悲しみや苦しみ

 この世とあの世の大部分には、悲しみと喜び、苦しみと楽しみというように、二元的なるものがある。

 仏が三次元の地上界や四次元、五次元という下位霊界を創ったのは、魂の進歩、向上というところに主眼があったが、それは相対の世界においてもたらされることが多い。であるから、方便として、悲しみや苦しみと思えるものを地上界や下位霊界においては与えている。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「普通は、「悲しみや苦しみは地獄特有のものであって、天国にはない」と言われています。それでは、人間が涙する、つまり泣くということを、仏はもともと予定していなかったのでしょうか。あるいは、天国にいる人は笑うことしかできないのでしょうか。こうしたことについて考えてみましょう。「喜怒哀楽は人間の基本的な感情である」ということは否めないと思います。喜怒哀楽、すなわち、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、こうした感情は基本的にあると言わざるをえないのです。  たとえば、喜びの反対にあるのは悲しみでしょうが、悲しみは喜びの不在かといえば、それだけでは説明のつかないものがあります。昔から一元論と二元論の争いがあって、一元論の立場からは、「悪は善の不在である」「寒さというものはない。それは熱の不在、暖かさの不在である」というような言い方をします。アメリカの光明思想家で、ニューソートの草分けの一人であるエマソンも、そのように考えていたようです。  確かに、これは一面ではあたっているのです。寒さは熱の不在であり、悪は善の不在でしょう。しかしながら、それだけでは説明できない何かがあるわけです。悲しみは涙を伴うものですが、涙が出るという現象は喜びの不在かといえば、必ずしもそうとは言えません。喜びがないだけでは、涙が流れることはありません。そこで、やはり悲しみというものもあることを、みなさんは知らねばならないのです。次に、楽しみの反対である苦しみという感情があるかないか、楽しみのみが実在で苦しみは実在しないのか、楽しみがないところに苦しみがあるのか こうした問題についても考えてみましょう。苦しみというものも、やはり、ないわけではないのです。たとえばテニスなどのスポーツをして、一時間や二時間、汗を流したあとは、さわやかさ、爽快感を感じます。しかし、その前には汗を流すという現象があったことは事実です。そうした肉体的な疲労や苦痛感が、その後の爽快感につながっているのです。このように、この世とあの世の大部分には、二元的なるものがあると言わざるをえません。究極の仏が、光一元であり、善一元であり、愛一元であって、善きものでしかないとしても、仏が三次元の地上界や四次元、五次元という下位霊界を創ったのは、魂の進歩、向上というところに主眼があったのです。魂の進歩、向上は、相対の世界においてもたらされることが多いのです。互いに切磋琢磨し、磨き上げることがなければ、向上することはなかなかむずかしいものです。一元論の世界、つまり喜びしかないという世界は、素晴らしいように見えても、ある意味では、ぬるま湯的な世界であることも事実でしょう。そうした理由から、仏は方便として、悲しみや苦しみと思えるものを、地上界や下位霊界においては与えているのです。」

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