地獄の心

 地獄霊たちは、その不調和な波長では、母親のお腹に入れず、生まれ変わることができない。

 だから、地上の人に取り憑くしかなく、他の人の人生を破壊して喜んでいる。

 自分自身が幸福になるのをあきらめたとき、せめて人が不幸になれば、その分だけは喜べるという、誰もがかすかには持っているその気持ちが、地獄の心のはじまりなのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『幸福への方法』で以下のように説かれました。

「地獄霊たちは、この世に舞い戻ってきたくても、生まれ変わることができません。その不調和な波長では、母親のお腹に入れないのです。心が精妙になってこないと、母親のお腹に入れません。そのため、地上の人に取り憑くしかないのです。他人の身体を支配することによって、自分の第二の人生を送ろうとするわけです。そして、より破壊的な活動をします。人の人生を破壊して喜ぶのです。こうした心は、みなさんの心のなかにも、多少はあるのではないでしょうか。自分自身が幸福になるのをあきらめた場合、せめて人が不幸になれば、その分だけは喜べるという気持ちが、かすかにあるはずです。自分が幸福になれないのであれば、自分の知っている人がだれか失敗すると、「ああ、すっきりした。よかった」と喜ぶような気持ちが、どこかにあるでしょう。それが地獄の心の始まりなのです。一人ひとりが幸福になっていくのを喜ぶことが、いちばんよいことなのですが、人の不幸を喜ぶ心、人の人生を破滅させて喜ぶような心を持つようになると、これが地獄に通じているのです。地獄霊はこの世に舞い戻ってきて、そうした悪さをし、一人の人間の人生を破滅させます。破滅させられた人が死ぬと、その人もまた不成仏霊ということになります。そして、二人でいっしょに次の人をねらったりします。こうしたかたちで、地獄霊はいつも他の人を地獄の世界に引きずり込もうとしているのです。」

 

 霊の本質を知らない。人間が肉体ではないことを知らない。善いことをしなくてはならないのだということを知らない。自分が地獄にいることさえ知らない。こうした知らないづくしが地獄霊なのです。

 ところが、彼らに真理を教えてあげると、彼らははっとわれに返ることがあります。

 悪霊といわれる霊たちも、「しまった。自分はいままで偽りの人生を生きてきた。このままではいけない。自分はまっとうな生き方をしなくてはならない」ということに気づくことがあるのです。

 その瞬間です。真っ黒に見えていた霊体が光を放つのです。彼らの薄ぼんやりした頭の後ろに後光がさすのです。

 なぜ後光がさすのでしょうか。

 彼らがもし河原の石ころであったならば、磨いても光りはしないはずです。

 しかし、磨くと光が出るということは、悪霊やサタンといわれる者たちであっても、もともとはダイヤモンドであるということです。ダイヤモンドの原石なのです。だからこそ光が出るのです。

 ただ、そのダイヤモンドの原石が煤で曇ったり、泥にまみれたりしているだけなのです。通常人の目には、ただの石ころに見え、捨ててしまいたくなるわけですが、川の水で洗えば、それはまた燦然と光を放ちはじめるのです。

 こうしたところに無限の可能性があり、そして、無限の可能性が与えられているというところに、仏の無限の愛が表われているのです。 (『永遠の法』)

「仏法真理」へ戻る