天国と地獄

 あの世には、天国と地獄という世界がある。

 そこは、この世の生き方と無関係ではなく、死んであの世に還ったときに、この世の生き方があの世ではどう評価されるのかが、有無を言わさず示されてしまう世界。

 自分中心で、他の人から愛を奪って平気で生きていた人は、あの世に帰ったとき、地獄に落ちてしまう。

 逆に、愛を与え合って生きていた人は、天国に帰ってから、互いにニコニコと幸福に生きている。

 それは、仏の子としての自分が拡大して、それだけ仏に近づいて、光が出てくるからです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『心の挑戦』で以下のように説かれました。

「私は地獄という世界にいる人に数多く会って、話を聞いてきました。すべての人が苦しみのなかにあります。闘争と破壊、執着、混乱、惑乱、嫉妬、羨望、戦い それも悪い戦いであって、自己欲のための戦い、醜い争いです そうしたものに満ち満ちた世界です。そして、どのような霊もみな、「自分がかわいい」という気持ちでやっているのです。自分がかわいいのに、自分が苦しんでいる。このギャップが埋められないので、ますます不満感が増大する。人のせいにし、環境のせいにする。自分がかわいいがゆえに、自分を苦しめている。こんな、まったく正反対の現象が現実に起きているのです。  この地獄霊たちのかわいそうなところは、みんな自分中心だということです。「俺が、俺が」「私が、私が」と言っています。その自分を捨てさえすれば幸福になれるのに、捨てることができないのです。一方、天国に還ってみますと、人々が調和して暮らしています。一人ひとりを見ると、他人に対して非常に親切に生きています。他の人に対して、お互いに親切に生きています。愛を与え合って生きているのです。そして、そのなかの人は幸福です。自分へ取り込もう、取り込もうという「奪う愛」を抑えて、人のために親切に生きようという人が集まると、お互いにニコニコと幸福に生きています。さらに高い菩薩の世界に行ってみると、ほんとうに人のために献身的に生きています。まさしく与えきりであって、与えるいっぽうの方が、そこでは現実に活動をしているのです。  ところが普通の人間は、「与えたら損をする。もらったら得をする」と、すぐ思ってしまうのです。その考え方が根本的に間違っているのです。物質の世界では、確かに、何かを与えたらその分だけ減ります。もらった人は、それだけ多くなります。お金でもそうです。しかし、霊界世界は、このまったく逆のことが起きるのです。与えたら与えただけ幸福になる、人のために尽くせば尽くすほど幸福になるのです。それはなぜかというと、仏の子としての自分、仏の分身としての自分が拡大するからです。自分自身がそれだけ仏に近づいて、仏の子として光が出てくるからなのです。この光が出てくることが、幸福感の増大と自己の拡大を、実は意味しているのです。自分自身が仏に近づいていく成長感があるのです。これが幸福なのです。それは、身体が大きくなる幸福ではないのです。仏に近づいていく、光の源に近づいていく幸福なのです。それは、重くなっていくのではなくて、身軽になっていくことであって、身軽な、爽やかな五月の風のような幸福感なのです。そのように身軽になるためには、「自分が、自分が」「自分のもの」という気持ちを捨てなければ、どうしても駄目なのです。