自由を与えられた。

 そして、神仏は、いわばその副作用として出現した地獄の底をも支え、抱きとめてくださっている。

 そこでの修行は、長く苦しいものかもしれないけれども、それを突き抜けてまた天上界に帰ったときには、最大の幸福がやってくる。

 総裁は、『理想国家日本の条件』で以下のように説かれました。

「人生の途上において、あなた方一人びとりに巡りきたるところの選択は、あなた方一人びとりが己れの決定でもって下したということなのだ。これが、魂の自由である。 この魂の自由こそが、あなた方のなかに宿されたる最大の幸福でもあるのだ。

 悲しみもあることを知って、喜びを得た者は、最大の幸福を手にしたのだ。 苦しみがあることを知りながら、その苦しみを突き抜けて、栄光を手にした者には、不幸は忍び寄る隙がない。 そう、あなた方は、ほんとうの意味における自由ということが、己れの魂の主人公であるという名の自由が、いかばかりの幸福であるかということを知りなさい。

 さすれば、あなた方が忌み嫌う地獄という世界であっても、その地獄の底を支えたる神の愛の手があることを知るであろう。 支えているのだ。 数十億の人が苦しんでいる、その地獄の底をも、神は支えているのだ。 抱きとめているのだ。 その事実を知らなければならない。 その苦しみが最大の幸福となる日を夢見て、抱きかかえている存在があるということを忘れてはならない。」

地獄の種類 に続く