この世の意味

 実在界を知ると、最初は、この世がはかなく虚しいものに見えてくる。

 しかし、そのはかなさの奥にあるものを深く見つめていくと、大いなる修行の材料として与えられていることに気がつき、さらには、肉体や物質も霊と同じ素材(仏の光)からできており、その現われ方が違っているだけだと気づくようになる。

 ここに至って、この三次元世界のなかにも、仏の創られた偉大な計画があることが理解できる。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『釈迦の本心』で以下のように説かれました。

「実在界の姿を知ったうえで、三次元の物質界、つまり地上界を見ると、いかなる世界に見えるでしょうか。それは海外旅行にもたとえられるかもしれません。初めて海外を旅行し、異国の風土に触れた人が、一ヵ月ぶり、あるいは一年ぶりに日本へ帰ってきたとき、日本の姿が非常に不思議に見えることがよくあります。たとえば、人口密度の高さ、車の多さ、道の狭さなどにあきれてしまったりします。同じように、実在世界を知ってしまうと、地上界、物質界にある人びとの姿が、なんとも滑稽に見えることがあるのです。その滑稽さの原因の一つは価値観にあります。高いところから眺めてみると、地上の人びとがせっせと働いている姿が、まるで蟻が砂糖の粒を運ぶ姿のように見えてきます。蟻にとって至上の価値を持つのは、巣のなかに食糧を運び込むことでしょうが、それを眺める人間からすれば、それがはかなく虚しいものに見えることが多いのと同じく、実在界を知った人間には、物質界は非常にはかなく虚しいものに見えてくるのです。ただ、それは最初の見方であり、次なる見方として、「はかなく虚しい物質界は、なにゆえに存在しているのか」ということに考えが至るようになります。そして、そのはかなさの奥にあるものを深く見つめていくと、「それは大いなる修行の材料として与えられている」ということに気がつくのです。さらには、「肉体や物質は霊と相対立するものではない。肉体も物質も、霊と同じ素材からできており、その現われ方が違っているだけだ」ということにも気づくようになります。霊をつくっているものは、仏の光、仏のエネルギーですが、物質界を構成しているものも、同じく仏の光、仏のエネルギーであることに気がつくのです。それはちょうど、水蒸気が冷却されると水になり、さらに冷却されると氷になるのに似ています。水と氷は別のもののように見えます。それは、水は水で、「私は霊だ」「私は実在界だ」と言い、氷は氷で、「私は肉体だ」「私は物質界だ」と言っているようなものです。しかし、両者はもともと同じものからできており、外観が違うだけなのです。したがって、最初は 「水と氷は違うものだ」と感じますが、さらに深く感じ取り、見極めていくと、「それらは本来、同じものであって、現われ方が違っているだけだ」と感じられるようになるのです。  ここに至ると、三次元世界の意味は、消極的なるものから積極的なるものへと、180度の転換をみるようになります。三次元世界のなかにも、仏の創られた偉大な計画があることを、人びとは感じるようになるのです。」