天国と地獄を分けるもの

 最も簡単な考え方は、「戒律に反した生き方をしなかったか」という観点であり、そのなかにも確かに真実が光っているが、しかし、天国・地獄をほんとうに分けるものは、戒律ではない。

 人生を通して、仏の子としての本質に気がついた人は天国に行き、その本質を発揮すればするほど高い天上界へ昇っていっている。

 一方、仏の子としての本質に気づかず、その芽を出さないままにこの世を去った人は、地獄界で厳しい試練を受けているのが、ほんとうの姿である。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「どのような生き方をすれば天国へ行き、どのような生き方をすれば地獄へ行くのか。この問題に関して明確に教えてくれるところは、現在、ほとんどありません。また、あの世の存在を信じている人であっても、自分の生き方を霊的な目で見たとき、天国にふさわしい生き方なのか、地獄にふさわしい生き方なのかが分からないのです。最も簡単な考え方では、いわゆる戒律に照らして、「罪」と「罪でないもの」とを分け、「罪の多い者は地獄に堕ち、罪の少ない者は天国に行くのだ」としています。これは昔から流行っていた考え方です。ここ何千年かの人類の歴史のなかでは、洋の東西や民族を問わず、こうした考え方がありました。有名なものとしてはモーセの十戒があります。モーセ以前にも、メソポタミア地方においては『ハムラビ法典』がありました。現代では法律というものがありますが、法律の淵源は何かというと、結局、光の指導霊たちが説いた法なのです。しかし、その法を人々に分かりやすく説明することが不可能なために、ときおり、それが戒律のかたちで教えられました。つまり、「これはしてもよいが、これはしてはならない」という戒律として与えられたのです。したがって、霊的な世界を知っている人間も含めて、大部分の人間にとっては、「自分は戒律に反した生き方をしなかったか」という観点を持てば、天国・地獄というものを考えやすいと思います。確かに、物事の善悪を容易に分けるという意味において、戒律には分かりやすい面があると言えます。最も典型的な戒律は、「人を殺すなかれ」というものでしょう。「人を殺せば地獄に堕ち、人を殺さなければ天国に行ける」というものです。あるいは、「物を盗むなかれ」という戒律もあります。「物を盗めば地獄へ、物を盗まなければ天国へ」という、こうした二分法的な考え方があります。  これも一概には幼稚と決めつけることはできないのであって、そうしたもののなかにも確かに真実が光っていると言えます。しかし、天国・地獄をほんとうに分けるものは、そうした戒律ではないのです。結局、六十年、七十年の人生を通して、仏の子としての本質に気がついた人は天国に行っています。しかも、その本質を発揮すればするほど、高い天上界へ昇っていっているのです。一方、仏の子としての本質に気づかず、その芽を出さないままにこの世を去った人は、地獄界で厳しい試練を受けています。これがほんとうの姿なのです。」