過去世の記憶がないのは

 人間に過去世の記憶がないのは、各人の魂修行を平等のスタートラインから始めさせるための仏の配慮であって、そのほうがはるかに意味のある魂修行となる。

 他の魂たちにとっても、指導者の魂がはるか先のスタートラインから、おれについて来いというのでは、努力の意欲をなくしてしまう。

 出自が偉大な魂(高級霊)であったとしても、他の平凡な魂たちと同じスタートを切って、さまざまな人生経験を経るなかで「努力」を重ねていくことで、偉人になっていくのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『黄金の法』で以下のように説かれました。

「人間として生まれて来る前に、それぞれの人が属していた霊層、次元世界というものは、もちろんあります。しかし、母の胎内に宿り、赤ん坊として生まれたときは、だれもが平等なのです。つまり、スタートラインは同じだと言えます。人間が、すべて過去世の記憶を忘れてしまうことは、各人の魂修行を平等のスタートラインから始めさせるための仏の配慮なのです。たとえば、過去世に、ミケランジェロ、あるいは、レオナルド・ダ・ヴィンチとして生きたことを記憶している子供がいるとしましょう。しかし、その子の人生は、はたして、それで幸福でしょうか。その子供が、過去世同様に、芸術家として生きることを今世の使命として持っているとしても、それを知っているということは、必ずしも幸せな少年時代を意味しないのです。やはり、他の少年と同じように、クレヨンで、下手な牛や馬の絵を描いて、小学校の先生に手直しされているぐらいでよいのではないでしょうか。やがて、長ずるに従って、自分の才能に気づき、芸術家への道を歩んでゆく。そのほうが、その魂としては、はるかに磨きをかけることができるのです。イエス・キリストも、処女マリアから生まれる必要はなかったのです。最初から、他の子供と違ったような、いかにも救世主然とした生まれ方をする必然性など何もありません。また、釈迦が、マーヤー夫人の脇の下から生まれ落ちる必要もないのです。たとえ救世主であったとしても、普通の子供として、他の子供と一緒に遊び、かつ学んでゆくなかで、人生への疑問を持ち、その答えを求めて修行をしてゆくうちに、真実の生き方に気づき、やがて、悟りを開き、世の人々を救ってゆく。それでよいのです。それでこそ、ほんものだと言えるのではないでしょうか。同じスタートラインに立って走り始める。しかし、やがては、レースのリーダーとなる。そういう人であって初めて、すぐれた指導者と言えるのではないでしょうか。指導者となるべき人が、他の人々よりも百メートルも先のスタートラインに立って、スタートを切る。そして、「後に続く者たちよ。おれについて来い」と言っていたのでは、だれもがやる気をなくしてしまうでしょう。栄光のゴールに到達するために、もっとも大切なことは、努力なのです。努力なくして偉人になるということは、まず、ありえないと考えるべきなのです。どのように偉大な人物であっても、やはり、同じくスタートを切って偉大になってゆくのです。人間の偉大さは、その心の広さであり、その志の高さにあります。そして、そのためにこそ、さまざまな人生経験があるのです。」